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言って、猫を抱いていない寿史に手渡したのは、大正十年創業の老舗和菓子屋『桜猫堂』の〝ラム薫ドラ〟だ。
卵がたっぷり使われた、しっとり生地に包まれた北海道産大納言小豆を使用したあんに、絶妙の配合でマイヤーズのラム酒に漬けたレーズンが混ぜ込まれた一品で、頬張った瞬間ラム酒の芳醇な香りが口の中いっぱいに広がる大人のどら焼き。
レーズンは好き嫌いのある食材だが、天莉からのリサーチで、玉木夫妻が北海道土産で有名な、ラムレーズン入りのバターサンドが大好物だというのも織り込み済みの尽だ。
それが好きならこのどらやきも気に入ってくれるはずだと白羽の矢を立てたのだが、人気商品のため入手には結構苦労して。
結局最終的には見かねた直樹が、新幹線を使って九州まで出向いて買ってきてくれた。
もちろん、天莉にはその辺のことは内緒にしてあるし、直樹にも口止めしてある。
(気合いが入り過ぎだと叱られてしまいそうだし……何より直樹頼みだったというのが情けないしな)
実際には自分で買いに出向きたかった尽だが、山積みの仕事を指し示されて、直樹に思いっきり反対されてしまった。
『どら焼きぐらいわたくしがいくらでも買って参りますので、高嶺常務は自分の業務をしっかりこなしてください。もし帰社してみて仕事が出来ていないようでしたら……どうなるか分かりますよね?』
ビシッと言い渡された言葉は、口調こそ秘書モードだが完全に友人の伊藤直樹としてのモノに近かった。
きっと直樹が満足のいく仕事を出来ていなかったなら、今頃ラム薫ドラはここにはなかっただろう。
とはいえ、直樹は尽が天莉の看病を買って出てからこっち、天莉との交際に結構協力的なことも確かだ。
恐らくは、尽が天莉のことを本気で気に入っていることに気付いているからだろう。
(最初は都合の良い相手ってだけのはずだったんだがな)
一緒に過ごせば過ごすほど、尽にとって玉木天莉の存在が大きくなってきている。
家庭的で誠実で頑張り屋な天莉は、健気すぎて尽には眩し過ぎるほどで。
自分のすぐ隣に立つ天莉を見るとはなしに見下ろして、尽は心の中で小さく吐息をついた。
***
「これはこれは丁寧に恐れ入ります」
礼を言った寿史が尽から手渡された紙包みを見た祥子が、ぱぁっと口元をほころばせた。
手渡されたばかりの箱は、真紅地に桜の木と、その下で花びらに片手を伸ばす一匹の三毛猫が描かれた特徴的なもので。
天莉も尽から見せてもらった時、「可愛い」と思ったのを覚えている。
だが祥子はそれを見るなりすぐ「まぁ! 桜猫堂のラム薫ドラ!」と悲鳴に近い歓喜の声を上げて。
「私、これ、ずっと食べてみたかったの。ねっ!? お父さん!!」
なんて率直な感想を漏らした。
そんな祥子のはしゃぎっぷりに、彼女の腕に抱かれていたバナナがうるさそうに祥子の手をすり抜けて床へ飛び降りてしまう。
「あんっ、バナナちゃんっ」
バナナに逃げられたことが心底悲しかったと言う顔をする祥子を、「お前が大きな声を出すからだろう」と寿史がたしなめて。
「とりあえず、これ」
と、ソワソワした様子の祥子へ手土産に貰ったばかりの箱を手渡した。
そんな両親のいつもと変わらないドタバタぶりに、天莉が「すみません、落ち着きのない両親でっ」と恥ずかしそうに身を縮こまらせる。
だが尽には、そんな天莉の姿でさえ好ましく思えてしまう。
「いや、構わんよ。喜んで頂けたようで光栄だ」
天莉にだけ聞える小声でそっと耳打ちしたら、慌てたように耳を押さえて真っ赤になるのがまた愛しくてたまらないと言ったら、天莉は怒るだろうか。
***
「どうぞお座りください」
祥子が緋色の箱を抱えて台所へ嬉しそうに去っていくのを見詰めてから、寿史に促された天莉と尽は、出入り口付近――下座に正座した。
と、尽が座るのを待っていました!と言わんばかりに「ニャ、ニャーン!」と可愛い声で鳴きながらバナナが尽のひざに飛び乗ってきて。
「あっ」
父親の焦った声を聞きながら、天莉は妙にしっくりきてしまう。
だって高嶺尽という男は、猫に好かれる人だと今更のように思い出したから。
さっきバナナが玄関先に駆け寄ってきた時も、もしかしたら外へ出ようとしたのではなく、ただ尽に甘えたかっただけかも知れない。
それに気付かないまま自分が抱き上げて母に渡してしまったけれど、バナナから恨みを買った気さえして。
(ごめんね、バナナ)
そう思いながら見つめた視線の先。
尽が眼鏡の奥の瞳をスッと細めると、バナナの頭を優しく撫でる。
「こら! バナナ! 高嶺さんに毛が付いてしまうだろう」
如何にも高級そうな黒のスーツは、いつも尽のスーツ姿を見慣れている天莉ですらうっとりするほどかっこいい。
バナナの赤み掛かった金色のトラ毛は、尽のスーツについたら滅茶苦茶目立ちそうな気がした。
「――構いませんよ。私は猫が嫌いじゃないんです」
尽の足の上を指定席と言わんばかりに陣取って箱座りをしてしまったバナナの首筋を指先でスリスリと掻いてやりながら、尽が満更ではなさそうな声を出す。
「そうですか。――実はわたしは猫が余り得意じゃなかったんですがね、妻がどうしても飼いたいと言い出しまして。マンションを息子夫婦に明け渡したい、一軒家に移り住みたいと妻に持ち掛けた際、『だったら!』と妻から交換条件に出されたのがその子だったんですよ。――まぁ、今では私もすっかりバナナの虜なんですが」
照れたように笑って、ちらりと応接間と続いた先のキッチンに立つ母へ視線を流した寿史を見て、尽が「お嬢さんの猫好きはご両親譲りでしたか」と微笑んで。
「実は……私も天莉さんと一緒に住む条件として猫を迎えたいと提案されていましてね」
さらりと同棲をにおわせる発言を織り交ぜてしまう。
実際には既に同居同然の日々を過ごしているのだが、さすがにそれは伏せておいてくれたことにホッとしつつ。
悪びれもせず語られた尽の言葉に、(ちょっと常務! それ、私が出した条件じゃないですよ!?)と思った天莉だったけれど、話の腰を折りそうなので黙っておいた。
それよりも、尽が落とした爆弾に気付いているのかいないのか。
バナナを挟んで和やかに話す尽と父を見て、ひとまず安堵して。
(まぁ、私がお父さんの立場でも、我が子が常務のようなハイスペックな男性を連れて来たらきっと、熨斗を付けて『よろしくお願いします』と言ってしまいたくなっちゃうもの)
それをされないだけマシかなと思ってしまった。
それを見届けてから、尽に「お母さんを手伝ってくるね」と小声で声を掛けたら、「ああ、行っておいで」と返してくれて。
普通彼女の父親と二人っきりにされると宣言されたら、もう少し不安そうにするものではないのかしら?と、提案しておきながらソワソワしてしまった天莉だ。
きっと、尽は自分より目上の人間や、立場の強い人間と向き合うことに慣れているんだろう。
いつだって堂々としていて自信に満ち溢れた尽の姿が、とても頼もしく思えて。
仮初の夫とは言え、尽のそばにいれば色々なものから守ってもらえる。
そんな気がした。
***
キッチンでお茶の準備をしている祥子の元へと向かった天莉は、湯飲みの中でふんわり花開いた薄紅の桜の花を見て、「何で桜茶……!?」と思わずつぶやいていた。
梅酢と塩に漬けられた桜の花へお湯を注ぐ桜茶と言えば、結納や結婚式などといった、〝おめでたい席〟に欠かせない飲み物と言うイメージだ。
なのに――。
「え? だって天莉ちゃんが三十路を目前にして初めて男の人を私たちに紹介してくれるって言うのよ? おめでたいじゃない」
ふんわり微笑む母・祥子に、『気が早いから!』と返そうとして……。
尽が今日、結婚の申し入れをするために実家を訪れていることを思い出した天莉は、グッと言葉に詰まった。
「それにしても……。お母さん驚いちゃったな。付き合ってる人は同い年の同期の男性だって聞いてたから。一応聞いてみるんだけど……高嶺さんはそう……じゃないよね?」
次いで紡がれた言葉に、さらなる追い打ちを掛けられてしまった天莉だ。
「あ、……うん。常……じ、んは……以前電話で話した彼じゃない、です……」
やっと口を突いた言葉は、しどろもどろで何とも歯切れが悪くて。
おまけに母親相手なのに、気まずさから敬語になってしまうテンパリ具合。
ここへ至るまでにちゃんと説明しておかなかった自分が悪いのは重々承知しているけれど、どうせ尋ねるならば尽も援護してくれるであろう応接間で。
皆がそろっている状態の時にして欲しいと思ってしまった。
でも――。
「高嶺さんは天莉ちゃんに長いことお付き合いしていた同期の彼氏がいたこと、ご存知なの?」
声を潜めるようにして続けられた言葉で、母は母なりに自分たちに気を遣ってくれていたんだと分かって。
「大、丈夫……。ちゃんと知ってる……」
一瞬でもそんな母親に心の中で恨み節を言ってしまったことを後悔しながら淡く微笑んだら、母からの愛情に気が緩んだからだろうか。
博視にされた仕打ちを思い出して視界がじんわり滲んでしまった。
自分では尽と暮らす中でかなりのところ克服できて来たと思っていた失恋の痛手は、存外些細なことですぐにパッカリと傷口を開いてしまうらしい。
そんな天莉を見た祥子は、「お母さんが知らない間に辛いことがあったのね?」と幼い頃のようにそっと、天莉の頭を撫でてくれる。
天莉は母にコクッと頷くと、「お父さんも同期の元カレのこと、知ってる?」と涙目のまま尋ねた。
そんな天莉に、「ごめんね」という言葉とともに、祥子は「てっきり今日はその人と来るものだとばかり思ってたから」と吐息を落として見せる。
それでだろう。
「じゃあ、続きはあっちで……。みんながいる状態で説明するんでいい?」
潤んだ瞳で祥子を見詰めながら問い掛けたら、「くれぐれも天莉ちゃんが無理のないペースでね?」と微笑んでくれた。