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「いい加減手を離してよっ!」
「ん~、いいじゃないですか、俺は水野さんの手好きですよ、小さくて柔らかくて。だから離さない」
「んなっ!! からかうのはやめなさい!」
手を離せと言ったはずなのに松田くんの手を握る力が少し強まった。
軽々しく手を繋いでこんな事言えるなんてやっぱり女の扱いに慣れているのだろうと更に思わせる。
やはり松田くんの言っていることは信じれない。
遊ばれてポイッと捨てられるなんて絶対に嫌だ。
もう三十歳……
ずっと独身で生きていくとはそれなりに覚悟しているが、もし自分に恋をする時がきて、その恋が実るのであれば結婚もそれは考えたい。少しくらい夢抱いたってバチは当たらないよね……?
なので私は無駄な恋愛なんてしたくないのだ。
なのにあれよこれよと結局手を繋いだまま店の前まで来てしまった。
「ここ美味しいんですよ、っても昨日木島部長に教えてもらいました」
松田くんが連れてきてくれた店は中華料理店だった。
割と会社の近くなのにまだ一度も入ったことのないお店だったので少しワクワクする。
(いや、なに私ワクワクしちゃってるのよ!)
店の中まで手を繋いで連れて行かれたらどうしようかと思ったが、松田くんはスッと手を離し「入りましょう」とエスコートしてくれた。
なんでもスマートにこなす松田くんはやはり女慣れしているんだろうな、とさらに思わせる。
店内は赤いタイルの床に木目が優しい印象を与えるウォルナットのテーブルに赤い椅子。
中華料理店! と思わせる内装だ。
私と松田くんは向かい合ってテーブル席に座った。
昨日、今日と隣同士で仕事をしていた為に面と向かって座るのはどこか違和感を感じる。
「昨日は酢豚食べたらめっちゃ美味かったんですけど、今日は回鍋肉セットにしようかな」
「へぇ~、じゃあ私は小籠包セットにしよっかな」
「シェアします?」
(え、いいの? 回鍋肉も食べたいなぁって思ったのよね…って! ダメよ!)
「結構です」
冷たく言い放ち店員さんに料理を注文した。
聞きたいことがあると言っていた松田くんに話しかける。
「ねぇ、仕事のことで聞きたい事があるって言ってたけど、どうしたの?」
「あ、あぁ、なんでしたっけね、忘れました」
「貴方ねぇ……」
「まぁまぁ、美味しくご飯食べましょうよ」
「ったく……」
店まで来てしまったのだから仕方ない、美味しいご飯を堪能しようと思い直し、いい匂いと共に運ばれてきた料理に手をつける。
(んぅ〜美味しいっ)
さっきまで松田くんに呆れて少しイラついていたのに自然と美味しいものを食べると笑顔になってしまう。
アッツアツの小籠包、蓮華の上で二つに切るとブワァっと勿体無いくらいの肉汁が溢れ出る。
ふと顔を上げ松田くんの方を見るとバチッと目が合った。
ははは、と眼鏡の奥で目を細めてふにゃっと笑う松田くんの顔が印象的で一瞬、ほんの一瞬だけドキッと心臓が波打った。
「な、何笑ってるのよ……」
「ん? 水野さん可愛いなぁって見てただけですよ」
「ま、また、そーやってからかうんだから……」
可愛いなんて言われ慣れていない私には松田くんの一言、一言に過敏に反応してしまい、その度に心臓がバクバクと動く。
顔が自分でも赤くなっているのが鏡で確かめなくても分かるくらい熱く火照っている。
それを隠すように俯いてご飯を食べ続けた。
松田くんは本当に仕事の話はやはり無かったみたいで、美味しいですね、他にも行きたいお店がいっぱいあるんです、など他愛の無い会話をしながらランチタイムを終えた。
「食べ終わったし会社に戻りましょう」
「そうですね、午後も宜しくお願いします」
「あら、礼儀正しいじゃない」
席を立ち自分は上司なので松田くんの分の支払いもしようと思い鞄から財布を取り出しレジへ向かう。
それを横目に私をスルーして松田くんはお店を出て行った。
(な……あいつ奢られる気満々だったの?)
「お客様、お会計は既に済んでおります」
「へ?」
店員さんの思いがけない言葉にアホっぽい声が出てしまった。
「先程の男性のお客様がお支払いなさいましたよ」
スルーして出て行ったのではなくいつの間にかもうお会計を済ませてたなんて……
まさか後輩に奢られるとは思いもしなかった。
急いで店を出て松田くんに駆け寄る。
「松田くんっ、お昼の代金払うわ!」
「いいんですよ、俺が誘ったんだから。それより早く戻らないと昼休みの時間終わりますよ」
時計を確認すると十三時まであと十分。
お店から会社まで確か来る時は十分くらいはかかった気がする。
これは急がないとまずい事に気がついた。
「な! やばいじゃない! 急ぐわよっ」
「ははは、ですね」
私と松田くんは走るまでは行かないが、かなり早歩きでハァハァ息を切らして会社まで戻りギリギリ十三時に間に合った。
「ま、間に合ったぁ〜」
「ですね。また一緒にランチいきましょうね?」
若さって凄い……私がはぁはぁ息を切らしてるのに松田くんは一切息を切らしてない。年の差を突きつけられたような気がする。
「……い、いかないわよ」
「はは、本当ツンデレなんですね」
「し、仕事するわよ!!!」
結局すぐに午後の業務に取り掛かりお昼の代金を返す暇がなく就業時間になってしまった。
「真紀、お疲れ様、先に上がるわね」
「涼子お疲れ様~、お迎え気をつけてね」
「あー帰ってからも忙しいと思うと憂鬱よ」
働くママは本当に凄いなと尊敬する。
昼間は普通に仕事をこなし帰ってからは子供の面倒と家事。
私なんて一人暮らしの家事でさえ大変なのに……
本当に母親って凄いなと涼子を見ていると日々思う。
ガラリと椅子を回転させ反対隣の松田くんの方を向いた。
「松田くんもお疲れ様、今日はもう上がって大丈夫よ」
「え、水野さんはまだ帰らないんですか?」
「私はまだ少し仕事残ってるから片付けてから帰るわ」
「じゃあ俺、手伝いますよ」
「いいのよ。私の仕事だから、松田くんは帰りなさい」
パソコンに視線を戻しやるかぁと気合を入れる。
「水野さん」
「え……?」
急に声が近くに聞こえたと思ったら私の耳元で松田がボソリと囁く。
「二人でやった方が早いでしょ?」
まただ。
松田くんの吐息が耳に当たり身体の芯がゾクゾクと波打つ。
「ちょ! 近すぎだから!!」
松田くんの胸あたりを両手で押し自分から引き離す。
それでもやはり男の力には勝てず松田くんはまた私を後ろから包み込むように顔を耳元に近づけてきた。近すぎて息が苦しい……
「で、二人でやった方が早いですよね?」
松田くんの濁りのない優しく声が身体の中に響き、染み込んでいくように伝わっていく。
(いやいやいや、流されちゃダメよ! 私!)
「ここ会社だから! 近すぎ! 分かったから、手伝ってもらうから!!」
「誰も気にしちゃいないですよ、てか会社じゃなかったら近くてもいいんですか?」
「するから! 私がしてるから! 会社じゃなくても駄目!」
「はいはい」と言いながらやっと松田くんは離れてくれた。
カチャカチャと二つの音が不規則に重なる。
松田くんはまだ入社して二日目なのに中途採用なだけあって仕事を覚えるのもこなすのも早い。
確かうちの会社に転職してくる前はどこかのマーケティング会社に勤めていたとか誰かに聞いたような気がする。誰だっかは忘れたけど。
結局松田くんに手伝ってもらったおかげでかなり早く終わった。他の社員は帰っていて周りを見渡すと私と松田くんの二人だけが静かな夜の会社に残っていた。
「手伝ってもらったおかげで早く終わったわ、ありがとう」
「何のための部下なんですか、こき使って下さいよ」
「何言ってんだか。そうだ! 今日のお昼のお金返すわね」
急いで鞄から財布を取り出しお金を出そうとしたが、急にグイッと腕を引き寄せられ体制を崩してしまった。
ドサっと松田くんにもたれかかってしまう。
「ちょ、ちょっと……」
松田くんは背も高く見た目はスラッとしているくせに意外ともたれかかってしまった胸はワイシャツの上からでも分かるほど程よくついた筋肉でガッチリした体型なのが分かった。
「お金はいらないから抱きしめてもいいですか?」
「な、何言ってんのよ!」
「ってか抱きしめますわ」
「ひゃっ」
思わず変な声が出てしまい恥ずかしくて顔を伏せる。
いつの間にか松田くんの両腕の中にスッポリ包み込まれてしまっている自分。
その状況も恥ずかしくて松田くんの顔が見れない。
「水野さんって小さくて可愛い、スッポリ俺の腕の中におさまっちゃいますね」
「……何言ってんのよ」
松田くんが私を抱きしめる力が少し強まった。
恐る恐るゆっくりと顔を上げると真剣な表情の松田くんとバチッと絡み合うように目が合い、囚われたように目が逸らせなかった。
「俺が水野さんの事好きって言ったこと覚えてます?」
「お、覚えてない」
恥ずかしくて咄嗟に下を向いた。それも虚しく俯いていた顔を松田の手によってグイッと上げられる。
私はどうも松田くんのまっすぐな瞳が苦手だ。
いや、苦手というか眼鏡の奥にある真っ黒な瞳に吸い込まれそうになり、逸らせなくなる。
下から見上げる松田くんは耳まで真っ赤にし照れているのか少しはにかんで私を優しい目で見ていた。
「水野さん、好きです」
「……ありがとう」
「付き合ってくれますか?」
「……それは……無理」
年下の、しかも会社の後輩と付き合うなんてやっぱり考えられない。
確かに松田くんのこの表情にはドキッとした。
でもそれはドキッとしただけで、好きという感情とは別物だと思う。
と言うより好きと言う感情が思い出せない。
「返事早……でも俺まだまだ諦めませんよ?」
「お好きにどうぞ……もう離してっ、んんっ……」
まただ。
一瞬で松田に唇を奪われた。
告白を断ったばかりの女にすることなのか!?
けどそのキスはけして強引ではなく力強いのに優しく、そして激しく求られるようにたくさん矛盾したキス。
「んんっ……」
ゆっくりと松田くんの唇が離れていく。
頭がぼーっとしているが少し唇がジンジンと痺れているのは明確に分かった。
「水野さん」
返事ができない。
「諦めないからね?」
松田くんはニヤッと自信ありげな笑顔を見せた。
「っつ!! も、もう帰る!!!」
グイッと松田の腕から抜け出し、鞄を急いで手に取り会社を出ようと足早に歩く。
私のカツカツとヒールの音とコツコツともう一つの靴の音。
「なんで隣歩いてんのよ」
「だってこんな夜に女性一人とか危ないでしょ?」
「いつも一人で帰ってるから」
「これからは俺が送りますよ」
「結構です」
私の歩幅に合わせて横にピッタリついてくる松田くん。
しかもさりげなく車道側を歩いてくれている。
恋愛経験少ない私でも分かる。
松田くんは多分優しい。
それは女を落とす為なのか、素なのかは分からないが。
結局同じ電車に乗ってしまった。
満員とまではいかないが席は空いていなかったので自分の降りる駅の方のドアのそばで立つ。
松田くんもいるが特に話すこともないので最寄駅に着くまでの間お互い無言で電車に揺られていた。
「じゃあ着いたから、また明日」
一言別れの挨拶をし電車を降りる。
降りたはずなのに、何故かまだ松田くんは私の隣にいた。
「え……松田くんもここの駅なの?」
「違いますよ、改札まで送ろうかなぁと」
「いや、いいから! 早く乗りなさい!」
「いいからいいからっ」
「ちょっと!!」
スタスタと改札口まで歩き始める松田くんの後を急いで追う。
なんだか終始松田くんのペースに巻き込まれている気がする。
「じゃあ水野さん、気をつけてくださいね」
「……ありがとう、じゃあまた明日」
「また明日」
そう言いながら松田くんは私の頭を優しく撫でた。
「んなっ!! 帰る!!!!」
ブンっと頭を振り松田くんの手を跳ね除け改札を出た。
でもなんとなく気になって振り返ると松田くんはまだ同じ場所で立って私を見送っていた。
それはそれはとても優しい顔で。
その笑顔を振り切るように私は早歩きでアパートまで帰った。