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この冬の最初の夜はまだ姿を見せていないが、夕暮れの供をする冴え冴えしい一番星の冷気が地上に降り注ぎ、マグラガの街が身震いする。並び立つ風車の巨大な黒い陰の間から覗く空が橙色に染め上げられ、聳え立つ風車の濃く長い影がマグラガの街に横たわる。冬に恐れをなす昼はますます早く人の野を去っていき、色褪せる木枯らしの季節の気配に地下の魔性が色めき立った。
ユカリが例の安宿の前に戻ってくると、遠目にいざこざが見えた。一人の少女を三人の男たちが取り囲んでいる。その少女がベルニージュだったものだからユカリは困惑した。
「蹴散らす?」とグリュエーは渦巻くがユカリは制止する。
「ベルニージュが追い払わないんだとしたら相応の理由があるはずだよ。とんでもなく強力な魔法使いなのかもしれない」
見た目にはならず者というわけでもなく、暴力を振るいかねないような雰囲気もない。声を張り上げるわけでもなく、ただただベルニージュに苛立ちをぶつけているような様子だ。
ユカリはさりげなく近づいて、何を話しているのか聞き耳を立てる。
「せめて理由を教えてくれないか? 金なら払うと言っただろう。他に何があるんだ?」と狐の毛皮の襟巻を巻いた男が言う。
「まあまあ、もういいじゃないか。疲れたんだろう。まだ子供じゃないか」とふくよかな男がベルニージュを庇うように言う。
「何をそうこだわっている。たかだか占いだろう」と三人目の甲高い声の男が呆れた様子で言う。
どうやらベルニージュに絡んでいる男は狐の毛皮の襟巻一人だけのようで、他の二人はその男を制止しているらしい。
「もはや占いなんてどうでもいいんだよ、私は」狐の毛皮の襟巻の男は今にもつかみかかりそうな勢いで言う。「ただ、理由を知りたいんだ。どういう基準で客を選んでいるのか、それが知りたいだけだ。たった数時間で評判になった凄腕の占い師だというから来てやったというのに」
とんでもなくつまらない理由でいざこざになったようだ。ユカリは助け舟を出す。
「ベルニージュ、もう行こう。十分稼ぎ終わったんでしょう?」
ベルニージュが男たちを避けるように駆けてきて、ユカリの腕をつかむ。
「ほら、そういうわけだ」納得いかない様子の男を説き伏せるように他の男たちが言う。「十分に稼いだからもう稼がない。それだけさ」
「いいや、あいつは私を断った後に別の客を相手していたんだ」
狐の毛皮の襟巻は喧々と言葉を投げ掛けてくるが、ユカリもベルニージュも何も聞こえないかのようにその場を立ち去った。
結局、二人は別の宿に泊まることにした。部屋は個室だが、それ以外は妥協した。風車に近い立地のためか、騒音は鳴り止まず、それゆえにそれなりに安い。食材費と薪代を払って、厨房を借りる。二人で食事を作るのも珍しくはないが、ほとんど会話がないのは久しぶりのことだった。
先ほどの出来事にそれほど大きな意味があるとは、ユカリには思えなかったが、いまのところベルニージュの心に影が差す理由は他に心当たりがない。
宿の食堂の端の方で、焼きしめた麺麭と干からびたような野菜の羹汁、欠片のような乾酪を前にして、神々と個人的に好きな英雄に祈りを捧げると、ユカリは意を決さずに済む話題を投げ掛ける。
「そういえば、魔導書見つけたよ。やっぱり今までと様子が違ってて、あれを見たらベルは驚くだろうなあ」
ベルニージュは羹汁を啜って、いつも通りの調子で尋ねる。「それで、どういう理由で手に入れられなかったの?」
「持ち合わせが足りなかったんだよ。商店街に売ってたんだけど、もうちょっと稼がないと手が届かないね」
ユカリはあの店主に提示された金額をベルニージュにも教える。ベルニージュは特に驚くことなく頷く。
「盗むつもりはない、と」ベルニージュは事もなげに言う。
「当たり前でしょ」と言ってユカリは麺麭を毟る。「まあ、よほどのことがない限りは」
堅い麺麭を羹汁に浸けてみるが大して解れない。
「でも、魔導書を買えると思えば格安だね。その店主は魔導書だと気づいてないわけだ」
ユカリは店主の意地悪そうな笑みを浮かべて言う。「そりゃあね。魔法使いなら手放さないだろうし、魔法使い以外はすぐにでも手放そうとするだろうし。商品だとしか思ってないってことだよね」
「まあ、お金で済むなら大丈夫だよ」そう言ってベルニージュは堅い麺麭にそのまま齧りつく。
ユカリは思い出して別の話題を出す。「そういえばベルに、ある文字について聞きたくて」
「ほほう。聞いてみなさい、お嬢さん」ベルニージュは勿体ぶった調子で言う。「どんな文字なんだね?」
「えーっと」
ユカリは言うべき言葉が見つからず、かといって身振りで伝えられるわけもなく、あたふたする。
ベルニージュが麺麭を咀嚼しながら背嚢から紙と筆と墨を取り出して、ユカリに渡して寄越す。
ユカリは食卓の端で記憶を掘り起こして、何とか見様見真似で文字を書く。覚えている限りの文字を書くと、赤髪の先生の教えを待つ。
ベルニージュは麺麭を咀嚼しながら文字を眺め、ユカリを見て、再び文字を眺める。ようやく麺麭を飲み込むと、ベルニージュは言葉を選ばずに言う。
「ユカリはこの文字を知らないっていうの?」
ユカリは首を振って否定する。「見たことはあるよ。義母、に限ったことじゃないけど、呪文に使われているのを何度か見たことある、ような」
ユカリの言ったことを検討する必要があるかのように、ベルニージュは羹汁を飲み、文字を見つめ、ユカリの真剣な眼差しを受け止める。
「そうか。ワタシも話したことなかったな」そう言ってベルニージュはユカリの書いた文字を指さす。「これは、魔法使いが最も重要視する、いや、神聖視しているとさえいえる文字群の一つで、総称して禁忌文字と呼ばれるものだよ」
初めはその才能豊かな魔法使いの少女が冗談を言っているのだと思って、言葉の続きを待っていたが、ベルニージュもまたユカリの弁明を待っているようだった。
「禁忌文字って言った?」とユカリは恐る恐る尋ねる。
「他にも呼び名はいくつかあるけどね。魔法使いの間で最も通っているのはユカリ、だね」
そう言うと再びベルニージュは食事を摂りつつユカリの出方を伺っている。
ユカリという名は魔導書を、魔法少女の魔導書を、『我が奥義書』を、初めて手に持った時に頭の中に浮かんだ名前だ。それは前世の名前なのだと確信していたが、あるいは全く別の意味を持っている単語なのだろうか。もしくは『ユカリ』という単語に、この今世の世界で『禁忌』という意味がついてしまったのだろうか。ユカリには知る由もない。
緊張した空気の中で「失礼。ベルニージュ様でしょうか?」と突然に呼ばれ、ユカリも当のベルニージュもひっくり返りそうになる。
男は申し訳なさそうに頭を下げる。「ああ、失礼しました。夜降ち様の使いで暮れと申します」
ベルニージュが少しだけ手を上げて、緊張した面持ちで言う。「はい。ベルニージュはワタシです。その子は……エイカ」
ユカリはどぎまぎしつつ、それが何者なのかも分からないままに頭を下げる。
それはいかにも身なりの良い男で、物腰柔らかい雰囲気がその佇まいから醸し出されている。
「カッティール氏ということは例の件ですか?」とベルニージュは少し仰け反った態勢のまま尋ねる。
「ええ、ベルニージュ様のご提案を閣下は大変お気に召したようで、是非今度の祝宴はそのような催しを開きたいとのことです。つきましてはベルニージュ様にご提案の催しを取り仕切っていただきたくお願いに参りました」
「それはもう是非。良ければこの子にも手伝わせたいのですけど、よろしいですか?」
ユカリは何のことか分からないまま、ちゃんと分かっている風に微笑む。
カッティールは失礼でない程度にユカリに目をやって答える。「契約含め、諸々のご相談は後日でも構いませんか? いつでも構いませんので」
「ええ、まあ、じゃあ明日の昼にでも」
ビグナは了承し、丁寧に辞儀をすると、夕間暮れの影のように静かに食堂を出て行った。
ベルの言葉を待たずにユカリは尋ねる。「いったい何のこと?」
「旅費を稼ぐのにちまちましてられないじゃない? 何かしら金の匂いはないか探るのに、色んな人と話をできる辻占いはうってつけってわけだよ」
「それであの話に漕ぎつけたと。祝宴とか言ってたね」
そういえば商店街のあの店の店主がそのような話をしていた、とユカリは思い出す。
「近々カッティール氏が祝宴を開くと聞いてね。何のお祝いだったかな。まあ祝いは口実でただ宴を開きたいだけだね。そのカッティール氏ってのが異国趣味らしくてさ。宴を開けば異国文化自慢大会になるのが常らしいんだよ。まあ、せいぜい素封家の珍品博覧会ってのが関の山だろうから、ワタシが踊り子の髪結いだとか、化粧だとか、着付けだとかで本物の異国文化を見せてあげようかって提案したわけ」
「なるほど。でも子供の提案をよく聞いてくれたね」
「そこは占いと弁舌の勝利だよ」
ベルニージュは胸を張って称賛を待ち構えている。
「私は何をすれば良いの?」
ベルニージュはうーんと唸りながらいま考え始める。
「グリュエーと大道芸するとか?」
「したことないけど?」
「大丈夫大丈夫」