ユカリが【開示】を彫り刻んだ断崖から発ち、白銀の荒野を北東へと向かっている頃のこと。
古き世を懐かしむ星々の囁きに耳を傾ける赤松の森に、魔法使いの少女ベルニージュが足を踏み入れた。ベルニージュの跨る毛長馬のユビスが、その硬い蹄で凍った地面に足跡を残す。雨よりはましだが、足元の長い毛が雪に塗れてユビスの動きは鈍くなっている。
レモニカがクオルのそばで元型文字を完成させ、光を灯したのがこの森だ。いったいどの文字を使ったのだろう、と思い、ベルニージュは様々に想像していたが菌輪を利用する【魅了】に違いないと確信を持つ。
数日前にこの森で何があったにせよ、全ての過去は無思慮な雪に隠されて、秘密に手の届く想像の切欠すら見つからない。
「ユビス。レモニカが近くにいるはず。もしかしたらクオルも。気を付けてね」
分かったのか分からないのか、ユビスは白い息をたっぷりと吐いて鼻を鳴らす。
静寂を醸し出す雪の森で、その足音に最初に気づいたのはベルニージュだった。いつでも森ごと焼き払える魔法を親指の付け根に隠し持って、近づいてくる者の正体を見極めようと目を細める。
それは大男だ。雄々しい肉体に野人のような髭。出で立ちは高貴ながら、その走る姿は子兎のようだ。
「ベルニージュさま!」と男は母を見つけた迷子のように言った。
「レモニカ!」とベルニージュは応えるように言ったが、母のようには言わなかった。
雪を掻き分けて駆けてくるレモニカは、しかし目に映らない人ごみを前にしたかのように、寸前でまごつき、立ち止まる。その遠慮に構わず、ベルニージュの方から厚い胸板に飛び込んだ。
「ごめんなさい。レモニカ。ワタシが油断したせいで。どこか痛いところはない? すぐに治すからね」
「何も。ご心配なさらないで、ベルニージュさま。多少辛い目には合いましたが平気ですわ。ただ、乾酪だけはしばらく遠慮したいですわね」レモニカはユビスを見、他に誰もいない雪の森を見渡す。「ところでユカリさまは?」
ベルニージュはレモニカの、あるいは大男の瞳を見つめる。初めてその瞳を見た気分になる。そしてその不思議な色合いに気づく。赤みがかった黄色、夕暮れのような橙色。それとは別にベルニージュはレモニカの瞳の奥に何か妖しげな煌めきを見出す。
「後から追いつくよ。それより何か呪いを貰ってるかもしれない。調べるよ」
そう言ってベルニージュはユビスに負わせていた背嚢を降ろそうとするがレモニカが止める。
「後になさって。先に助けて欲しい者たちがいるのです。こちらです」
「でも……」
大男の姿のレモニカは有無を言わさずユビスに跨り、ベルニージュに手を貸す。そしてユビスを駆って森の奥へと歩を進める。ユビスは厚く積もった雪をものともせずに蹴散らして、赤松の森を突き進む。
「とにかく無事でよかったよ、レモニカ。本当に悪い想像しか出来なくて」
レモニカがくすくすと笑って言う。「そういうのはどちらかといえばユカリさまの専売特許のように思えていましたが」
「確かにそうだね。言われてみれば、ユカリは不安に怯えていると思えば妙に肝が据わっている時がある。なぜかは分からないけど。それで、レモニカ、あれから何があったの?」
「全てを話すのは後にしましょう。とにかく今知っておいていただきたいことは、クオルが立ち去ったことと魔導書を持ち去られてしまったこと。そして魔導書の衣を尻尾の呪いで呪うことに成功し、その位置が手に取るように分かることですわ」
「魔導書を呪ったって!?」ベルニージュは静寂を破るような声を出して驚いた。「それでレモニカは何ともないの!? いや、尻尾の方なら跳ね返ることもないのか。そもそも破壊する魔法でなければ効果があるのかも? いや、でも……。まあ、それは取り返した時に調べればいいか。とにかくお手柄だよ、レモニカ」
レモニカははにかんで言う。「ありがとうございます。そしてもう一つ……ああ、着きましたわ。その目で見た方が速いですわね」
赤松の森を抜けると、レモニカの歩いてきた長い長い雪踏み跡を逆にたどる。ユビスの健脚は凍り付いた大地を跳び越えて、前にレモニカとクオルが工房馬車で向かった時よりもずっと早く淡檜の森へとたどり着く。
「ここがクオルの本拠地だったようですわ」とレモニカが言う。
「メヴュラツィエの、じゃなくて?」というベルニージュの問いは雪に染み込んで消える。
白い樹皮と雪に覆われた真っ白な森を通る。まるで白い闇に呑みこまれたみたいだ、とベルニージュが思った時、木々が後方へと過ぎ去った。その開けた場所には雪に隠されていない瓦礫の山があり、その頂に巨大な何かがいた。
形は人だが、薄汚い毛に覆われている。そして頭が二つあり、片方は老いた女、もう片方はボーニスのそれだった。その異形の巨人は力なく倒れ、ボーニスの頭は沈黙しているが、女の頭は掠れる声で何事かを呟いている。
「愛を知らない私の赤ちゃん。夢を知らない私の赤ちゃん。歌を知らない私の赤ちゃん。産まれる前に溺れ死に、海の底で真っ暗闇で私を呼んで鳴いている。私を産んでと鳴いている。せめて安らかに眠っておくれ。母の歌で眠っておくれ」
レモニカはユビスから下りて瓦礫を上って、女の頭の近くでベルニージュの方を振り返る。
「クオルによって、このような姿に変えられてしまったのです。ボーニスと、他の実験動物と一緒に」
瓦礫の上の、異形の巨人のそばにいるレモニカの姿は変わらない。ベルニージュがその素性を忘れてしまった大男のままだった。それはつまり、その巨人は人間ではなく、ヴァミアの怪物たちのような知性ある存在ですらない。動物か植物か、あるいは生物ですらないかもしれない。
それはこの世の理の外にいる。魔物だ、とベルニージュは考えた。
ベルニージュもレモニカのそばへと歩み寄る。女の頭は変わらず呟き続ける。
沈黙するボーニスから目をそらし、巨大な女の濁った瞳を見つめてベルニージュは言う。「彼女はいったい誰?」
「メヴュラツィエです。クオルがそう言っていました。どうか助けてあげられませんか?」
調べるまでもなくベルニージュにはどうすることもできないと分かり切っていた。メヴュラツィエのこの状態が生なのか死なのかすら判別できない。出来ることといえば黙らせることくらいだ。
「ワタシに出来ることはない。安楽死させてあげるべきだね」
レモニカは必死に首を振る。
「でも彼女ずっと閉じ込められていたんです。赤ん坊を取り上げられたらしくて、でもこんな姿になっても、今も、でも、ずっと、赤ん坊を求めて、でも、でも」
「レモニカ。これ以上彼女の言葉を聞いちゃ駄目」ベルニージュはレモニカの手を取り、瓦礫を降りる。「狂気にあてられてる。呑まれる前に離れよう」
大男の剛腕で手を振りほどこうとするのでベルニージュは呪文を唱えてレモニカを気絶させる。
「ユビス。手伝って」
怯えているのか、森との境をうろついていたユビスが恐る恐る駆け寄って来る。大男をユビスの背中に乗せるのは苦労した。ユビスもできる限り背を低くしてようやくレモニカを乗せる。
ふと、クオルの工房馬車の存在に気づく。雪に覆われて本来の派手派手しい姿が隠れていたのだ。四頭の馬蜥蜴の姿もない。それにまさか馬車を置いていくなどとベルニージュは思いもしなかった。
馬車のかたわらに雪の少ない盛り土があったが、それが魔術の類でないと分かると、ベルニージュはレモニカを背負うユビスと共に馬車に乗り込む。念のために何者も潜んでいないか調べた後、備え付けの暖炉に火を投げ入れる。しばらくぶりの温もりにベルニージュもユビスも凍り付いた全身が解れていくのを感じた。
「さて、と。こうしちゃいられないな」ベルニージュは全身を温める間もなく再び立ち上がり、二階へと上がる。「レモニカを見ててよ、ユビス」
ユビスは気の抜けた嘶きを聞かせてくれる。
二階の書斎から御者台へ。そこには御者がいない代わりに五つの鞭があった。どれもに素晴らしい細工が施されているが、大事なのはその装飾に彫り刻まれた隙間に潜む魔法だ。
ベルニージュは背嚢にしまったままの『工房構築論』の中身を思い出す。元々書いていることも、ボニックによる注釈も全て記憶している。当然工房馬車の頁には馬を使わない様々な方法も記されていた。五つの鞭を取り外して、再び馬車の外に出ると『工房構築論』を頼りに新たな魔法を組み上げる。四頭の馬蜥蜴ほどの馬力は得られないが、工房馬車を動かすには十分だ。魔導書を触媒にすることも考えたが、下手を打てば工房馬車がばらばらになってしまいかねないので諦める。
そうして『工房構築論』とそこに記されていなかった感性を頼りに馬なし馬車を操作する。馬車は雪の上を縦横無尽に走り、刻まれた轍は禁忌文字を形作る。【狂奔】、蔦の這う車輪、夢見る植物、労働、責務、償われぬ、遅々たる道行き。等々と各地で呼びならわされる文字だ。
元型文字の完成を知らせる白い光が、まるで天から墜ちた明星が救いを求めるようにグリシアン大陸の四方に迸る。
ここで光らせればユカリは戸惑うかもしれないが、急いでやってくることだろうとベルニージュは確信していた。クオルが戻ってくる可能性もあるが、この惨状を見るに何らかの成果を出したものと推測できる。どこで何をするつもりか知らないが、レモニカを捨て置くくらいだ。こちらに興味を持つこともないだろう。ベルニージュはそう考えた。それならば魔導書の完成を急いだ方が良い。完成形となった魔導書も強力な触媒ではあるが、魔導書の衣ほどではない。