スタジオのドアが、強めに閉まった。
「涼ちゃん」
元貴の声は低く、いつもの冗談めいた感じが一切なかった。
涼ちゃんは振り返らず、キーボードのケーブルを黙々とまとめる。
「今、話せる?」
「……あとで」
その一言が、火に油だった。
元貴は一歩近づく。
「“あとで”って、それ何回目だよ」
手が止まる。
でも、涼ちゃんは顔を上げない。
「別に問題ないでしょ。
俺、ちゃんと弾いてるし」
「そういう話じゃない」
元貴の声が少し荒くなる。
「最近のお前、いなくなる前提みたいな顔してる」
その言葉に、涼ちゃんの肩が僅かに揺れた。
「……考えすぎ」
「考えすぎなわけないだろ」
元貴はキーボードの前に立ち、涼ちゃんの視界を塞ぐ。
「意見言わない、目合わせない、
“キーボード担当です”みたいな距離の取り方してさ」
「それでいいじゃん」
思わず、声が強くなる。
「役割守ってるだけだよ。
余計なこと言わなきゃ、迷惑かけないでしょ」
元貴は息を詰めた。
「……涼ちゃん、それ本気で言ってる?」
涼ちゃんは、ようやく顔を上げた。
目は疲れていて、でもどこか諦めきった色。
「本気だよ。
俺はキーボード弾く人間。
それ以上でも以下でもない」
「違う」
即答だった。
「お前は“ただのキーボード”じゃない」
「でも現実は違う」
声が、少し震える。
「俺が前に出ると、空気変わる。
黙ってた方が、全部うまく回る」
元貴は、しばらく何も言えなかった。
「……それ、お前が決めることじゃない」
「じゃあ誰が決めるの?」
静かな問いだった。
「俺がいなくても、バンドは回るでしょ。
だったら、邪魔にならない位置にいるだけ」
その瞬間、元貴は強く歯を噛みしめた。
「そんな風に思わせてたなら、俺が悪い」
涼ちゃんが目を見開く。
「でもね、涼ちゃん」
声が低く、真剣になる。
「勝手に自分を削って、
“これが一番楽”とか言うな」
「……楽だよ」
「嘘だ」
きっぱりと言われ、言葉が詰まる。
「楽なら、そんな顔しねぇ」
沈黙が落ちる。
キーボードのランプだけが、静かに点灯している。
若井が、ドアの外で立ち止まっていた。
中の会話を、全部聞いてしまった。
涼ちゃんは、視線を落とし、ぽつりと呟く。
「……俺、戻り方わかんない」
それは、弱音だった。
今まで一度も出さなかった本音。
元貴は、一歩だけ距離を縮める。
「じゃあ、戻らなくていい」
涼ちゃんが顔を上げる。
「今いる場所で、俺らが引っ張る。
一人で闇に沈むな」
涼ちゃんの中で、
張り詰めていた何かが、きしっと音を立てた。
でも――
すぐに楽になるほど、闇は浅くない。
心の奥では、まだ囁いている。
(信じていいのか?
どうせ、また置いてかれるんじゃないか)
闇は、まだ消えていなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!