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ユカリが意識を取り戻した時、ヘルヌスでもドボルグでもない男によって黒馬の背に鞍のように乗せられていた。まだ走り出していないがシャリーと名乗る女はユカリの後ろで手綱を握っている。残りの面々、鳥の巣頭のヘルヌスと盗賊団の頭ドボルグ、シャリーの部下らしい男に見送られるところだ。
「普通に跨って良いですか?」とユカリは尋ねる。「何もかも口から出そう」
「良いだろう」と言ったシャリーの手を借りて、何とか後ろ手に縛られたまま馬に跨る。
「それでは後はお任せください。万事準備万端にしておきます」とヘルヌスは威勢よく言う。「ユカリちゃん。一つ忠告しておくけど、シャリーさんは俺が十人いても敵わない。君が百万人いても敵わない、と思った方が良いよ」
後半はともかく、前半の口調は真剣だった。ユカリはただヘルヌスの言葉に耳を傾けるだけで返事はしなかった。
「嬢ちゃん、ベッターを覚えてるか?」とドボルグが妙に神妙な表情で言う。
ユカリは嫌な予感を抱きつつ頷く。
ユカリから魔導書を盗み、ドボルグに黙って逃げ出そうとした魔法使いの男だ。最後に見たのは狭い牢の中だった。色々と教えてもらったお礼に買った長靴の靴紐を渡しそびれていたことに気づく。果たしてドボルグに渡したとして、届けてくれるだろうか。
「奴は死んだ」とドボルグは天気の話でもするみたいに言う。
ユカリはドボルグを睨みつける。「どうしてですか?」
「俺じゃあない。誰に殺されたのかも分からない。お前でもなさそうだな」
ユカリは何も知らないが、一つの推測はあった。盗賊団にベッターを送り込んだ何者かによる口封じではないだろうか。そしてそれは救済機構の可能性が高い。
そして最後にジェスランという軽薄そうな男が言う。
「おじさんの弟子にならない? シャリちゃんの妹弟子でもあるよ」
ユカリは丁重に断った。
黒馬はガミルトンの草原を南へとひた走る。その蹄は高らかに鳴り、全身で喜びを表現している。春を称えるが如く緑に輝く草とかつての栄光を偲ばせる遺構、そして時折流れゆく可愛げな鈴蘭や雛菊、蒲公英だけが惨めな旅の慰めだ。
シャリーたちは救済機構から魔導書を盗み出す計画を立てている。しかも既に一度一人で救済機構の総本山に侵入して盗み出したというのだ。まるで盗賊王ニースの逸話のようだと思い、ユカリは幼い頃に聞かされた教訓物語に想いを馳せる。
「私の持ち物はどこですか?」というユカリの問いにシャリーは包み隠さず答える。
ユカリが持っていた魔導書は全てこのシャリーの背負う鞄の中だ。『我が奥義書』『七つの災厄と英雄の書』『禁忌文字録』、そして真珠飾りの銀冠こと『至上の魔鏡』と瑪瑙飾りの靴こと『珠玉の宝靴』。『咒詩編』と、魔導書候補だった真珠剣リンガ・ミルはベルニージュの手元にあるはずだ。
「冠が鏡だったなんて」とユカリは独り言みたいに呟く。
「水鏡ということだな」とシャリーも独り言のように呟く。
ユカリはいま何一つ魔導書の魔法を扱えない。シャリーの鞄の中というすぐ近くにあってなお、『我が奥義書』でさえユカリが所持しているとはみなされないようだ。魔法少女に変身したければ『我が奥義書』を奪って手に持つか、ユカリ自身から離して魔導書自体に手元に戻ってこさせるしかない。そのどちらかへとシャリーを誘導する方法を考えなくてはならない。
ともすれば魔法少女に変身してもなお敵わない可能性もある。何せ相手は単独で救済機構に乗り込むような人物だ。実力も度胸も一級と言っていいだろう。
頼みの綱のベルニージュたちは探してくれているだろうが、ユカリの居場所を把握して追いつくとなると先になりそうだ。何とか自力で脱出しなければ、とユカリは心を奮いたたせる。
「そういえば、どうして私があの廃屋に忍び込んだと気づいたんですか?」とユカリは尋ねる。
そもそも魔導書の魔法の力で隠れていたのだ。普通の手では見つかるはずがない。
「あれか。確かに魔導書の力のせいで貴様を知覚することはできなかったが。あの広間に舞っていた埃の動きは不自然だったからな。貴様、あの部屋を歩き回っていただろう」
図星だった。ユカリは暗がりの中の四人の顔をよく見るために回り込み、近づき、観察していたのだった。
「あの魔導書の力は、使用者の影響を受けた光や音の変化に気づけなくなるはずです。それが見えなくなる、聞こえなくなるってことだから。でも埃は気づけるって言うんですか?」
「光や音と違って吸い込んで吐き出せるうえに、ただ私たちが座っていただけの広間にしては埃が動きすぎていた。広間のどこにいるかまでは分からなかったが、この靴が役に立ってくれたというわけだ」
「普通はそんなの分かりませんよ」とユカリは言うが、負け惜しみのように聞こえて悔やむ。
瘴気に巻かれて気絶した後、目を覚ましたユカリの体調に問題はなかった。瘴気が直接他者の体に害をなすわけではなく、ただ純粋に瘴気を浴びせた任意の相手を昏倒させる魔法といったところだろうか。
ガミルトン行政区の南端、水たまりという街の背後にはシグニカを分断する高地の一つ西高地がある。
この高地は壁と言い表すほどの急斜面ではないが、やはり大隧道が穿たれ、南北の低地を繋いでいる。それよりなによりユカリの目を引いたのは、大隧道の上、高地の斜面に築かれたゴルトローの街だった。六枚の皿が積み重なったような姿の人工大地の不自然ながら超然的な威容は、歴史ある神殿を目の当たりにした時のように差す光や香る風にまでその場に立ち会う理由や意味、知られざる神秘を隠し持っていると感じさせた。
しかしシャリーは街へ入っていくことなく、その手前、古い戦で焼かれながらも辛うじて原形を保っている廃墟の一つへとユカリを連れて入った。シャリーとドボルグたちが密会していた廃墟の館に比べてこじんまりとした家屋だ。しかし遥かに長い年月、風雨に晒され、手入れされていないことが分かる。錆びた農具が壁に立てかけてある。この辺りも昔は畑が広がっていたのだろうか、と知らない土地の過去にユカリは思いを馳せる。そして剥き出しになった柱の一つにユカリは縄で縛り付けられた。
「私、どうなるんですか?」とユカリは尋ねる。
「いずれ分かる」とシャリーは飾り気なく答える。
「なら今話してくれても構わないですね」
シャリーは小さくため息をついてユカリを見つめ、何かを考える。どういう結論に至ったのか、ユカリには分からなかったが、シャリーは先の問いに答える。「貴様はこれから救済機構に引き渡される」
「何でですか?」
「何かおかしいか? 貴様は最たる教敵だろう」
「とてもおかしいです。シャリーさんは救済機構側の人間じゃないですよね? 魔導書を盗み出そうとするくらいだし。私を何かに利用する方が自然です」
シャリーは馬鹿にするように笑う。しかしずっと難しい顔をしていたシャリーの笑みを初めて見たせいかユカリは少しほっとしてしまった。
「利用と言えば利用だな。知らないのか? 貴様は機構史上初めて懸賞金をかけられている。現在の救済機構の指導者、大聖君にして第七聖女、行く道は輝けりの名の下に」
「なるほど」とユカリは頷く。「出費がかさんでるようですしね。ドボルグさんへの支払いとか」
「よく喋る娘だ」と言ってシャリーは廃墟を出て行こうとする。
「どこに行くんですか?」と言って一度引き留めた方が自然だろうとユカリは判断した。
「言っただろう。貴様を引き渡すための連絡、いや、通報だな」
「ああ、これからなんですね。いってらっしゃい。夕食はいつごろになりそうですか?」
シャリーはそれ以上何も言わずに出て行った。
ユカリはじっとその時を待つ。シャリーが街まで行ったなら確実に『我が奥義書』は手元に戻って来る。戻って来なかったなら、隠れて様子を見られているのかもしれない。馬の足音は聞こえなかったので徒歩で向かっているはずだ。魔導書が消えた瞬間に気づかれたとしても、廃墟に戻って来る頃にはもうユカリは姿を消している。
黒い陰のような小さな魔性が三匹、屋根を支える梁の上からユカリの様子を伺っている。大きな頭を小さな体で支え、大きな目で囚われの少女をあちらこちらから眺めるが、ユカリが『朝の窓辺に舞い降りる喜び』を歌うと驚いて逃げて行った。
しばらくしてユカリの願いは天に通じ、『我が奥義書』が初めからあったかのように目の前にあった。
「さすがに焦ったんじゃない?」とグリュエーは言う。
「さすがにも何もこの旅では何度も焦って来たよ。焦るのなら任せて」そう言ってユカリは魔法少女の杖を取り出し、魔法少女の第四魔法で縄を【噛み千切る】。
「逃げるの?」とグリュエー。
「まさか」とユカリ。
馬に乗って逃げることも考えたが、魔導書を置いていくわけにはいかない。
廃墟を忍び出て、確かにここまで乗ってきた黒馬がまだいることを確認する。周囲の草原、地平線、西高地の稜線を見渡すが、メルコーとゴルトローの街以外に何も見当たらない。
シャリーと正面から戦っても勝ち目はないだろう。ベッターでさえ多大な苦労をした。開けた場所で宝靴の発する瘴気がどれくらいの範囲に広がって、効果を発揮するのか分からない。とはいえグリュエーとの相性は悪くないはずだ。
別の廃墟に隠れて待ち伏せて好機を待とう、とユカリは決断する。
しかし、とユカリは大きな懸念を抱く。もしも魔導書が消えていることにシャリーが気づけば、警戒しつつここに戻って来るだろう。当然その際には姿を隠す魔法を秘めた『至上の魔鏡』がシャリーにとって大きな助けになるはずだ。ユカリには埃の動きを見極められる自信などなかった。
少しでもシャリーの油断を誘う方法はないものかと考え、ユカリは木に手綱を縛り付けられた黒馬に親し気に【話しかける】。
「ねえ、君。名前はある?」
「ないよ。馬でしかない」と馬は嘶く。
「そう。君は自由になりたい?」
「まあね。でも人に飼われるのも悪くないと思ってる」
ユカリは理解を示すように頷く。「そっか。でも場合によっては、ここでこれから馬の体も吹き飛ばすような大風が吹いたり、馬でさえも昏倒させる瘴気が溢れ返ったりするかもしれないんだよね」
「それは困るなあ。それなら自由を選ぶよ。死ほどの不自由はないって思うからね。草原を走ろう。うーん。でも別の誰かに飼われるのも悪くないなあ」
「そうなんじゃないかって思った。誰かに飼われるなら馬具はそのままでいいよね」
ユカリは木から解いた手綱を、合切袋から取り出した靴の革紐で邪魔にならないようにからげる。
ユカリは馬の艶やかな黒の体毛を撫でながら言う。「馬にも色々あるんだね。ユビスはいっつも走りたがってるのに」
「走るのはもちろん、僕だって好きだよ。ユビスって?」
「私の仲間。毛長馬なんだ」
「へえ。きっと毛が長いんだろうね?」
「よく分かったね。もしも見かけたら、ユカリが困ってるから早く迎えに来てって言っておいて」
「任せてよ。でも、うーん。迷うなあ。草原を思い切り走るのも好きだけど、飢えのない生活も悪くない。迷う。迷うなあ」
ユカリは馬の鬣を手櫛で梳く。「それが自由ってものでしょ。堪能したらいいよ。あ、でもあっちの街に行くのは無しね」
馬は鼻先を北に向ける。「ねえ、君は僕の名前を知ってる? 知ってるなら教えてくれない?」
ユカリは空を見上げて名前を探す。「そうだなあ。君の名前は思慮っていうんじゃないかな」
「グラッタ! 僕に相応しい名前だ。そうに違いない。じゃあね、名も無き少女。グラッタは行くよ!」
そう言って黒馬グラッタはメルコーの街に背を向けて北へと走り去った。
これで囚われ人は馬に乗って逃げたとシャリーが思ってくれればしめたものだ。馬を追うにしても、水を湛えた銀冠をかぶりながらという訳にはいかないだろう。
ユカリはそこから遠くも近くもない別の廃墟の草屋根に寝そべって身を隠し、自身が縛られていた廃墟を遠くから見張る。
春の太陽が野原を色づける陽気を振り撒いて西の地平に消える。野原を飛び交う可憐な蝶も羽根を休ませる頃、シャリーの一時的な隠れ家である赤く色づいた廃墟の玄関の扉が誰もいないのに一人でに開いた。
「グリュエー」と囁いてユカリは吐息を【吹きつける】。
【憑依】の魔法の籠ったユカリの吐息をグリュエーが包み込んで廃墟の玄関に吹きつける。しかしユカリの意識は己の肉体に変わらずあった。
「ぐえ」とユカリが踏み潰された蛙のような声を出したのは、何者かが断りなくうつ伏せのユカリの背中に座ったからだ。
「浅知恵を巡らせたのだろうが、貴様は貴様を知らんらしい。魔導書収集家を名乗る者が魔導書を諦めて逃げ去るなどとは思えんな」
「私のことをよくご存じで」
ユカリは再び後ろ手に縛られる。