「お待ちください! ユカリさま」と鋭く発するレモニカの声がベルニージュの耳の奥に刺さる。
レモニカは、ベルニージュの心の奥に潜む何者か、深層心理で嫌っている筋骨隆々の大男に変身していた。それでもベルニージュの心は平静にあり続ける。
「レモニカ。声大きいよ」ネドマリアとの魔導書談義を止め、ベルニージュはレモニカのユカリ呼びを諫める。「あれ? ユカリは?」
レモニカは大男の高い背丈で周囲を見回しながら答える。「すぐ戻ると言って姿を消してしまいました」
「嫌な予感しかしないね」ネドマリアも人ごみに目を配る。「理由を説明できなかったってことなら不穏だよ」
「そうですね」ベルニージュも赤い瞳を方々に向けて、ユカリの黒髪を探す。「というか海に落ちた時と同じような話ですよ、これは。まあ、でもすぐ戻ると言ったのなら信じるしかありません。なんせ魔導書らしき冠を使って姿を消してるんですから、ワタシたちにどうすることもできませんよ」
「弱気だなあ。魔導書を越えるんじゃなかったの?」とネドマリアはベルニージュをからかう。
「弁えているだけです」とベルニージュはただそれだけ言った。
しばらく待って、すぐ戻ると言ったにしては遅すぎると判断し、ベルニージュたちはビンガの港町を巡ってユカリを探した。嫌な予感は的中したのだろう。
「からかわれてるなんてことないよね?」と言ってネドマリアが虚空に手を伸ばして手探る。
「だとしたら度が過ぎていますわ。ユカリさまに限ってそんなこと」とレモニカは否定する。「どうしましょう。何か面倒ごとに巻き込まれてしまったのかもしれません」
ネドマリアはさしたることではないかのように言う。「むしろ巻き込まれに行った状況だけど。まあ、魔導書を追い求める者の宿命みたいなものだよ、面倒ごとってのはね」
ユカリと別れた場所に戻ってきて三人とユビスは顔を突き合わせる。
もうすぐ太陽が天頂に至る。早朝の災いが夢だったかのように大勢の人々が通りを行き交い始め、大海嘯を話題にしつつも祖先から受け継いできた営みに戻っている。
「魔導書に関する何かで消えたということですか?」とレモニカは不安を隠さず尋ねる。
「どうだろうね」ネドマリアは腕を組んで首を傾げる。「ユカリは魔導書に関わりのない面倒ごとも引き込む気がするけど、心当たりない?」
あった。むしろ魔導書に関わりのない面倒ごとの方が多いかもしれない。ともすれば自身がその面倒ごとのようなものだ、とベルニージュは自嘲気味に考え、小さくため息をつく。
「冠を外してるなら魔術で探せるかも。でも外してるなら面倒ごとに巻き込まれている可能性が高いね」
ネドマリアは鞄の中身を探りながら言う。「ユカリと出会った魔術以外にも迷子探しの魔法なら取り揃えてるんだけど。自分からいなくなった人を探す魔法には詳しくないんだよね」
「あの冠を捉えられるか分からないですけど、試してみます」そう言ってベルニージュは背嚢から小さな鍋を取り出す。
いつかユカリが買ったものの、今ではベルニージュばかりが魔法の為に使っている。薬を練ったり、茹でたり、焼いたり。他に黒髪の束と使いさしの蝋燭を取り出す。
鍋の中央に置いた蝋燭に火をつけ、掠れるような声で呪文を唱える。その呪文は逃亡者の思念を浮かび上がらせる力を秘めている。猟犬を昂らせる秘密の言葉に、影を御する古いまじない。隠者が踏むのを避けるいくつかの香草と【追跡】の文字で縛った黒髪を数本、蝋燭の火で焼いて、燃えさしを鍋に散らす。
レモニカはじろりとベルニージュの背嚢に目を向ける。「それってユカリさまの御髪ですか? なぜそのようなものをお持ちなのですか? いつ手に入れたのかは分かっていますが」
「だってもったいないし、実際にこうして役に立つ、かもしれない。ああ、ごめん。欲しかったら後で分けてあげる」
「そんなことは申しておりません。ですが、これで紫の蜥蜴の件、貸しは無しということで」
「別に隠しごとじゃないけど。まあ、いいや。ちゃっかりしてるなあ」
蝋燭から立ち昇る煙は立ち昇るだけだった。
「うん。やっぱり。この世のどこにもユカリがいない、かのようだね。冠のせいか、他に原因があるのかは分からないけど」とベルニージュは説明する。「魔法が駄目なら推測するしかない。ユカリは一人で、姿を消したままどこかへ行った。それはなぜ?」
ネドマリアがすぐさま答える。「姿を消した理由、誰かに気づかれたくなかった、となると尾行かな。誰かを尾行するのには最高の魔法だもの」
「わたくしたちに説明もしなかったのはどういうことですの?」レモニカは不満げに目を細め、唇を尖らせる。
ベルニージュが指折り数える。「時間がなかった。すぐに戻って来るつもりだった。説明できない何かだった。それほど重大なことではなかった。もしくはそれら全部」
「何かあったとすれば、やはりユカリさまがこの一か月に関わった物事と関係があるのではないでしょうか?」レモニカは海の方に目を向ける。「ドボルグ、アギノア、ヒューグ、ノンネット、ヘルヌス。存じ上げない名前がいくつか出ていましたが」
「ノンネットは私も知ってる」とベルニージュが言う。「護女だよ。アルダニ地方で、その、面倒ごとがあってね」レモニカの冷たい目線から逃れるようにネドマリアを見る。「それにドボルグはレモニカも聞いたでしょ。船団の上で。昔に壊滅した人攫いの組織、『人食い衆』の元幹部でしたっけ?」
「うん」と言ってネドマリアはただ頷く。「ドボルグといえば、モディーハンナは? ドボルグを説得するとか何とか言ってたけど。船を降りてから見てないよね」
「ワタシも見てません」ベルニージュはそう言い、レモニカも首を横に振る。「ノンネットはともかく、実は真珠像だったアギノアとユビスを盗んだというヒューグは海の中。風使いのヘルヌスはヒューグを連れ去ろうとしてたって話だけど目的は不明。ドボルグは、初めはユカリに協力していたらしいけど、裏切りにあったような口ぶりだったね。誰も、これ以上ユカリが関わる必要なんてなさそうだけど」
「他に何もないならモディーハンナさんを探しましょう」とレモニカは力強く言う。「あるいはドボルグさんが何か知っているかもしれません」
港に戻って船団の後始末をしている人々に話を聞き、モディーハンナの足跡をたどる。ユカリに比べればありとあらゆる痕跡を残している。追跡の魔術を使うまでもなく、モディーハンナの今夜の宿を見つけた。
宿の前でレモニカは言う。「脅しは無しですわよ?」
「絶対に?」とベルニージュは問う。
「絶対、ではありませんが」とレモニカは困ったように答える。
不用心なことだが宿の主人はモディーハンナの部屋を教えてくれた。どうやらすでに客がいるらしく、関係者だと思ったらしい。階段を上がって一番奥の部屋。
階段を上りながらベルニージュは言う。「準備は良い?」
「いつでもどうぞ」とネドマリア。
「何の準備ですか?」と大男レモニカ。
奥の部屋へと続く廊下には十人の怪しげな男たちがいた。ベルニージュが前に手をかざして呪文を唱えると、男たちはそれぞれに怒鳴りながら得物を抜こうとする。しかし悲鳴を上げ、何人かは短剣を取りこぼす。その鋭い刃から白い煙を放っている。そして男たちは脅すような声を上げながらもこちらへ向かって来ず、一番奥の部屋に殺到して入って行った。
「今のネドマリア?」とベルニージュは確認する。
「私は導いただけで、彼らの意思で進んだんだけどね」とネドマリアは応じる。
「無言で襲うのは脅しより質が悪いですわ」レモニカはため息をつく。
「脅すのだって手間だしね」とベルニージュはあっけらかんと言う。
ベルニージュが扉の取っ手をぴしゃりと叩くと、扉は王に命じられた忠良な家臣のように素早く勢いよく開いた。
狭い部屋に十二人が詰め込まれている。寝台に座っていたモディーハンナは両手を上げ、同じく向かいの寝台に座っていた盗賊の頭ドボルグの方は他の盗賊たちを怒鳴りつけて押しのけるが、分の悪さは察したようだった。ベルニージュは魔導書を手で振ってひらひらと見せつけていた。
「くそが! まだあるのかよ!」とドボルグは悪態をつく。「どうしたら世界を左右する秘宝にこう何度もお目にかかることになるんだ!」
「単刀直入に言う」ベルニージュは魔導書を背嚢に片づけながら淡々と話す。「ユカリが今どこにいるか知っているか?」
「知ってたら教えると思うか?」とドボルグが言うと、盗賊の一人が唐突に窓蓋を開いて、飛び降りた。
地面に叩きつけられた鈍い音と、苦しそうなうめき声が聞こえる。
「ちょうど十人だね。十数える手間が省けるよ」とネドマリアが微笑みを浮かべながら言った。
少しも躊躇するつもりはないらしい。大きななりをしたレモニカが小さな悲鳴をあげて、ベルニージュの肩にすがりつく。さすがに止めた方がいいだろう、というベルニージュの考えを掻き消すようにドボルグが猛る。
「上等だ! 二階から落とされたくらいで俺は……」とドボルグが言いかけた時、次に立ち上がったのはモディーハンナだった。ドボルグは慌てて両手を上げる。「分かった。知っていることは全て話す」
モディーハンナは冷や汗を噴き出しつつ再び寝台に座る。
ドボルグは舌打ちし、話し始めた。「あの嬢ちゃんは蜂という男を尾行して、俺たちの密会場所に現れた。が、シャリーという女に拘束され、南へと連れ去った。目的は聞いてねえ。わざわざ連れ去ったんだ。殺しはしねえと思うが」
そしてドボルグは黙る。レモニカが何かを言おうとしたが、ネドマリアが遮るように話す。
「密会の目的は? それに関わりがあるんじゃないの?」
ドボルグは素直に説明する。「近々救済機構の総本山を襲撃する。魔導書を盗むために」
「そういえば、改心がどうのこうの言ってたね」とネドマリアはモディーハンナの方を見る。
「これからです。私はそれを昔の伝手で聞き及んで、やめさせようと説得に来た次第です」とモディーハンナは揺るぎない瞳でネドマリアを見つめて言う。
「ふうん」と言うネドマリアはまるで関心がないか、全く信じていないようだ。
「この一か月、ユカリと行動を共にしていたんだって? ユカリはお前たちが総本山を襲撃することを密会までに知っていたのか?」とベルニージュは確認する。
「いや、俺から話したことはねえ。一部の幹部以外はまだ知らねえ。嬢ちゃんがそれを知ったとすれば密会を盗み聞いた時だな」
「じゃあ違うか。ミージェルってのが怪しいけど。ユカリの話には出て来なかったね」とベルニージュ。
「偽名かもしれませんわね。誰がどれなのか分かりませんが」レモニカは太い両腕を組んで部屋を見渡す。
「サリーズについて聞きたいんだけど」とネドマリアはドボルグに冷たい目線を向けて言う。
「サリーズ? 懐かしい名だが。今この話に関係があるのか?」と言ってドボルグがおもむろに立ち上がり、己の短剣を抜き放つ。
「これは脅しじゃない、かもしれない」とネドマリアが人差し指を立てて言う。「私にとって貴方は死んでも構わない人間なんだよ」
そうしてその指をゆっくりと鉤のように曲げる。
ドボルグは呼応するように己の首に刃を当て、慌てた様子で話す。「何度も取引した。だが一度も本人に会ったことはねえ。会ったと言う奴に会ったことすらねえ。本当だ。当時から疑念はあった。どこの誰なのか、本当に存在するのか、疑われていたんだ」
ドボルグが刃の切っ先を己に向けた時、レモニカはネドマリアの肩に手を置く。ショーダリーの姿になって、この部屋の何も知らない者たちがおののく。
「モディーハンナさんが役に立ったように、ドボルグさんも役に立つかもしれません」とレモニカが言うと、ドボルグは短剣を取り落とした。
「そうだね。役に立ってもらおう。二人はユカリを追って南、だね。私は私で私の為に彼らを利用させてもらうよ」
「ここでお別れですか」ベルニージュはネドマリアが頷くのを待って言う。「分かりました。必ずユカリを見つけますので、また会いましょう。二人は積もる話もできなかったですし、ワタシもネドマリアさんとはまだまだ色々と話したいので」
「殺さないことだけ約束してくださいますか?」とレモニカは念を押す。
「約束はできない」とネドマリアは答えた。「でも常に念頭に置いておくよ」
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