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「まるで、何かが憑りついているみたいじゃないか。……じゃなきゃ、執政官の変貌ぶりには説明がつかないだろう?」
酒に酔った男番人の息子は仕切り机に突っ伏して呂律が回らない舌で管を巻いている。酒場の主人は妖精の喚き声のような聞き取りづらい言葉に何とか耳を傾ける。
「最初は皆、それでも信じてたな、名君を。きっと、何か、庶民には分からない深謀遠慮があるのだろう、と。だが悪政は激化の一途だ。搾取に次ぐ搾取。弾圧に次ぐ弾圧。次は何を持っていかれて何を禁止されるんだ? 皆がひもじい思いをして、しかしどうやら奴の御殿は連日連夜のどんちゃん騒ぎだ」
フィボロは羊のように巻いた黒い髪をかき上げ、たるんだ赤ら顔に頬杖をついて、焦点の揺らぐ二つの瞳で虚空を見つめる。
しけた酒場の吝嗇な主人は蝋燭さえもけちるので話す相手の顔もよく見えない。松明に集る蛾のように各卓の僅かな明かりに酔客が寄り集い、泥濘のような酔いに包まれながらぼそぼそと囁き合い、禁教の祈りの言葉のように怪しげに響く。
「まったく、また新しいのを思いついたのか? フィボロさん」と店の主人は辛抱強く相手をする。「散々酔っ払いどもから愚痴を聞いて皆の不満はよく知っているがね。俺に陳情されても困るし、苦しいのはみんな一緒さ」
フィボロは荒船から投げ落とされまいと船縁に掴まるように机に乗り出す。
「不満を垂れるだけの怠け者の奉公人と私を一緒にしないでくれよ。私は知りたいんだ。どうして執政官は変わってしまったのかってことをさ。不自然だと思わないか? 元々の悪党だったならともかく、何が彼を狂わせ、堕落させたのか。昨日までの気高い獅子が今日は豚に変わっていたようなものだ。全くの別物、別人になってしまった。その心変わりの理由を知りたいんだ。誰かが唆したのか? 全てはあの地位を得るまでの演技だったのか? それとも――」
「それで何か不思議なものが執政官様に成り代わってるって? 突拍子もない話だぜ、フィボロさん。神殿の猟犬部隊? ルーホヴ神の秘密信徒? そんなものに執政官様が関わってるとは思えねえなあ。護衛が常に執政官様の傍にいるって話だぜ」
「あんただって重税に苦しんでるだろう? うちの店も首が回らないよ。このまましてやられ続けるのか?」
「それとこれとは別さ。苦しみから逃れたいが執政官様の気変わりの理由なんてどうだっていい。早く誰か何とかしてくれよって話だ」
フィボロにとっては何度も見てきた反応だ。嫌味で鼻を鳴らしてひんやりとした机に頬を付ける。
「ねえ、その話、気になる。良かったら聞かせてくれない?」
フィボロの隣に若い女が座った。このような夜更けにこのような場末の店では珍しい。好奇心を灯した二つの青い瞳、ほっそりとした鉤鼻、褐色の髪を短く纏めている。顔立ち同様に身なりも珍しい。旅装のようだ。
フィボロは机に頬を付けたまま女を見上げる。
「あんたは? 見慣れない顔だ」
「革める者。船乗りだよ」
「船乗り? 余所者か。北から? 西から?」
「西。とはいっても海の船乗りだけど」
フィボロはようやく顔を上げてエレパーナをしげしげと見つめる。エレパーナは作り物の笑顔で視線を受け止める。
ここは内陸の街だ。つまりエレパーナは余所者の中でも一等珍しい余所者だ。
「ヴィリア海の女がどうしてこんな所に? ここには波も潮風も平和もないぞ」
エレパーナは野の花のような控えめな微笑みで応える。
「好都合だよ。不穏な土地ほど面白い噂を聞ける。つまり君がさっき話していたような噂をね。ねえ、もう一度詳しく聞かせてよ」
「悪いが話せない」フィボロはそっぽを向く。「喉がからからなんだ。今夜はもう話しすぎた」
「分かったよ。好きなものを頼んでくれ」
フィボロは喜んで並々と注がれた葡萄酒を受け取る。濡れた唇と舌は滑らかに語り出す。
「私が噂していたのは今の執政官獅子心だ。とにかくすこぶる評判の良い政治家だったのさ。名君なんてあだ名されてな。市民にとっても市議会にとっても疑いようのない存在だった。若かりし頃から法治官、兵部官を歴任してな。市民の平等公平を第一にした税制改革、星団の移ろい信奉者の反乱鎮圧の武勇。テロクスにその名を轟かせる将軍であったし、代表院を一つにまとめる賢君だった。多才にして高い人徳を持つ男だったんだ。今で五期目だったかな? 異例尽くしの英雄だったよ」
「言っちゃなんだけど」そう言ってエレパーナは店内を睥睨する。「あまりこの街に活気を感じないね。まるで長く時化の続くうら寂れた漁村だ。何か理由があるんだね? つまりさっき噂していたような」
王に言葉を授ける預言者のようにフィボロは重々しく頷いて口を開く。
「ああ、変わっちまったんだ。名君ケルニーイスは今や、暴君さ。自ら作り上げた黄金のような税制を破綻させ、ケルニーイスに反対した賢く忠厚き者たちは何かしらの罪でしょっぴかれた。終身執政官に就任するなんて話も聞いた。諸外国の動向なんて難しい話は分かりはしないが議員の誰も軍事のための重税に反対しない。そりゃあ余所者に略奪なんてされたかないがね。戦争が起きる前に干上がっちまうよ。耳障りの良い話さ。だが実際のところは遊興に耽っているんだ」
「暴君か。さぞ恨み辛みが蓄えられていそうだ。それで、何だったっけ? 突拍子もない話というのは?」
エレパーナは店主の方にも目を遣るが店主は肩をすくめて別の客を相手し始めた。
「執政官がまるで別人になっちまった時期について、私は気が付いたんだ」フィボロは秘密が広がることを恐れるように顔を寄せる。「あれは丁度ケルニーイスが宗教改革を始めた時だった。あの時期にケルニーイスは変わったんだ。勿論ケルニーイスは何も弾圧を始めた訳じゃない。そもそも他所と違ってこの街は国教も定められていないしな。ただ同じ神を信じる別宗派同士での争いをなくそうとした。マシチナから来た人間は知らないかもしれないが、ルーホヴ神の信仰は数えきれないほどの宗派に別れているんだ。それらの把握と、ただ幾つかの野蛮な儀式を禁止しただけなんだ。それに対して反発があった。が、軍が動くほどのものでもなかった。あの時は平穏無事に改革が遂行されたのだと思っていた、誰もが」
「そんなに野蛮だったのか?」エレパーナは何者かに聞かれるのを恐れるように囁く。「生贄なら他の土地でも聞いたことあるが」
「ああ、聞いただけでも震え上がるような儀式だ。人食いとか皮剥ぎの刑とかな」フィボロは囁き返す。「この目で見たわけではないが、噂によると邪な呪術の一部だそうだ」
「今まで許していたことが不思議だよ」エレパーナは形の良い眉を歪める。「むしろそっちを何とかしようって声は市民から上がらなかったの?」
「表沙汰になった時はきちんと裁かれていたんだ。ただルーホヴ信仰はどれもこれも秘教化していて普段は土竜みたいに隠れてる。堅気にはあまり関係なかったんだ。が、ケルニーイスの持ち前の正義感は野蛮を許さなかった」
フィボロは杯を飲み干し、名残惜しそうに底を見つめる。エレパーナは続きを促すように身を乗り出す。
「それで? なぜケルニーイスが変わるんだ? 秘教に改宗でもしたのか?」
「皮剥ぎの刑だよ。ルーホヴ信仰の宗派の一つが人皮を奪ってその人物に成り代わる魔術を秘匿しているんだ。秘密信徒とか皮剥ぎ教徒とか呼ばれてる」
エレパーナは皮肉っぽく笑みを浮かべて揶揄うように首を傾げる。
「それ秘匿できてない気がするけど。なるほどつまり制限を加えられた宗派の信徒がケルニーイスに成り代わったに違いない、と。確かに突拍子もない話だ」
フィボロは慣れたように溜息をつく。
「信じないか? まあ、無理もない。余所者のあんたは変わる前のケルニーイスを知らないからな。そうでもなきゃ説明がつかないんだよ」
「いや、信じるに値するよ」無言で驚くフィボロを尻目にエレパーナは語る。「秘密信徒かどうかはともかく、人に成り代わる存在については自分のことのようによく知っている。もしそいつがケルニーイスを乗っ取ってこの街を貶めているのだったら、みんな許せないだろうな」
フィボロは少し上機嫌になって、しかしエレパーナの言葉を否定する。
「私はそうでもない。性格的なことだが、変わった理由が分からないことには判断を下せない。愚痴は堪えきれないが、まずはとにかく名君が暴君へと堕ちた理由を知りたいんだ」
「理由は皮剥ぎ教徒だろう?」
「私はそう思うというだけだ」
エレパーナは立ち上がり、勘定を机に置く。
「ともかくありがとう。良い話を聞けた。お礼にもう一杯飲んでいくと良い。前祝いだ。君の才能に乾杯」
「才能? 何の話だ?」
それには答えずエレパーナは別の席へと移動した。そして別の机で別の客に愛想よく語り掛ける。
「ねえ、聞いて欲しい話があるんだけど……」
その続きを聞く前にフィボロは深い眠りに落ちていった。
ケルニーイスが死んだ。たった一晩での出来事だった。正確には死んでいたことが判明したのだった。市議会からの発表に噂は怒涛の如く街を巡り、夜までに市民の内で知らない者はいなかった。
フィボロは呆然とした面持ちで再び昨晩と同じ酒場に来ていた。店主に酒を注文し、その間中店主が興奮した様子で話しかけていたが全く頭の中に入ってこなかった。
フィボロの頭の中は他の市民と同様に市議会の発表で一杯だった。ただ他の市民と違って自分の知っていたこととの比較に追われた。何もかも自分が考えた通りだったことにフィボロは冷や汗を流す。
執政官ケルニーイスは皮剥ぎ教徒によって暗殺され、その邪な魔術によって人皮を被った皮剥ぎ教徒がケルニーイスのふりをし、執政官の権限を悪用していた。
酒の味も分からず、フィボロは昨晩と同じく机に突っ伏す。酒場は明るく、煩く、酒場の外も明るく、煩い。
昨日までの街の静けさに反して、今日の街は戦に勝ったかのように興奮冷めやらぬ様子で絶えることなく熱狂している。弾圧と粛清が終わり、白日の下に晒された突拍子もない真実に市民の誰もが喉を傷めながら語り合っている。
爆発的な喜びの声が酒場に溢れ返り、フィボロは驚き飛び上がって振り返る。フィボロの見知らぬ、名も知らぬ男が酒場にやって来て、皆が笑顔と歓声で出迎えている。
どうやら彼が真実を見出した功労者らしい、と人々の言葉を聞いてフィボロも理解する。
男は偽物の執政官の正体を暴いた昨夜の武勇伝について何度も何度も語って聞かせ、観衆は何度も何度もその詳細をせがむ。
「やあ、今晩も飲んでるね。昨晩ぶり」
エレパーナが何食わぬ顔で隣の席に座る。フィボロは頭の中に溢れる問いのどれをぶつけるべきが分からず、ただ黙ってじっと余所者の女を見つめる。
「今晩も奢ってあげよう。共に自由と平等、そして平和を祝おうじゃないか」
「説明してくれ。頭がおかしくなりそうだ。ケルニーイスは死んでいただって?」
「どうして? それについては君の方が詳しいだろう?」
「それは、そうだが。たった一晩で、それに、それに……」
エレパーナは葡萄酒を二つ注文する。
「昨日と逆だね。何から聞きたい?」
「とにかく、どうやったんだ? まずそれが知りたい」
「うーん、説明すると長くなるな」やってきた薄めていない葡萄酒をエレパーナは水のように呷る。「簡単に言えば魔法だ。君の目の前にいる女は魔術師でね。少なからず人心を操る力を持っている。もう少し詳しく言うと人々を後押ししたんだ。皆の不満を煽って、希望を提示し、十分な武器と自信を与えた。そこに大義を一つまみ。これは君の成果だ」
説明したようで何も説明していないのと同じだ。フィボロは慎重に言葉を選ぶ。
「私の話を聞いていなくても、君なら同じことが出来たんじゃないか?」
エレパーナは自信たっぷりに頷く。「もちろんそうだ。同じように人を動かし、似たような結果を出せただろうね。でもそれだけだ。手段なんて誰も興味ないだろう。世を革めるなら、その後のことも考えなくちゃいけない。大義、正当性、それらが無ければひっくり返したものが容易く再びひっくり返される。それじゃあ意味がないだろう? 無駄骨だ」
フィボロは机の上の杯を握ったままだった。固く握りしめた指が白くなっている。
「じゃあ、何で素知らぬ顔で私にあの話を聞いた? あんたも知っていたんだろう?」
「ん? 皮剥ぎ教徒のことを? ああ、そういうことか。いや、知らなかったよ。昨日初めて聞いた話だ、君にね」
「あれだけで、私の推測だけで、確信して動いたってのか?」
「いや、大義は大義だよ。それ以上でも以下でもない。名君は暴君となり、しかし彼もまた被害者だった。何も恐れるものはない。恥じることもない。私たちは彼を貶め、地面に引きずり下ろすのではなく、彼を、彼の魂を救うのだ! と皆が一致団結することが大切なんだ。結果、街に平和が取り戻せたなら十分じゃないか?」
フィボロは呆然とした表情でエレパーナを見つめる。
「じゃあ、真実は、本当のところは、ケルニーイスは何で変わってしまったんだ?」
エレパーナは不思議そうに首を傾げる。「皮剥ぎ教徒に皮を剥がれて別人がケルニーイスのふりをしていたんだ。君が言ったことだろう?」
「そうじゃなくて――」
「いや、そうなんだよ。フィボロさん。それが原因で」エレパーナは喜び溢れる酒場を指し示す。「これが結果だ。異論も陰謀論も必要ない。誰も必要としていない」