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雑踏の中、跡継ぎは羊皮紙を叩きつけ、踏みつける。周囲を行き交う者たちはその奇行に気づきもせず、何人かはマシークに続いて石畳の上の羊皮紙を踏みつけて去って行く。それは徒競走大会のために公募された詩歌の応募作だったが、二度と誰に聞かれることもない。駄作と評され、生みの親にさえも投げ捨てられた憐れな楽の音に忍びない気持ちもないではなかったが、呪わしい気持ちが勝る。とはいえ通りの真ん中で無差別に他者を呪うほどマシークも愚かではない。
家路に足を向けようとしたその時、どこかから聞こえる竪琴の音がマシークの魂を掴んだ。
商売人の威勢の良い掛け声が響く商店街と下卑た笑い声の聞こえる歓楽街を分かつ大通りは街のどこよりも人通りが多く、重なり合った話し声と乱雑な足音で耳が塞がってしまうにも関わらず、その音楽は掻き消されるどころか雑音さえもその楽の音の一部にしてしまっているような調和があった。話し声は合唱と化し、乱雑に踏まれているはずの足音が律動を刻んでいるかのようだ。
招くような誘うような調べだ。今にも消え入りそうな音だが、それが故にその音をもっとそばで聞きたいという欲求が火にかけられた鍋のように沸き立つ。
魔術にも精通しているマシークはむしろ魔性か何かに呪いをかけられてしまったのか、と困惑した。そのような音楽はあり得ない、と否定している自分がいる。
未だ音楽家の端くれに過ぎないマシークだが、それでも傲慢にも、名高い巨匠でもその域には達しえていない才能を持っているはずだという強い確信があった。
もはや徒競走など、栄光に見放された楽曲などどうでもいい。その調べを生み出す者に出会わなくてはならない。
マシークは突き動かされるように音楽を追う。歓楽街の方の曲がりくねった裏道を突き進む。変わらず奏でられる竪琴の音に近づけば近づくほど、深く眩く瞬く星々の海に向けて歩みを進めるような荘厳な体験をする。ちかちかという瞬き、駆け抜ける流星、銀河の泡立つ音が総身を撫でる。人声や足音が音に溶け込んだようにマシークの魂までもが溶けて消えてしまいそうな危うくも心地よい思いに包まれる。しかしマシークは怯むことなく足を進める。その者に出会った時、新たな人生が始まることを確信していたからだ。
果たして行き着いたのは襤褸を纏った小汚い老人の前だった。まるで死体のような乾いた手と腕で竪琴を抱え込み、優雅に踊る指先から燦然と輝く音楽が放たれている。もはや魔性かどうかなどマシークにとってどうでもいいこととなった。これを知って、これを知らないふりをして音楽を続けることはできない。その音楽が鳴り止むのを待とうと決めたが速いか、老人は曲の途中で手を止めてしまった。
マシークが驚いたのはむしろ老人が音楽を止めたその瞬間だった。まるで世界そのものが洪水となって押し寄せてきたかのように、街に溢れる聞き苦しい雑音に圧倒される。全てが調和していた瞬間が破壊され、荒波に放り込まれてしまった。清流に身を浸していたはずが、澱みに飲み込まれてしまった。そうとは知らずに何も感じずに生きていたことを恥じ入った。消え失せた調べを求めて追い立てられるように視線を彷徨わせてしまった。
「何か用かい?」
天上に至る調べを奏でていた老人はまるで世間話でもするようにマシークに尋ねた。
「どうして貴殿のような人物がこのような場所で竪琴弾きなどやっているのです?」
「お邪魔だったなら移動しようかな」
「邪魔だなんてとんでもない。貴殿には相応しくないと言っているのです」
「褒められてる?」と老人に尋ねられ、マシークは真摯な眼差しで頷く。「ありがたいね。僕に相応しい場所ってどこかな?」
「それはもちろん……」とマシークは言い淀む。
煌びやかな宮廷? 厳かな神殿? 研鑽の場たる大学? 生命の爆ぜる戦場? いずれであっても老人ならば調和させられるのかもしれないが、相応しいなどとは言えない。
「貴殿に相応しいのは宇宙の深奥です。天球の玉座です」
老人はからからと笑って答える。
「大袈裟なことだ。修辞的お世辞でないなら君がまだ未熟だということを証しているに過ぎないよ」
マシークはむっとしてしかし否定できない。
「確かに私は未熟です。駆け出しの新人です。大木の如き貴殿に比べれば若芽に過ぎない。ですがいずれ巨匠と呼ばれ、歴史に名を遺す音楽家になりますよ」
「素晴らしいことだ。研鑽に励むと良い。老木に言えるのはそれだけだよ」
老人が竪琴を抱えて立ち上がり、立ち去ろうとするのでマシークは呼び止める。
「私は研鑽という言葉が嫌いです。努力という言葉も同様に。少なくともここに至るまでは必要が無かった。ですが、ですが私の成長は止まってしまった、のかもしれない。信じたくないことですが……。いや、信じたくありません。どうか、ぜひ弟子にしていただきたい。貴殿に出会っては貴殿以外から何かを学べるとは思えない」
「高慢ちきなことだ。若芽であるならば何からでも学べるはずだよ。全てが成長の栄養になるはずだ」
「それは、そうかもしれません。しかし――」
「いや、待て。ふうむ。僕も弟子を取ったことはない。そういう意味では僕は芽生えてすらいない種に過ぎないね」
マシークは敬意ゆえに老人の謙遜に反射的に否定しそうになったが堪える。
「ならば是非」
「良いけど、保証はしないよ。僕も手探りになるだろう」
「ありがとうございます! 私はマシークといいます。貴殿のことは師匠と呼ばせていただきますが、よろしければ御尊名を頂戴致したく」
「君は一々むず痒いね。奏でる者だよ。よろしくね」
ほとんど家出同然にマシークはデウシオンの放浪の旅についていくことにした。商人の父は音楽そのものにさえ否定的であったのにずっと息子を支援してくれていたが、しかしマシークの申し出には聞く耳を持たなかった。音楽がどうのこうのという前に詐欺か何かに遭っているのだと思い込んでしまったからだ。
決別などではない。いつか故郷に戻って来た時に自身の腕前を披露すれば、あるいは数え切れぬ栄光を連れて帰れば、父は納得するだろうと確信を持っていた。
旅が始まると数日のうちにマシークはデウシオンを過小評価していたことを思い知らされた。
デウシオンもまた魔術師であり、その小汚い襤褸の内には無数の楽器が隠されていた。そして何よりどの楽器を演奏させても遜色ない鮮やかな調べを生み出すのだった。
マシークもまた竪琴を中心に幾つかの楽器を演奏することはできるが、その全てを極める日が来るなどとは思っていない。
ある朝のこと、マシークは漁村で借りた漁師小屋で目を覚ました。その日はマシークにとって特別な日となる。旅を進めることも路銀稼ぎの大道芸も休むことになっていた。しかし勿論、学ばない日はない。村で買った干し魚を炙り、数日前にどこかで買った堅い麺麭を食べたら稽古を始める。
デウシオンの姿が無かったが、それもまたいつものことだ。遠くから聞こえる心地よい楽の音を追うべくマシークは漁師小屋を出る。耳をくすぐるような微細な楽音でさえも、聞いた者は虜になり、気が付けば音色と一体化したように楽の運行に同調し、それそのものが無窮の喜びをもたらす。周期的な波の音と非周期的な風の音が混じり、しかし少しも互いを邪魔することなく馴染み、合奏的調和に身を震わされる。
今朝は喇叭だった。高らかな伸びやかな空気の振動が波風を貫き、巻き上げるように海辺を席巻する。まるで慣れることのない圧倒的な音楽の嵐にマシークは逆らうように突き進み、波打ち際で金色の管を捧げ持つデウシオンを見出す。まるで神々に祈りを捧げる高位の神官のように海に向かって無上の贈り物を奉る。勘違いでなければデウシオンに近づくべく歩み寄るマシークの砂を踏む音でさえ、次の瞬間にはデウシオンの演奏の一部になっている。
魔術的才能。天性の腕前。神業。今やあらゆる形容がデウシオンには相応しくないように感じられた。
デウシオンはマシークを弟子にしてからもずっと自身の研鑽も怠らなかった。一切欠かすことなく毎日、時にはデウシオンの稽古を削ることさえあり、それに関しては何度か対立することになったが、その弛まぬ努力についてマシークは初め衝撃を受けた。馬鹿々々しいほどに自身の自惚れは打ち砕かれ、同時に勇気を与えた。その努力の果てにデウシオンはその域に至ったのだ。努力も研鑽も今なおマシークには苦行だったが、師のような高みへ至りたいという欲求が緩和した。
弟子マシークに気づくと師デウシオンは振り返る。
そして「どうだった?」と謙虚に尋ねる。
マシークが言葉を尽くして褒め称えると、デウシオンは満更でもない様子で微笑む。しかしマシークはその笑みに影が差していることにも気づいている。未だ不満足なのだ。マシークは師匠のその姿勢に感銘を受ける。
というようなやり取りを毎度行っている。そうしてから稽古が始まるのだった。
デウシオンが初めて弟子を持ち、人に教えることに慣れないことはその日までの旅の間によく知っていた。マシークとて旅に出るまでは、不本意ながら著名な音楽教師に習い、稽古を重ね、研鑽を積んでいた。これまでの実力はそれまでの研鑽の賜物だったのだと今なら肯ずる。しかしデウシオンからすれば何故マシークには自身のようにできないのか悩む日々を送っているようだった。少なからずマシークの誇りを傷つけもしたが、デウシオンの音楽を聴けば全て癒された。時にデウシオンの奏でる音はマシークの旅路の険しさを示し、行く先に音色の楽土を予感させ、勇気を奮い起こしたものだ。
「上手くなったね。成長してる」
その日の最後にデウシオンが呟いた。マシークは耳を疑いはしない。音楽を極めんと日々向き合う自身の耳に間違いなどない。それが師匠に褒められた最初の日だった。
マシークは喜色満面に感謝する。「ありがとうございまず! 全ては師匠の教えの賜物です! 今後も師匠のように弛まぬ努力を続け、師匠の誇りとなれるよう頑張ります!」
「僕の誇りか。ありがたいね」そう呟くデウシオンの表情は曇っていた。
「どうかなさいましたか? 師匠」
「いや、うん。そうだね。君には伝えておくべきことがある。本当は初めて会った時に、弟子にしてくれと申し込まれた時に伝えるべきだったのだろうけど。何分僕も舞い上がっていてね」
マシークはごくりと唾を呑む。重々しい言葉に緊張するが、何を言われるのか予想できなかった。推測できるほどデウシオンについて知っていることが無いのだ。
デウシオンは喉に詰まったものを吐き出すように躊躇いがちに、しかし強い決心を伴って吐露する。
「実は、僕は人間じゃない。自分自身何なのかもよく分かっていないが、ある種の悪霊のようなものだと思う。この体は拾い物で、つまり憑りついている」
「御冗談を」とマシークは呟くが、デウシオンの言葉以上にその濁った瞳が真実を語っていた。
「勿論、君を取って食うつもりはない。望むならこれまで通りに旅をしよう。望まないにしても何の恨みもない。君が決めてくれ」
「人間じゃなくたって構いませんよ」とマシークは即答する。「何であれ、師匠の音楽は本物です。師匠のようになりたい、という気持ちは師匠の才と栄光の如く揺らぎません」
「そうかい。それなら良いんだ。これ以上言うこともない。今日は終わりにしよう」
「師匠が少食だったのはそういう訳ですか?」とマシークは軽口めいた冗談を言う。
デウシオンは真面目な表情で頷く。「その通り。実際のところ必要ではないんだ」
さらに数年が経った。多くを学び、鍛えられ、マシークは大いに成長した。師匠デウシオンは作詞作曲の才は無かったが、マシークは大いにその才を活かし、師匠以上にその名を知れ渡らせた。作曲の依頼を受け、演奏の依頼を受け、師弟で演奏会を開くこともあった。観衆は大いに喝采し、マシークを褒め称え、マシークは憤った。
「私の曲が傑作なのは事実ですが、師匠の楽さえも私の成果のように語るぼんくら共にいかに知らしめましょうか?」
ある日のマシークの言葉にデウシオンは冗談めいて諫める。
「一人でも大変なのに全員を弟子にする気かい?」
それでもマシークのデウシオンに対する敬意は陰るところがなく、むしろ己が成長したならばこそその巨大さを思い知らされることになり、もはや尊崇の域に達している。
「私に音楽の才能がなく、今より少しでも信心があったなら、音楽の師匠ではなく地上に降臨した神として崇めていたでしょうね」
マシークがある日に呟いたその言葉はデウシオンに最も厭われた。
「僕より上に音楽があるんだから神ではありえないよ」
そのような日々を過ごしても二人の研鑽は変わらず続けられた。今では人が変わったように努めるマシークだが、であるからこそ、それ以上に努力を重ねているデウシオンの姿は何よりの師匠の教えの中心にあった。音楽と楽器、空気、その振動、音波、そして音の鳴るこの宇宙に対して真摯に向き合い、技巧を磨き上げることこそが何より重要な教義であった。
そして「どうだった?」と師匠デウシオンに謙虚に尋ねられる。
マシークは言葉を尽くして褒め称え、師匠は陰のある笑みを零す。
幾十年を経て、マシークの名声は巨匠の域にあった。放浪の音楽家。詩聖にして楽聖。山のような賛辞がマシークに届けられ、栄光や名誉は偉大な王の忠臣の如くマシークに付き従った。しかし相変わらずデウシオンは無名のそれだった。どころか師匠を指して付き人だと思い込む者がほとんどだった。しかしマシークも当然デウシオンも全く気にしていなかった。
弟子が老境に差し掛かり、なお変わらぬ師匠の姿にマシークは喜びさえいだいていた。師匠が魔性の存在で良かった。死ぬその瞬間まで師匠の弟子であれて良かった。マシークはそのように考えていた。
今日も今日とて緑に照り輝く草原の真ん中で、弟子に稽古をつける前にデウシオンが研鑽を重ねている姿を眺め、その至上の音楽に耳を傾ける。鍵盤の軽やかな音が騎馬の如く草原を吹き渡る風と歩調を合わせ、揺らす草の細やかな軋みと手を取り、重さを感じさせない足取りで踊り、ともすれば陽光の降り注ぐ音さえもが必要不可欠に思えるような超然とした音楽が響き渡る。
もはや生きている内には決して辿り着くことのない境地のように感じていた。それでも努力を重ねることが無意味だとは感じなかった。
それでもとうとうマシークは気づいてしまった。何故気づくのに幾十年も掛ったのか、それも分かった。
「どうだった?」とデウシオンがいつものように語り掛ける。その言葉の陰に隠れていた師匠の真の思いにも気づかされる。
マシークはいつものように褒め称えようとしたが言葉が出てこなかった。師匠の音楽に欠けるところはない。満たされぬところはない。だが気づいてしまった事実にマシークの心が硬直してしまっていた。
マシークもまたいつもとは違う弟子に、その変化に気づいた。
「気になることがあったなら言ってくれ、マシーク。我が最愛の弟子よ」
生唾を呑み込み、震える唇と麻痺したような舌でマシークは言葉を紡ぐ。
「師匠。師匠の音楽は究極です。超越した喜びです。それでもなお努力を重ねる姿は私が賜った最大の教えです。しかし、しかし……」
言い淀むマシークの前でデウシオンは辛抱強く待つ。マシークの心の内にある気づいたこと、感じたことを待っている。もう諦めてくれないだろうか、とさえマシークは思ったが師匠がそれを許さないことは知っている。
「幾千幾万の努力を積み重ねてなお、師匠の音楽は一切変化していません。つまり成長していません」マシークは恐ろしい言葉を発した自分を諫めるように付け加える。「つまり師匠はもうそれ以上が存在しない音楽の最高域に達してしまったということでしょうか!?」
デウシオンはゆっくりと首を横に振る。
「いや、まだ上はあるよ。だけど僕という存在にはそこへ至る資格がないんだ」
「そんなはずは――」
「聞いてくれ、マシーク。僕がこの世に存在してからずっと、僕の才能は変化していない。上達もなければ鈍ることもなかった。努力も怠惰も僕の前には無意味だった。それも音楽に関してだけだ。君の師匠としては成長したように、他の分野であれば人間と同じように成長できるようだ。だが音楽はそれを許さなかった。僕に不変を強いた。だけど僕は、音楽家として成長したかった。音楽が好きだからだ」
師匠デウシオンの涙をマシークは初めて見た。それは遥か昔のどこかの老人の遺体に過ぎないはずなのに、涙がとめどなく流れていた。マシークは言うべき言葉が見つからなかった。
「君が成長する姿は何より羨ましかったよ」デウシオンの言葉が震える。「僕も上手くなりたい」
マシークは涙を堪え、思いを絞り出す。
「だから何ですか!? そんなこと、師匠はずっと前から自覚していたのでしょう!? それでも諦めずに努力を続けて来たのでしょう!? 極めれば成長が鈍化するのは至極当然のことです。師匠の域に至れば停止したのだと錯覚する程だということに違いありません!」
デウシオンは咳き込みながら笑う。
「上手く言ったもんだね」
「冗談で言ったのではありません。私はそう信じます」
マシークの熱の籠った弁と眼差しを受けてデウシオンは微笑み、ゆっくりと頷く。
「ともあれ、ずっと考えていたことだ。もしも君がそのことに気づいたならば、僕が教える余地はなくなるのだと」
「そんな、そんなはずは……」
「いや、間違いない。そしてそれは君が僕を越えていく可能性を示しているのだとも思う。どうか先に行ってくれ。ここまで導いた僕に君を見送らせてくれ」
マシークは首を横に振る。
「分かりました。ここでお別れです。そしていつか師匠を越えて先に行きます」
マシークが手を差し出し、デウシオンがしっかりと握る。
「君ならきっとより高みへたどり着けるだろう」とデウシオンは弟子を励ます。
「もちろんです。努力は決して無駄ではないと私が証明してみせます。師匠の間違いを否定してみせます」
デウシオンは悪戯めいた笑みを浮かべる。「嬉しいね。その暁には君の弟子にしてくれ」
その言葉が何よりマシークへの励ましになった。