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「奥様も嵯峨様が初恋ですか?」
「私は……」
私に初恋はあっただろうか?
姉の後ろに控え、姉に夢中な男性たちを眺めるだけだったが。
……あぁ、そういえばあの男の子は元気だろうか?
静香はふと、子どもの頃に祖母の別荘近くの湖で会った名前も知らない男の子を思い出した。
顔は覚えていない。
あの子は喘息だったのだろうか。
ヒューヒューと息をする男の子が苦しそうで、初めて作った2ミリもない小さな特殊真珠を思わずあげてしまったのだ。
あの時、祖母にものすごく怒られたことは覚えている。
あれから祖母の言いつけ通り、特殊真珠のことは誰にも言わず、嫁ぐまで一度も作ったことはなかった。
もちろん両親も姉も、私が真珠を作れることは知らない。
祖母が教えない方がいいと言ったからだ。
あの時は理由がわからなかったが、祖母は私を心配してそう言ってくれていたのだと、祖母が亡くなった後にようやく気付いた。
「初恋は、……秘密です」
「あらまぁ。嵯峨様には内緒にしておきますね」
「お願いします」
静香は冗談めかして、ふふっと笑っておく。
仕立て屋も突っ込むことなく、順調に採寸を終えた。
「奥様、このカタログの中にお好きなデザインがあったら教えてください」
見せられたカタログには多くの種類のドレスのデッサンが描かれている。
袖だけでも、丸くなっているもの、ひらひら、手首で絞られているものと多種多様だ。
「私は流行りもわからないので、おまかせしてもいいでしょうか?」
どうせ着ないという選択肢は私にはないのだ。
征一郎の好きにすればいい。
静香はカタログをパタンと閉じながら、よそ行きの顔で微笑んだ。
◇
ようやく今月の満月の日が訪れた。
雲がやや多く、0時の天気は心配だが、とりあえず起きているしかない。
静香は女中に濃いめの紅茶を頼み、読書をしながら0時を待つことにした。
初めて特殊真珠を作ったのは5歳の時。
あのときは2ミリもない小さなものが限界で、しかも作った翌日から1週間ほど寝込み、祖母だけが心配してくれた。
それなのに見ず知らずの男の子にあげてしまい、迎えに来た祖母にこっぴどく怒られたのだ。
そして2個目の真珠は診療所にきた少年にあげてしまった。
先月は雨。
だから今月こそは作りたいのに、空はだんだん曇ってきている気がする。
「今月も無理なのかな……」
静香は窓から月を眺めながら思わず呟いた。
突然聞こえた扉が開く音に、静香の心臓が跳ねる。
静香は慌てて座り直し、乱れた裾を整えた。
「こんな時間まで何をしている?」
「……読書です」
静香は開いたままの本にそっと手を置きながら誤魔化す。
夜着に着替えた征一郎は襟元まできっちりしている普段とは違い、ラフな着物姿。
静香は見慣れない征一郎の姿に戸惑った。
「何を読んでいた?」
「え……あ、その……」
横に座った征一郎が静香の本に手を伸ばす。
頭を使っていないと眠ってしまうと思い、西洋の詩集を選んでしまったことを静香は今更ながら後悔した。
「随分と難しいものを読んでいるのだな」
征一郎は本を奪い取るのではなく、静香の指が触れているページを覗き込むように顔を近づけてくる。
「『今月も無理』は、この詩の一節にでも書いてあったのか?」
しっかり独り言を聞かれてしまっていた静香の心臓がドクドクと脈打つ。
この人は真珠を取りに来たのだろうか?
それとも作り方を見ようと思ったのだろうか?
どちらにしてもこんな時間に来るのはおかしい。
静香は返答に困り、口をつぐんだ。
「これ以上、文字を追う必要はない。寝るぞ」
征一郎に立たせられた静香は、そのまま流れるような動作で寝所の布団へ導かれる。
書類上の夫。
その彼が、今、自分と同じ寝所へ入ろうとしているのはなぜ?
しかも今日は満月だ。
月に1回しかない特殊真珠を作るチャンスなのに。
「あの、今日は」
「何を怯えている?」
征一郎は静かに有無を言わせぬ響きで告げると、静香を抱きかかえるようにして布団に入った。
これはどういうこと?
なんなの?
背中から回された征一郎の腕はびくともしない。
むしろ、その太い腕の重みが静香を逃がさないという確固たる意志のように感じられた。
「まだやることが」
「早く寝ろ」
征一郎の静香の肩を抱き寄せる力がわずかに強くなる。
書類上の冷徹な夫。
そんな彼がなぜ特殊真珠が作れるかもしれない今日に限って、これほどまでに執拗に眠らせようとするのか。
静香は窓の外で輝く満月を見つめながら、逃げられない腕の中でじっと固まるしかなかった。
やがて、温かな体温に包まれた安心感のせいなのか、静香の意識は深い闇へと落ちそうになる。
0時まで起きていなくてはならないのに。
抗うことができないまま、静香は結局意識を手放した。
#海辺の町
#異能力