テラーノベル
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廊下の角を曲がる直前、俺はなぜか、もう一度だけ、教室のほうを振り返った。
振り返って、すぐに、後悔した。
教室の出口のところに立っていた七瀬ひかりが、ちょうど、目を伏せたところだった。伏せながら、口の端を、ほんの少しだけ、笑わせていた。
それは、八十パーセントの七瀬ひかりの笑顔でも、廊下の窓の向こうで一瞬だけ見せた「夜の笑顔」でもなかった。
なんていうか——、もっと、薄くて、頼りなくて、誰のためでもないような、笑顔だった。
俺の足は、廊下の角の手前で、半歩、止まりかけた。
止まりかけて、止まらなかった。
止まらなかったのは、たぶん、俺がいま、その笑顔の意味を、自分の頭で、ちゃんと、処理できる自信が、なかったからだ。
俺は、そのまま廊下を曲がった。
曲がって、しばらく歩いてから、自分が、まだ、息を、いつもより浅く、吸っていることに気づいた。
「ハンカチ、落としてなかった?」
——そんなセリフ、聞いたことがない。
正確には、世の中には、たぶんあるんだろう。誰かが誰かにハンカチを拾ってもらう、というシチュエーションは、漫画の中だけじゃなく、現実にも、まあ、あってもおかしくない。
ただ、それを、教室のいちばん明るい場所に立つ七瀬ひかりが、教室のいちばん暗い席の俺に対して、教室の出口のところで使う、というのは。
どう考えても、不自然だった。
第一、ひかりは、ハンカチを落としていなかった。
これは、俺が、彼女の足元と、彼女の席のまわりを、ちゃんと見たうえでの、観察結果だ。
そして、たぶん、ひかり自身が、いちばん、それを、よく、知っていた。
彼女は、ハンカチを忘れない人だ。教室で何度か、女子に「ひかり、ティッシュある?」「あるよー、はい」とやりとりするのを、横で聞いたことがある。常備してるタイプだ。
そういう人が、「ハンカチ、落としてなかった?」なんて、急に、言うわけがない。
——あれは、口実だ。
口実だと、たぶん、彼女自身、口に出してから気づいていた。だから、目を伏せたんだ。
伏せたあとの、あの笑顔は、たぶん、「自分でも、なんでそんなこと言ったのか、わからない」ときの笑顔だった。
俺にも、ある。
深夜にDAWを立ち上げて、まったく予定していなかったメロディが、ふと、勝手に指から落ちてきた、あの瞬間。画面のキーボードの上で、自分の指を眺めながら、口の端だけ、薄く笑ってしまう、あの瞬間。
「これ、いま、俺、書いた、ということで、いいの?」そう、自分自身に、ぼんやり問いかけているような、間の抜けた、笑顔。
——あの笑顔だ。
ひかりが、教室の出口で浮かべていたのは。
たぶん、彼女のなかで、いま、なにかが、彼女自身の意思とは関係なく、勝手に、降ってきている。
そして、いちばん厄介なのは。たぶん、俺のなかでも、それと同じ何かが、勝手に降ってきている、ということだった。
「藤宮、止まってる」
「……」
「歩くの、二回連続で止まる男になってるよ、お前」
「……ほんと、お前、よく見てんな」
「見てるんじゃない。一緒に歩いてんだから、止まったらわかる」
廊下の少し先で、凛が呆れた顔をして、こちらを振り返っていた。
短いボーイッシュな黒髪が、午後の廊下の蛍光灯の下で、いつもどおり、首を傾けるたびに、さらりと耳の上で揺れる。
俺は息を吐いて、彼女のところまで足を進めた。
「七瀬さん、なんか言ってきた?」
「……『ハンカチ、落としてなかった?』」
「は?」
「『ハンカチ、落としてなかった?』って」
「藤宮、ハンカチ持ってんの?」
「……持ってるけど、別に、落としてない」
「だよね」
凛は、片眉を、わかりやすく、ぴくりと上げた。
そして、しばらく考えてから、頬杖をつくみたいに、廊下の壁に肩を預けた。
「藤宮」
「ん」
「これは、私の、職業病みたいな見立てだけど」
「お前の職業ってなんだよ」
「黒澤凛、藤宮陽人観察員」
「ろくな職業じゃねえな」
「黙れ」
凛は、ふっ、と短く笑って、声のトーンを、ほんの少しだけ、落とした。
「『ハンカチ、落としてなかった?』って、普通、好きでもないクラスメイトには、聞かない」
「……」
「もっと言うと、好きじゃなくても、興味すらない男子には、絶対に聞かない」
「……」
「七瀬さん、お前のこと、最低限、『気にしてる』ラインまでは、来てる」
「……」
「『気にしてる』が、どっち向きの『気にしてる』かは、知らんけど」
凛のその言葉は、軽くて、淡々としていて、なのに、なぜか、心臓のいちばん柔らかいところに、軽く爪を立てるような響きだった。
「お前、昨日、なんて言った」
「ん?」
「『ラノベじゃないんだから』」
「言ったね」
「『あんま、夢見ない方がいい』」
「言った、はっきり、言った」
「……訂正は」
「ない」
凛は、即答した。
それから、ほんの少しだけ、目を細めて、付け加えた。
「ないけど」
「けど?」
「ちょっと、変えとく」
「どう」
「『夢見るのは勝手だけど、覚悟だけはしとけ』」
「……覚悟?」
「『学校一の七瀬ひかりに気にされる』ってのは、それだけで、もう、現実の側で、けっこう、面倒な話だってこと」
凛は、それ以上、なにも言わずに、ふい、と先に歩き出した。
歩きながら、彼女は、ほんの少しだけ、声をひそめて、追い打ちのように、こう言った。
「藤宮の、『匿名でいたい』っていう、いちばん大事な前提、たぶん、いま、二日連続で、ちょっとずつ、削られてる」
俺は、彼女の背中の、まっすぐ伸びた頸のあたりを、しばらく、見ていた。
凛のその一言は、たぶん、俺がここ二日間、いちばん、考えないようにしていた一言だった。
考えないようにしていたから、彼女に、先に、言葉にされて、ちょうど、いま、空白の答案用紙に、答えだけ書き込まれてしまったような気分になった。
放課後、俺はいつもより早く、ひとりで校門を出た。
寄り道はしない。コンビニにも、寄らない。
まっすぐ家に帰って、自分の部屋にこもる。
ヘッドホンをして、DAWを立ち上げて、新しいトラックの続きをいじる。
——藤宮陽人の、放課後の、唯一のテンプレ。
そのテンプレを、俺は、二日前まで、たぶん、自分の人生でいちばん、大事にしていた、と思う。
なぜなら、その三、四時間のあいだは、世界に、「ヨル」と「ヨルを聴いてくれる誰か」だけしかいなくて、藤宮陽人のことを、いちど、まるごと、忘れてしまえる時間だったから。
ヘッドホンの中で、世界は、ぐっと、狭くなる。狭くなった世界のなかで、自分の指先が、勝手に、なにかを、書いてくれる。
それが、ヨルだった。
——でも、いまは。
俺はイヤホンの片方を、もう片方は襟元に垂らしたまま、夕方の通学路を歩いていた。
歩きながら、ポケットのスマホを取り出して、ヨルのアカウントの通知欄を、何気なく、開いた。
————
新しいフォロワー @yoru_no_hikari
————
——え。
通知の上のほうに、見慣れたユーザーネームが、フォロー欄に、上がっていた。
鍵アカが、鍵を、半分だけ、開けた。
正確には、フォロー側のリストには、自分のアカウントを公開した、ということだ。
プロフィールは、相変わらず、非公開のまま。
————
「夜の、ひかりに救われた人間の墓場」
————
その一文だけが、また、画面の中央に、表示されていた。
俺は、信号待ちの横断歩道の手前で、しばらく、その画面を眺めていた。
——「夜の、ひかり」。
二日前なら、この自己紹介を、俺はたぶん、こう読んでいた。
「夜の、ひかり、に、救われた人間の墓場」。
「夜の光」のような、抽象的な救いに、救われた人。
二日後の今日は、たぶん、こう、読んでしまう。
「夜の七瀬ひかり、に、救われた人間の墓場」。
「夜の七瀬ひかり」——昼の教室では絶対に見せない、彼女のもう一つの顔に、自分自身を、救われた人。
つまり、七瀬ひかり、本人。
——いや。
俺は、画面を伏せて、いったん、深呼吸をした。
落ち着け、藤宮陽人。
そんな、漫画みたいなことが、本当に、世の中で、起きてたまるか。
凛も言っていた。
「『学校一の美少女が、実は俺の隠れファン』みたいなのは、現実だとそんなに起きない」。
ただ、その凛が、今日の午後には、こう言い直していた。
「夢見るのは勝手だけど、覚悟だけはしとけ」。
——どっちが、本当の凛の見立てなのかは、わからない。
わからない、けれど。
たぶん、凛の昨日の見立てと、今日の見立ては、両方とも、本当だ。両方とも本当のところに、現実の七瀬ひかりが、いる。
信号が、青に、変わった。
俺は画面を、ロックして、ポケットに戻し、歩き出した。
歩きながら、頭の中の、ノートの右下に、もう一度、シャープペンで、薄く、線を引いた。
————
——タイトル候補。
————
第一候補:『廊下の窓に、二回、映った』。
第二候補は、まだ、ない。
ないけれど、たぶん、近いうちに、第二候補が、降ってくる。
俺の意思とは、たぶん、関係なく。
そんな予感がした。
家に帰って、ヘッドホンをつけて、DAWを立ち上げて、椅子に深く腰掛けた。
画面の中で、波形が、いつもの夜の風景を、待っていた。
俺は、いったん、ヘッドホンを外した。
外して、机の上のスマホを、もう一度、手に取った。
ヨルのアカウントのフォロー欄から、@yoru_no_hikariのプロフィールへ、もう一度、飛んでみる。
鍵アカ。投稿は、見えない。
ただ、フォロー数とフォロワー数の、いちばん下のところに、いつのまにか、見えなかったはずの、新しい情報が、ひとつ、追加されていた。
————
自己紹介(追記):
「ヨルさんは、わたしの夜を、終わらせてくれた人。」
————
——俺は、しばらく、その一文の前で、息を、止めていた。
聞いたことのある、フレーズだった。
聞いたことのある、というか。ヨル本人としては、いちども、誰にも、見せていない、はずの。誰かのプロフィールに、書かれる、覚えのない、はずの。
「夜を、終わらせる」。
——それは、たぶん、俺がいちばん最初に投稿した、まだ再生数が五百回しかなかった、あの曲の、いちばん最後のサビの、いちばん最後の一行の、歌詞だった。
————
君の夜を、ちゃんと、終わらせる。
————
たった一回しか出てこない、もう、自分でも忘れかけていた、いちばん古い曲の、いちばん古いフレーズ。
それを、覚えてる人が、世の中に、まだ、いる。
それも、たぶん、それを、自分の自己紹介に書くくらい、深く、覚えてる人が。
俺はスマホを、机の上に、そっと、置いた。
そして、椅子の背もたれに、ゆっくり、もたれた。
天井の蛍光灯の、ぼんやりした白い光を、しばらく、見上げていた。
たぶん。
俺の、いちばん大事な前提——「別に、誰にも知られなくていい」——が、二日連続で削られたあとの、三日目の今日、ついに、いちばん細かいかけらの一個まで、その光のなかで、静かに、白く、ふやけて、見えなくなった。
代わりに、その光のなかから、なにか、まだ名前のついていないものが、ひとつ、降りてきた。
それは、新しい曲のタイトルでも、サビのフレーズでも、なかった。
——もう少しだけ、知ってもいい、かもしれない。
そんな、たった一行の、自分自身への、許可だった。
俺は、ゆっくりと、ヘッドホンを、もう一度、耳にかけ直した。
そして、机の引き出しの、いちばん奥から、ここしばらく、開けていなかった、新しいプロジェクトファイルを、ひとつ、作った。
ファイル名は、まだ、つけなかった。
つけないけれど、たぶん、そのファイルのいちばん上の、空白のメモ欄に、自分でも気づかないうちに、こう、書いていた。
——
学校一の、
——
その続きは、まだ、書かなかった。
書かなかったけれど、続きの言葉は、たぶん、もう、自分の中で、ほとんど、決まっていた。
決まっていることに、気づきながら、俺は、その夜、いちばん最初のひと音を、画面の上に、そっと、置いた。
ヘッドホンの中で、世界は、ぐっと、狭くなった。狭くなった世界のなかには、いつもの、「ヨル」と「ヨルを聴いてくれる誰か」のほかに、もう一人。
教室の出口で、目を伏せて、ほんの少しだけ、薄く笑った、栗色の髪の女の子の、横顔が、たしかに、いた。
その横顔を、追い出すことは、もう、たぶん、できなかった。
俺は、それを、追い出さないことに、した。
そして、その夜、藤宮陽人ではなく、ヨルでもない、まだ名前のついていない誰かが、第一章の、いちばん最後のページに、こう、書き込んだ。
——いちばん暗い席の住人は、ハンカチを拾わない。
ただ、ハンカチを落とさない女の子のことを、たぶん、もう、忘れられない。
第一章、終わり。
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