「おい」
地の底から響くような冷たい声が聞こえてきて、真里亜はハッと目を覚ます。
「お前、さては寝てたな」
顔を上げると副社長が、氷のように冷ややかな目を向けていた。
「いえ、まさかそんな」
咳払いをして、慌てて真里亜はパソコンに向き直る。
時刻は23時を過ぎていた。
21時から始まった海外とのオンラインミーティングは、まさかの2時間超え。
初めの1時間は集中していた真里亜も、だんだん睡魔に襲われて意識が何度か飛んでいた。
聞こえてくる会話は全て英語。
今の真里亜にとっては、子守唄のようだった。
(あー、眠いよう。夜更かしはお肌にも良くないよう)
手の甲をつねりながら必死で眠気と戦う。
(早く帰ってお風呂に入りたいー。ふかふかのお布団にボフッて飛び込みたいー。ふかふかの…ふかふか…)
「おいっ!!」
再び耳を突き抜ける副社長の恐ろしい声に、真里亜の身体がビクッと反応する。
「居眠りするなら帰れ」
「あ、いえ、すみません」
「聞こえなかったのか?帰れと言ったんだ」
「いえ、まだミーティングは終わってませんし…」
すると副社長は、小動物なら金縛りにさせられるのではないかと思う程、鋭く突き刺す視線を真里亜に向けて言い放った。
「仕事の邪魔だ。出て行け」
「うっうっ、ぐすん。酷いよー。怖かったよー。私、親にもあんなに睨まれたことないのに。もし私がリスだったら、口から泡吹いて気絶してたかもしれないよー」
まるで追い出されるように会社を出ると、真里亜は涙が溢れて止まらなくなった。
人影もまばらな夜道を歩きながら、ゴシゴシと涙を拭う。
「あんな大魔王みたいな人とは、同じ空間にいられない!やっぱりAI秘書子ちゃんじゃなきゃ、無理だよ」
ブツブツ言いながら自宅マンションに辿り着くと、そのままボフッとベッドに飛び込む。
「あー!夢にまで見たふかふかお布団。気持ちいい…」
そしてそのまま、真里亜は深い眠りに落ちていった。
「ギャー!もう7時半!」
いつの間にか眠ってしまった次の日は、大抵寝坊するものだ。
真里亜は、とにかく慌ててシャワーを浴びると、大急ぎで着替えて軽くメイクをしてから部屋を飛び出した。
「あーもう!今後の身の振り方を考えたかったのに、そんな暇もない!」
駅までダッシュして、なんとかいつもの電車に乗り込む。
(朝ご飯抜きか…。こっそりデスクに忍ばせてあるゼリーとお菓子で凌ごう)
吊り革に掴まりながら、早くも気が重くなる。
会社に着き副社長室の前まで来ると、よし!と気合いを入れてからドアをノックして入った。
「おはようございます…って、あら?」
いつも目に飛び込んでくる鬼軍曹の姿が見えない。
「え?どうしたのかしら」
もう一度時計を確認すると、8時半ちょうど。
いつもなら、既に出社してデスクワークをしているはずだった。
席を外しているだけかと思ったが、きちんと整えられた副社長のデスクは、ノートパソコンも閉じられたままだ。
「まだ出社してないの?珍しいな」
すると、コンコンとノックの音がして真里亜は、はいと返事をする。
入って来たのは、住谷だった。
「おはようございます、阿部さん」
「おはようございます。あの、副社長がまだいらっしゃってないようなんですけど。住谷さん、何かご存知ですか?」
「ああ、今起こしてきます」
は?と固まる真里亜を尻目に、住谷は部屋の壁にあるドアをノックした。
「文哉、入るぞ」
そう言ってから、ガチャッとドアを開けて入って行く。
(え、ここってそう言えば、副社長のプライベートルームに繋がってるんだっけ。なるほど、寝泊まり出来るようになってるのね)
開いたままのドアから少しだけ中を覗き見ると、まるでホテルのようなラグジュアリーな雰囲気の部屋が広がっていた。
ソファや、大きなベッドも少し見える。
「おい、起きろ文哉。朝だぞ」
「んー…、もう少しだけ」
かすかに聞こえてきた会話に、真里亜は背中がゾワッとする。
(えっ!!今の声、まさか鬼軍曹の?)
甘ったるく恋人に呟くような声色に、真里亜は顎が外れそうになる。
(う、嘘でしょ?あんな声であんなセリフを…)
「ほら、文哉!いい加減起きろ!」
「んー、分かったよ」
「シャワー浴びてから来いよ。朝食用意しとくから」
「ああ。サンキュー、|智史《さとし》」
住谷がこちらに向かってくる気配がして、真里亜は慌てて自分のデスクに戻る。
「阿部さん」
「はははいっ!」
「副社長、もうすぐ来ると思います。コーヒーをお願いしてもいいですか?」
「はいっ!喜んで!」
「お願いします。私は朝食を買って来ますので」
「了解であります!行ってらっしゃいませ!」
立ち上がって住谷を見送ったあと、真里亜はまだドキドキとしたままの胸に手をやる。
(ちょ、ちょっと待って。さっきの二人のやり取り、もうまさに恋人同士って感じだったわよね)
もしかしてあの二人って、そういう…?
(そうか、なるほど。色んな愛の形があるものね。だからかー、この間の住谷さんの言葉。ものすごく副社長のことを思いやっていたものね)
うんうんと、真里亜は大きく頷く。
(副社長の女嫌いも、そういうことだったのね。なんだー。それならそうと話してくれたら良かったのに)
事情が分かれば、副社長に対する敵対心も消えていた。
(そっかそっか。だったら私は二人を応援しよう!)
うん、と真里亜は拳を握りしめて頷いた。
「それでは、本日のご予定をお伝えいたします」
あのあと、パリッとしたスーツ姿で何事もなかったかのように副社長が現れ、いつものように朝の業務連絡が行われる。
「まず9時半から社長との会談、そしてそのまま役員の方々とランチミーティングを行います。13時からは取り引き先の訪問が2件…」
タブレットを手に話す住谷と、黙ってパソコンを操作している副社長を、真里亜は代わる代わる見比べてしまう。
(お二人とも、今どんな気持ちなんだろう。いいなー、愛する人と毎日一緒に仕事が出来るなんて。会社に行くのもちっとも苦痛じゃないわよね。羨ましい)
「…阿部さん?」
ふいに住谷に呼ばれて、真里亜はハッと我に返る。
「あ、は、はい!」
「どうかしましたか?」
「え、いえ、何も」
「そうですか?なんだか心ここにあらずって感じでしたけど」
「あ、すみません。少し考え事をしてしまって…。えっと、予定は変更なしですよね?」
すると、不機嫌そうな副社長の声がした。
「仕事に身が入らないなら、ここにいても意味がない。帰ってくれ」
う…、と真里亜が言葉に詰まると、住谷が咎めるように副社長を振り返った。
「そのような言い方は、いかがなものかと思いますが」
「どこがだ。当然のことを言ったまでだ」
「相手の気持ちになってください。言われた方は傷つきますよ。ましてや阿部さんは女性ですし、もう少し優しく…」
「いえ!あの、副社長のおっしゃる通りです」
慌てて真里亜が口を挟むと、阿部さん?と、住谷が訝しげに振り向く。
「私が悪かったんです。ですから、どうかケンカしないでください。私のせいでお二人の仲が悪くなるなんて、申し訳なくて…」
小さくなる真里亜に、住谷は、ん?と首をひねる。
「とにかく!あの、申し訳ありませんでした。以後、気をつけます。では郵便物のチェックをして来ますね」
真里亜は立ち上がると、そそくさと部屋をあとにした。
真里亜が出て行き、部屋はシーンと静まり返る。
カタカタとパソコンのキーボードを叩く小さな音がする中、やがて住谷はため息をついた。
「なあ、文哉」
「なんだよ、仕事中に」
「お前さ、いい加減にしないと、この先誰もお前についてくれなくなるぞ」
「は?何の話だ?」
「秘書だよ。いや、この世の女性全員か」
はあ?と、文哉は手を止めて住谷を見る。
「一体、何が言いたいんだ?智史」
「お前、今ついてくれてるあの子、何人目か知ってるか?」
「何人目って、秘書が?あー、そう言えば以前と人が代わってるな。いつ代わったんだ?」
住谷はまた大きなため息をついて、ソファに座り込んだ。
しばらくじっと考えてから、ゆっくりと口を開く。
「文哉。俺はさ、子どもの頃からお前のことを知ってる。まだ高校生だったお前が、赤字で潰れかけたこの会社を救ったこともな」
急に何の話だ?とばかりに、文哉は怪訝な面持ちで住谷を見る。
「お前はあの時、コンピュータテクノロジーやITについて必死で勉強して、社長である親父さんにアドバイスし続けた。それでこの会社は倒産を免れた。副社長に就任する前から、いや、お前は入社する前からずっとこの会社を支えてきたんだ。それは確かな事実だ。でもな、文哉」
住谷は身を乗り出して、真っ直ぐに文哉を見る。
「いつまでもこのままではだめだ。ワンマンなやり方は、必ず会社をだめにする。小さな会社ならまだしも、ここまで大きくなったんだ。もうお前一人の考えで動かすのは危険だ。もっと周りのスタッフに頼り、そしてお前自身も頼られる存在にならなければ。言ってる意味、分かるか?」
文哉は、ゆっくりと頷く。
客観的に考えてみれば、確かにその通りだ。
自分は知らず知らずのうちに、最も自分がなりたくないと思っていた、頭の固い単なる頑固親父になろうとしていた。
「そうだな、お前の言う通りだ。俺は今まで周りに相談せず、何でも一人で進めてきた。このままだとだめな人間になる」
「ああ。それにお前はいずれトップに立つ人間だ。周りからの人望も厚くなければいけない。足元をすくわれない為にもな」
「分かった。肝に銘じるよ、約束する。智史、ありがとう。お前だけが俺をちゃんと叱ってくれる」
すると住谷は、ふっと柔らかい笑顔を浮かべた。
「いや、俺なんかの言葉を素直に受け取ってくれてありがとう。俺の方こそお前に感謝している」
二人はまるで子どもの頃のように、飾らない表情で微笑み合う。
「文哉。まずはさ、周りに少し目を向けてみろ。相手の様子をよくうかがうんだ。それだけでも見えてくるものが変わるぞ」
住谷の言葉に、文哉はしっかりと頷いた。
「どうぞ」
真里亜が文哉のデスクにコーヒーを置いてから、自分の席に戻って行く。
文哉は顔を上げてその姿を目で追った。
あのあと、郵便物を抱えて真里亜が部屋に入って来ると、それでは失礼いたしますと頭を下げて、住谷が出て行った。
(周りに少し目を向けろ、か)
住谷のセリフを思い出し、文哉はまず真里亜の様子をうかがってみた。
(そう言えば、彼女はいつからここに配属されたんだっけ?確か、この間の企業懇親会にはいたような気がする…)
そう思いながら、淹れてもらったばかりのコーヒーを口にする。
(うん、美味しい)
すぐさまふた口目も口にすると、ふと、こちらを見て微笑んでいる真里亜の視線に気づいた。
目が合うと、真里亜は慌てて笑みを消してうつむく。
(ん?どうしたんだ?)
不思議に思いながらも、美味しくてついコーヒーを半分ほど一気に飲んでしまった。
(コーヒーをこんなに美味しく淹れてくれる秘書も、彼女が初めてなんじゃないか)
そう思いながらパソコンを操作し、秘書課の名簿ファイルを開いてみた。
(彼女は確か…、そうだ、智史が阿部さんって呼んでたな。阿部、阿部…って、ええ?!)
何度も見返してみるが、秘書課のファイルに阿部という名前も、真里亜の顔写真も見当たらない。
(どういうことだ?一体彼女は…)
視線を上げてチラリと真里亜を見る。
パソコンに向かって作業している様子は、特に変わったところはない。
(何者なんだ?いつからここに?)
文哉は意を決して立ち上がると、部屋のドアに向かった。
すると真里亜も立ち上がる。
「え?!」
思わず声を洩らして足を止めると、真里亜も驚いたように目をパチクリさせている。
(そ、そうか。俺が出て行く時は、いつも立ち上がってお辞儀をしてくれていたっけ)
普段気にも留めていなかったことを、改めて認識する。
「あ、えっと…。すぐ戻る」
「はい、かしこまりました」
こんなふうに声をかけるのも、恐らくこれが初めてだ。
というより、なぜ今までそうしなかったんだ?
そんなことを思いつつ、部屋を出て廊下の端まで来ると住谷に電話をかける。
プライベートの番号にかけたせいか、住谷は意外そうな声で電話口に出た。
「お?どうした、仕事中に。サボりか?」
「違うんだ!聞いてくれ、智史」
「ん?なんだ、どうした?」
切羽詰まった文哉の口調に、住谷も声を潜める。
「あのな、お前に言われて、俺も秘書にもっと目を向けようと思ったんだ。そしたらさ…」
「うん、どうした?」
「彼女、存在しないんだよ!」
…は?と、住谷のひっくり返った声がした。
「お前、何を言ってるんだ?」
「だから、いないんだよ!秘書課にあの子は存在しない。何度も名簿を確認したけど、阿部って名前もなければ、顔写真もない。智史、もしかして彼女は…」
ゴクリと唾を飲み込んでから、文哉は声を落として訴えた。
「産業スパイかもしれない」
シーン…と電話の向こうが静まり返る。
それもそうだろう、自分だって信じ難い。
だが、そうとしか考えられない。
するといきなり、住谷の大きな笑い声が耳元で響いた。
「あっははは!お前、おもしれーな。最高に笑える。ははは!」
「ちょっ…智史!何がおかしいんだ。笑ってる場合か?名簿に存在しない人物が、副社長秘書なんて…。会社の一大事じゃないか」
「そうだよなあ。そりゃ、一大事だ。てーへんだー!」
「どうするんだよ!もしかしたら、既に重要な情報を流されてるかもしれないんだぞ?」
「うわー、それはいかんな。副社長!何か手を打ってくださいよ」
「それはもちろんそうするが。お前も手伝ってくれよ?何か分かったらすぐに知らせてくれ」
「御意!」
「頼むぞ、おい」
「お任せくだされ!」
電話を切ったあとも、しばらく住谷は笑い続けていた。
「副社長。そろそろ社長との会談のお時間です」
「ん?ああ、分かった」
真里亜に声をかけられ、文哉はパソコンをシャットダウンしてから立ち上がる。
ジャケットを広げてくれている真里亜に、ありがとうと礼を言って腕を通すと、真里亜は大きな瞳を更に見開いてじっと見つめてきた。
「え、何か?」
用心しながら文哉が尋ねると、真里亜は、
「いえ、何でもありません」と視線を落とす。
(どうしたんだろう?彼女の一挙手一投足が気になる)
文哉は、常に真里亜の様子を気にかけるようになっていた。
「失礼いたします」
「おお、文哉か。まあ、座りなさい」
「はい」
社長室に入り、促されてソファに座ると、社長秘書がコーヒーを出してくれた。
普通に美味しいが、真里亜が淹れてくれるコーヒー程の美味しさはない。
「どうだ?最近の様子は」
「はい。概ね上手く運んでいるかと」
一つ気がかりがあると言えばあるのだが、と、文哉はチラリと真里亜を見る。
真里亜は胸にタブレットと書類を抱えて、壁際に控えていた。
「そうか。では今日は、北野社長との件を詰めていこう」
「はい」
社長の言葉に文哉が返事をすると、真里亜がスッと近くに歩み寄り、書類をテーブルに置く。
「こちらが、会食の際に先方から頂いた書類です。吸収合併する予定の企業とその後の展望、そして海外事業についても書かれています」
文哉が説明すると、社長は頷いて書類に目を通す。
その後も話の流れに合わせて、真里亜は必要な資料をサッとテーブルに置いてくれる。
(こんなにやりやすかったんだな。今まで気づかなかった)
社長と話をしながら、文哉は心の片隅で真里亜の仕事ぶりに感心していた。
「副社長。その後、何か分かりましたか?」
22時になり、ひっそりと静まり返った部屋に住谷が入って来た。
真里亜は既に、20時には帰宅させていた。
「いや、それが何も。今日一日、注意深く見ていたんだがな」
文哉は、デスクに両腕を載せて思い返す。
「彼女の仕事ぶりは大したものだ。いつも隅に控えていながら、絶妙なタイミングで必要な書類を差し出してくれる。しかもきちんとまとめられた、完璧な資料を。時間の管理もしっかりしているし、とにかく細やかにフォローしてくれる。やはり産業スパイともなると、かなりのスキルを身につけているものなんだな」
「なるほど」
下を向いて肩を震わせながら、住谷が神妙に頷く。
「それで?副社長は彼女を一体どうするおつもりで?」
「うーん…。彼女の狙いがはっきり分かるまでは、様子を見るしかない。幸い向こうも、スパイだと俺に気づかれているとは思っていないみたいだし」
「そうですか。かしこまりました。私も今後の様子を楽しく…、いえ、注意深く見守っていきます」
「ああ、頼む。俺もなるべく彼女から目を離さないようにする」
「おおー、それはよろしいですね」
声が弾みそうになるのを必死で堪え、住谷は大きく頷いてみせた。
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