遥か彼方に鎮座するアルダニ地方を守護する聖山から遥々流れ来る大河モーニアに身を任せ、放浪民族センデラの船、月下の水鳥号は乳母に見守られた揺り籠のごとく心地よく揺れている。
センデラの三つの支族の長の一人刳り船の息子波風の家族の船だ。センデラの船の中でも最も川風に愛され、またミグの祖父の祖父の代より大河モーニアに寿がれているという由緒正しき船だ。
今度の事件でユカリたちはリトルバルムの市民に盛大に感謝された。魔導書の件は伏せつつも、奇跡の王セビシャスの協力者として事件の全容を語った結果、彼らリトルバルムの市民はそこに神話のごとき英雄譚を見て取り、あの夜の恐怖で空いた心の穴を古き伝説さながらの出来事と、その一部として記されることに対する興奮で埋め合わせることにした。
言われてみれば、とユカリもまた人々に倣い、己の空想に深く沈もうとする。しかし自身が直面し、退けたのは現実的な災難であって、宿命に導かれた難業でもなければ、教訓と含意に富む試練でもないためか、夢の波に押し流されて現実の渚に戻ってきた。
人々は感謝の印として、流星群の日を過ぎてなお、幾夜も豪勢な宴を催した。多くの吟遊詩人が果てぬ喜びと涸れぬ涙をうたい、多くの踊り子が何者かに対する勝利の熱狂に身を任せて踊り、秋の恵みの贅を尽くした晩餐でユカリたちをもてなした。
ユカリは煌びやかなものから物珍しいものまでさまざまな贈り物を受け取り、急遽作られたらしき派手な勲章を授与され、いよいよ記念碑の建立という段になった。
もしや永遠に引き留めるつもりではないかと感づいたベルニージュの忠告に従い、ユカリたちはその後の全ての祝福を辞し、再び旅に出ることを告げたのだった。
結果的に、その宣言はあまり効果的とは言えなかった。再び危険極まりない世界を救う冒険に出かけるのだ、と彼らは涙を流しつつ、囃し立てた。残って欲しいのか旅立って欲しいのかユカリにはよく分からなかった。
結局、ユカリたちを次の目的地に導くと具体的な約束をしてくれたのが、センデラの一族だった。
そして、こうしてユカリとベルニージュは、家族を守る大切な家でもあるセンデラの船に客として乗り込み、操船に携わることなく、ただ大河モーニアの流れに沿って送り届けられていた。
秋の涼しい空気を通り抜けて霞んだ太陽が南の空に浮かんでいる。晴天の空から昼が降り注ぎ、陽気とまではいかないまでも、かすかに温かな空気が大河に寄り添う岸辺の水草の香りと共に、蜜に誘われた番いの蝶のように、明るく磨かれた甲板へとやって来る。
水夫たちはそれほど忙しそうでもないが、邪魔にならないようにユカリは左舷の端の方に座って、腹の中に巣食った眠気を追い出すように大きなあくびをした。そしてリトルバルムから贈られた新しい革の合切袋に手を伸ばし、二枚の古ぼけた羊皮紙を取り出す。強大にして深遠なる魔力のごく一部が宿った羊皮紙だ。
何度となく読み返した魔導書をもう一度読み返す。
『口笛吹きの乙女の伝承』
遥か昔のお話。歴史はまだ幼子で、己の未熟さにむずがっていた頃、若い大地の片隅に楽の音を愛する乙女がいた。第四の英雄とかの詩に残る無上の勇を秘めた乙女だ。
乙女は日々の祈りを詩に乗せ、日々の営みを楽に奏で、永遠に響く歌をうたい、大地や大海がそうするように、幸を人々に分け与えた。
何よりその響きを愛した魔女は、それ故に乙女の声を奪い、大地の生まれる源の最も深い暗闇へと逃げ去った。
しかし乙女は嘆くことも悲しむこともせずに、得意の口笛を高らかに奏で、魔女の元へと旅に出る。
弦を爪弾く者、鼓を打つ者、鍵盤を弾く者、そして歌をうたう者が乙女と長い旅を共にした。彼らの奏でる楽の音は魔女の邪な魔法を退け、ついには魔女を大地の縁より追い遣った。
しかしついぞ乙女の美しき声が戻ることはなく、その口笛の音だけが世界の果てで聞く者もなく寂しく響く。
『口笛吹きの乙女の伝承』と『彷徨える王セビシャスの物語』を眺める。見比べてユカリが気づいたことの一つに、この二つの魔導書は魔法少女の魔導書『我が奥義書』に比べれば、年長になってから書かれたものだろうということが文字から推測できた。いくぶんしっかりした字体で、安定感があるように見て取れる。しかし『咒詩編』に比べると、多少、幼い文字のようにも見える。こちらの年齢差は少し小さいかもしれない。
「思い出す奇跡と生き永らえる奇跡か」とユカリは独り言ちる。
爪立ちで跳ねるような足音が近づいてきて、ユカリはぱっと顔を上げる。
紅の髪のベルニージュが楽し気な雰囲気を纏ってやってきた。いつも楽し気だ、とユカリは思った。
「どうしたの? ユカリ。太陽が消滅したみたいな顔してるけど」
「そこまで深刻じゃないです。濃霧の朝くらいの気分です」
ベルニージュは羽根のようにふわりと、ユカリの隣に座り、膝を抱えて魔導書を覗き込む。
「ユーアだっけ? そういえば詳しくは聞いてなかったけど。その子もセビシャスのような奇跡を発揮してたの?」
ユカリはベルニージュに、ユカリの転生や魔導書と共に生まれたことを除いて、これまでのことを全て洗いざらい話した。まず最初に、共に旅をするなら救済機構に追われることになると伝えたのだが、魔導書を集めるなら当然だろうと一笑に付された。
「どうでしょう。ユーアは記憶力が良いって話は誰かに聞いたような覚えがありますけど。記憶を回復するなんて話は出ていなかったですね」
「まあ、地味だもんね。気づきにくい力ではあるよ。死ななない、生き永らえる、若返る、天命を退ける、なんてのに比べればね。人の悲願だもの。殺されるのを避けられないっていうのは、致命的だけどさ。なんちゃって」
「それとは別に魔導書を使わずに魔導書の魔法を使っていました。あれはどういうことなのか、ユーア自身にも分かっていないようでした」
「もしかしたら、だけど」と言ってベルニージュは『彷徨える王セビシャスの物語』を摘まみ取る。「魔導書が憑依したことで、自らを触媒とすることが出来たのかもしれないね」
ユカリは目を丸くする。
「自分自身の体を触媒に、出来るんですか?」
「誰でも出来るよ。というか正確には誰でもやってる。物品だけでなく、どんな生物も触媒になりうる。でも力は人それぞれ。歴史よりも古い血筋ならともかく、普通は大した力にならないから計算に入れないだけ。それとは別に、話を聞くに『咒詩編』は魔導書自身が術者の魔法を支援していた節があるから、それ無しで再現していたのだとすれば並大抵の才能ではないかもね」
ユカリは自分自身が褒められたかのように、ユーアへの賛辞で嬉しい気持ちになった。
「セビシャス王に同じことが出来たのなら間違いないんだけどな」とベルニージュは呟いた。
ユカリは悲しい気持ちが蘇り、溢れないように別の言葉を探し、口にする。
「すごいですよね。これを持っているだけで死を避けられるなんて。私の知っている魔法の域を超えています」
ベルニージュは意地悪な微笑みを浮かべて言う。「ユカリの知っている魔法の域ねえ」
「繰り返さないでください。それが狭いことは分かってます」
ベルニージュはくすくすと笑って答える。
「うん。でも、そうは言っても実験のしようがないじゃない? 死ぬまでは失敗かどうか分からないんだから、この魔法の効果範囲や条件を知りようがない。あまり当てにしない方が良いよ」
そう言ってベルニージュはユカリの手に魔導書を戻した。
「それもそうですね。何にせよ、憑依されるのはご免ですが」
「憑依の条件は何だと思う?」
ユカリは首をひねる。少なくとも魔導書自体にはそのような条件は明示されていない。ただ物語が書いてあるだけだ。つまり暗示されているということだ。
「おそらく呪いの方だと思います。セビシャスさんでいえば彷徨せざるを得ない状況、もしくはそうするに至った本人の意志が関係しているんじゃないか、と」
「ワタシも同意見だよ。それだけだと条件が緩すぎる気はするし、なにより因果が不明瞭なのが気になるけどね」
「因果が不明瞭? ああ、そういえばキーツさんの話しぶりだと、セビシャスさんは彷徨いたくなくても彷徨ってしまう、と。憑依されたから呪われているはずなのに、呪いが憑依の条件っていうのはおかしいですね。あるいは憑依の条件である彷徨を強める呪い、ということなのかもしれません」
「そっか。確かにそれなら説明はつくね」
「でも、だとしたら私たちも憑依されかねないですね」
「うん。きちんと目的地を定めて真っすぐに目指さなければいけないってことになる。まあ、それほど難しいことでもないけど。ところで、ユーアには何か呪いらしきものはあったの?」
思い出すまでもなく、一つしか考えられなかった。
「おそらく、言葉を喋れなかったこと、ですね。言うなれば噤む呪いといったところでしょうか」
ベルニージュは少しの間、それを想像し、そしてユカリに尋ねる。
「喋れるようになったから憑依から解放された?」
「いま思い返すと、そう解釈することも出来そうな状況でした」
さやさやと流れる水音に親し気な水鳥の鳴き声、勇気が漲り誇りに満ちた船の軋み、午睡を誘うそれらの調べを吹き飛ばすようにグリュエーが強く吹き付ける。ユカリは魔導書が吹き飛ばないように堪え、髪の乱れは諦める。
「ユカリ! 川風が遊ぼうって言ってる」
「遊んでおいで」
「うん!」
ベルニージュが不思議そうな顔でユカリを見つめる。「グリュエーだっけ? それって本当に話してるんだよね?」
「私にも分からないです」とユカリは首を振る。「そういう魔法らしいですけど、深く考え始めると訳が分からなくなっちゃって」
「魔導書に限ったことじゃないけど、人智の及ばないものを理解しようとするのは危険だから気を付けて。ユカリが一番接してるんだから今更かもしれないけど。魔導書の気配はどう?」
「少なくともこれらの魔導書が憑依していた時は気配を感じられませんでした」ユカリは二枚の羊皮紙を目線に持ち上げる。「こうして憑依から解かれた魔導書は他の魔導書と同じで気配を感じます。魔導書の気配もあまり頼りにならないですけど、今度の魔導書は『咒詩編』よりもさらに見つけるのが大変そうです」
「そう?」と言ってベルニージュは伸びをし、立ち上がり、船べりに持たれて無邪気に遊ぶ川風を浴びる。「同系統の魔導書にはお互いを引き寄せる性質があるという説があるんだよ。磁石みたいにね。ユカリの冒険が、ミーチオン地方で一冊の魔導書を完成させたことがそれを裏付けた、と私は見るね」
魔導書を合切袋に片づけ、ユカリも立ち上がる。風にたなびき、炎のように煌めくベルニージュの髪を見つめる。
「でも当てずっぽうで探すのは変わらないじゃないですか」
「そんなことないよ」と言ってベルニージュはユカリに微笑みかける。「奇跡と称されるような魔法は魔導書と考えて良い」
ユカリは疑わし気に眉を寄せて尋ねる。「普通の魔法と魔導書の魔法、区別がつくんですか?」
「つかないよ。普通の魔法使いならね!」
そう言って胸を張るベルニージュの自信に満ちた笑みにユカリは勇気づけられる。
その時、船がざわついていることに気づく。水夫たちが右舷の方へ足音高く集まっている。ユカリとベルニージュもそちらへ急いだ。
地平線の向こうにいくつもの黒煙が天に挑みかかる蛇の群れのように立ち昇っていた。
「巌の山々の位置からして、四阿王国の方向だね」とベルニージュは言った。
ユカリは不安を口にする。
「それって、いま向かっている聖牢破り図書館の? 何事だろう。山火事でしょうか」
ベルニージュは静かに答える。「アルダニの、特に大河周辺は火種も多いから、色々ときな臭い噂があるんだよね。もしかしたら、だけど。戦争かもしれない」
「戦争……」ユカリは唾を飲み込む。「とりあえず船長さんと相談した方が良いですよね。どこまで近づけるか分からないですし」
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