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確かに戦があったようだ。ユカリもベルニージュも月下の水鳥号の水夫たちも進みゆく先に、その痕を見て取った。いくつもの船が無残に破壊され、穏やかな大河に身を横たえている。船尾から沈んで空を指す舳先。川風を受けて白旗のように揺れる破れた主帆。火に身悶えながらモーニアの慈悲に縋る船もある。
それでも後の歴史に語られるかどうかというささいな人の争いなど気づかないように、悠久の昔から変わることなく大河モーニアは穏やかに緩やかに遥かバイナの北海を目指して流れていく。
その有様を遠目に確認した時点で船は岸に着き、センデラの民と別れを告げたユカリたちを降ろす。簡素な別れと感謝の言葉を贈り合うと、揚げ策を引いて帆を張り、再びモーニアを遡って去って行った。
何が起きているのか分からない以上、何に巻き込んでしまうかも分からない。ここまで助けてくれた人たちを危険に晒すわけにはいかない。
黒煙はあいかわらずだ。次々に情勢が急変する戦場に上る狼煙のように幾本も昇り、勢いの衰えることなく、猛り狂う大蛇のように揺らめいている。
ユカリとベルニージュは砂っぽい岸に沿って、下流へと急ぐ。川での戦はもう決着がついているらしい。見渡す限り大河のどこにも航行する船は見えない。しかし行く先の岸辺にいくつかの軍船が係留されているのが見えた。
「あの紋章は川の子等王国だね」とベルニージュが言った。
遠く神秘の色濃い聖山から吹き下ろされた風を受け、赤い魚と黄色の盾の意匠が威を誇示するようにはためいている。
「テネロード王国は、えっと、アルダニ地方を三つに分かつ二つの大河に挟まれた領域の国でしたっけ?」
「そう。数か月前までハウシグと繰り返し戦を続けていて、長い交渉の末にようやく停戦の運びになったはずだけど。どうやら平和も長くは続かなかったみだいだね」
二人は船に残っている見張りに見つからないように秋の色づく灌木の茂みに身を隠しつつ、黒煙を目指してさらに下る。
蜜蜂が朝の勤めを終えて巣に帰り始める頃、ようやくユカリたちはハウシグの街の姿が遠目に見えるところまでやってくる。大河モーニアに寄り添うように築かれた城塞都市だ。河と街に沿って伸びる長い城壁にはいくつもの塔が立ち並び、胸壁の間には幾人もの兵士が行き交っている。白壁と尖塔の王城は壁の外からも堂々たる姿を見ることが出来た。
幾重もの黒煙を産み、天を黒く染めようとしているのはハウシグ周辺に広がる畑に燃え広がる炎だった。また城塞都市の手前にも向こうにも黒煙が上がっている。街の周囲の畑は全て燃やされている。少なくとも火に焼かれ、煙に咽ぶ悲鳴や叫び声が聞こえないことにユカリは安堵した。
木立に身を潜めるユカリたちの元まで白い煙が流れてくる。ユカリもベルニージュも目をしばたたき、戦の様子を観察しようとする。
アルダニ一の大図書館の国ハウシグの城塞都市があり、手前と奥で煙が上がっている。さらに手前にテネロードの軍勢らしき鎧った人々が集まっているが、どうにも混乱した状況なのか、あちらこちらへと行き交っている。少なくとも兵士たちが交戦している様子ではない。
「いわゆる兵糧攻めということでしょうか?」とユカリはベルニージュに答えを求める。
「どうかな。すでにハウシグ側は都市に立て籠っている様子だし、外の畑を燃やす意義はないと思う。なんなら自分たちで収穫してしまえば良い話でしょ」
言われてみればその通りだ、とユカリは思った。あるいは嫌がらせだろうか。
「とりあえず消火した方が良いですよね。このままではハウシグの大図書館に燃え移っちゃうかもしれません」
「城壁があるし、その心配はないと思うけど」
「でもまだ逃げ遅れた人がいるかもしれませんし」
「もしそんな人がいたら、ワタシたちが煙に気づいてここに来るまでに燃え尽きちゃってるよ」
「でも、でも」
ユカリは次の言葉を探したが見つからなかった。
「消したいなら消せばいいけど」とベルニージュは淡々と言った。「でもどうするの? これだけの広さを全部消すのは大変だよ。雨乞いの魔法はいくつか知ってるけど、さすがに雨が降り出す頃には何もかも燃やし尽くされた後だよ」
「モーニアに頼んでみます。川とか海はこういう時に頼りになります」
「そんじょそこらの川や海とは同列に語れない大河だよ、大丈夫? 不届きものめ、って飲み込まれたりしないでね」
「大丈夫なはずです。私に任せてください」
ユカリは再び流れの方へと戻り、グリシアン大陸でも指折りの大河モーニアに【話しかける】。
「麗しき大河、モーニアよ。お初にお目にかかります。ユカリと申します。どうか哀れな人の子の申し出を寛大なる慈悲をもってお聞きくださいませ」
大河のゆったりとした流れが言葉となってユカリに届く。
「人の子がわらわに申すのはいつぶりのことだろうか。わらわは麗しいか、人の子よ」
「はい。ええ、そうですね。雄大なりし大河の交わる処の美々しい名の源、遥けき聖山の頂に轟然と座す星の目も綾なる輝き、深淵に縁ありし女王の水際立つ涙、なお言葉に尽くせぬは貴女の麗しさの他にございません」
モーニアはわずかに波立ち、ユカリの方へと打ち寄せる。
「遥か古より相も変わらず、人の子は口ばかり達者よの。口の端に上るは願いと嘆きばかりよ。ともあれ、願い奉るは小さき者の業なれば、其に応えるは母なる大河の勤めであろう。どれ、足下の願いを申してみよ」
「有り難き幸せ。どうか清き御手の深き慈愛にて、罪無きハウシグの恵み多き畑を襲いたる炎と煙を鎮め給え」
「ハウシグ、ハウシグ。牢より罷り出づ古き名よ。罪深き者どもは皆、わらわの腹の中。その身を洗いざらい清めども深く刻みし名は途絶えぬか。良かろうぞ、力無き人の子よ。わらわを連れていくが良い」
「連れていく?」ユカリは無辺の大河を見渡し、助けを求めるようにベルニージュに視線を向けるが、首を傾げられ、再び河に目を戻す。「いかように致せばよろしいでしょうか?」
「両の掌ですくえば良かろう、愚かなる人の子よ」
ユカリは言われるままに流れに近づき、少し濁った水を両手ですくう。零れないようにしっかりと指を締めて、濛々と煙を吐き出す畑の方へと急いだ。ベルニージュは口出しせず、ただユカリについてくる。
まばらな木立を抜けると「決してわらわを零してくれるなよ」とユカリの掌の中の水が言った。
ユカリは何となくそうすべきだろうかと思い、天に捧げ持つように椀にした掌を持ち上げる。
すると、そのささやかな水はユカリの掌から溢れかえる。まるでその両手が大河の水源にでもなったかのように滾々と清水が湧き出でて、ユカリはそれを頭からかぶることになった。息継ぎでもするように何とか顔を背けて、ユカリが呼吸を確保した頃には、高き山々の懸河のごとく水流が猛然とした勢いで迸り、煙を吐き出す畑へと飛沫をあげて流れていく。
もはや水の塊にユカリの両手は浸かっていたが、決して掌を開かないように堪えた。
逆巻く怒涛は畑を呑みこみ、火と煙の軍勢を押し潰し、じゅうじゅうという最期の悲鳴に耳を貸さず、さらには堀に囲まれた城壁を回り込んで、ハウシグの後方にまで母なる腕を伸ばし、放逸なる火勢を誅する。白煙の代わりに水蒸気が現れ出たが、炎は全て消し去ってしまった。
今までの川や海に比べれば、とユカリはこれまでの旅路を思い返す。大河モーニアはよほど親切だ。
ユカリはなみなみと水を湛えた己の掌に辞儀する。「有り難くございます。寛大にして深き慈悲を湛えし大河、モーニア。万歳」
「戯れぞ」
こぽこぽと泡を浮かべて、そう言うとモーニアは全てユカリの掌から流れ出してしまった。
「ユカリ。沢山倒した方が勝ちね」
ベルニージュの言葉にユカリは振り返る。遠くからテネロードの騎兵らしき馬が数騎、駆けてくるのが見えた。当然、ユカリの全ての行いを見ていたことだろう。
「逃げる選択肢はないんですね」とユカリはため息をついて呟く。
「ないのよ」という囁きがユカリの後ろから聞こえた。
しかしユカリは振り返ることが出来なかった。両肩に細い指がそっと置かれているのを感じた。決して押さえつけられているわけではないが、その繊細な両手に、ユカリが振り返ることの出来ない理由があるのだと、ユカリにはなぜか分かった。ユカリの知らない秘密の力がその体を羽交い絞めにしている。
ベルニージュも振り返り、ユカリの頭上に視線を向けていた。あの巨躯の魔法使いパディアの背丈に向けるような視線であり、その紅の瞳を驚きが彩った。
「母上」とベルニージュは呟いた。