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気合の籠ったヤマヒメを前に、アバドンはぽりぽりと頬を掻く。
『……愛だのなんだの、実に下らない。人間の道を踏み外し、外道となったおまえが語れるようなものではないでしょうに。呆れたもんだ、筋金入りのわがまま娘。三千年も生きてきて、いつまで人間の理性にしがみついている?』
嫌悪。怒り。憎しみ。呆れ。あらゆる負の感情がアバドンの中で渦巻く。ヤマヒメの眩いばかりの希望に満ち溢れた姿が、気に入らなくて仕方がない。ヒルデガルドに対してもそうであったが、それ以上に同じ魔物でありながら人間であった頃を忘れられない彼女の精神性に、そうまでして何を守ろうと言うのか疑問が尽きなかった。
『良かろう、ではおまえの希望とやらをばらばらに壊してやる。愉しければ三日三晩くらいは付き合ってやるつもりだったが、中止だ、中止! 見せてあげよう、神の領域に至った者同士にも格差が存在するってことをね』
両手に杖を握り締め、高く掲げた。ヤマヒメもハッキリと理解する。今から行われる何かが、自分には防ぎようがないかもしれない、と。
「なるほど、奥の手ってヤツかい」
三千年。何もかもを手に入れ、大地を踏み均し、ホウジョウという鬼人のための島国を創り上げた。神の領域に至り、およそ恐怖という感情を忘れていた。だが、今、目の前に起きている事象に、足の震えを感じた。
「何者なんだ、てめえは……?」
アバドンは目をすうっと細めさせて。
『教えてあげな~い。だってこれから死ぬ奴に説明するなんて時間の無駄じゃないか。──《デメント・ブリンガー》』
空に浮かび上がった黒い魔法陣。肌がビリビリと痺れるような強烈な魔力。ヤマヒメも、対抗すべく歯をギリギリと鳴らして、全身を赤黒く染めていった。
「──紅天金剛躯体《こうてんこんごうくたい》」
妖力を肉体の強化に集中させ、防御能力に特化させ、地面を強く踏んで、腰を低くして耐える姿勢に入る。今の彼女はまさしく世界最強の盾だ。何を喰らっても微動だにしないほど頑強──の、はずだった。
だが、黒い魔法陣から放たれた二本の槍が目にも留まらぬ速さで彼女の胸を貫いて串刺しにした。鏃は地面に深く突き刺さり、後退を許さない。
「が……はッ!? わちきの、鉄壁をこうも容易く……!」
妖力が抜けていくのが分かる。アバドンの放った槍が吸収している。
『ヒョッホッホ! 馬鹿だねえ、オタク。勝てないと思ったんなら受けるより避けなきゃあ。そいつは魔力だろうが妖力だろうが、命の源を奪う破壊の槍だ。すぐには死ねないが、まあ、そのうち死ぬだろう。花が枯れていくようにな』
彼がぱちんと指を鳴らせば、さらに魔法陣から三本の槍が飛んでヤマヒメを襲った。足下に血だまりを作り、強烈すぎる痛みに悲鳴さえ上がらなかった。
「お、おのれ……! わちきを見下しやがって……!」
『見下してたらこんな大技使わないよ。認めてるさ、しっかり』
身動きが取れない彼女の前に立ち、アバドンは僅かに見下ろす。
『おまえは実に素晴らしい。これまで会った誰よりも強く、気高く、そして憎らしい。死の淵にありながらも、未だなお消えない闘争心と希望に満ちた瞳の輝き。何がおまえをそうまでさせる? たかが愛した男一人のためにか?』
顎を指でなぞられ、ヤマヒメはペッと唾を吐きかけた。
「ダチ公共のためだ、ナメんじゃねえ。わちきの愛した男の血を継ぐ、誰よりも懐の深い女のためよ。そのためなら死ぬのも怖くねえ。死んだって構いやしねえ。だからよ。──どんな手ぇ使ってでも、てめえは一発、本気で殴らねえとな」
突き刺さった槍が、ヤマヒメの肉体から徐々に白く染まっていく。何かに蝕まれて、ぼろぼろと灰のように崩れていく様に、アバドンも流石に危険を感じて下がろうとしたが、身体強化に特化している彼女の動きが一歩、速い。
「──紅蓮掌・槐諸刃裂罅《ぐれんしょう・えんじゅもろはれっか》」
赤黒く染まった掌底から放たれる強大な妖力の衝撃波。範囲を集中させることで破壊力を増した一撃。ヤマヒメの最大最強の技であり、奥の手。正面に立つアバドンを狙い澄ました技は、衝撃ひとつで二人が張った結界さえ壊す。
ただし、その代償は大きすぎて、放った体勢のまま、ヤマヒメはぴくりとも動けず立ち尽くした。全身が岩にでもなってしまったような感覚だった。徐々に心臓の鼓動が小さくなっていく。呼吸もできず、視界は虚ろになっていった。
ふと頭をよぎったのは、都に残してきた彼女の仲間たちの事。書置きひとつで、誰が納得しようかと思いながら、思わず笑みがこぼれた。
──ああ、ここまで清々しいとは思わなんだ。わちきは今日、ハジロ山にて骨を|埋《うず》める。悪いねえ。下らねえわがままで仲間を増やして、下らねえわがままで勝手に死んで。だけど、これでいいんだ。こうでなきゃならねえんだ。わちきはずっと、埋まらない心の寂しさにもがいていた。どうしたら、この苦痛から解き放たれるのか。
その答えがこれだ。ダチ公のために戦う。それで死ねるのなら本望。惜しむらくは、この先を見届けることができねえってことか。ホウジョウの未来も、ヒルデガルドの紡ぐ物語も。まあ、それも仕方ねえやな。自分の選んだ道なんだから。
『見事だった。さすがに、今回ばかりは死の危機を感じたよ』
アバドンの魔核の全体には亀裂が入っている。黒い魔法陣も消え、結界も崩れて空に昇るように無くなっていった。
『あと指先二本分、もしワタシが下がるのが遅れていれば、魔核は完全に破壊されていたことだろう。槐山姫、その名前、いくらの時を超えようとも、忘れることはない。その領域に至った己を誇りたまえ』
ヤマヒメの肉体はぼろぼろと砕け、衣服を残して、ただの瓦礫になった。そこに、ころんと転がった彼女の角を見つめ、アバドンは背を向けてローブを翻す。
『やれやれ、しかし……。これはワタシの負けだなぁ、残念』