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「ありがとうございましたー」
タクシーの後部座席で料金を支払い、開かれたドアから一歩外に出ると、勇斗の住むマンションのエントランスが目の前に在った。涼しかった車内から一変し、夏の夜でもまだ昼のように湿気が多く、空気は重たい。
一瞬でじんわりと汗ばむ手を、隣に居た男が掴んだ。こちらを振り返らないから、もう彼の行動はタクシーの車内で決まっていたんだと分かる。
鞄から取り出したカードキー。慣れた手付きでエントランスの扉を開ける。
同業者が多く住むと云われるセキュリティ性の高いマンション。だだっ広いのに隅々まで掃除が行き届いたエントランス。その壁に、二人して並んで。
なぁ。俺をこんな所に押し込んどいて、何でなにも言わないんだよ。
強く掴まれた手が痛い。この沈黙も、心が痛い。何かに耐えていることは分かるのに、それを言い出すことに葛藤している。ぜんぶ分かってしまうから、俺もなにも言えない。
その静寂を突き破る、俺の携帯の通知音。
「……もう、行かないと」
勇斗はもう上がりで、俺はこれから打ち合わせがあって。勇斗の家の近くが待ち合わせ場所だったから、ついでに俺もタクシーに乗っただけで。そう、互いが互いに言い訳をしていて。
俺の言葉に名残惜しそうに手を離す勇斗。整髪剤を落として崩れた前髪がふわりと揺れる。
背中を、向けた。一歩踏み出した瞬間、今度は身体ごと捕まえられた。
もう驚きはしない。ぜんぶ、分かってる。
「……ごめん」
やっと口を開いたと思えば、出たのは謝罪。
本音を隠し通したい気持ちとは裏腹に、その行動は素直だ。俺の服をぎゅっと掴んで、お気に入りのシャツが皺になってしまっているのに、なんだかそれすら勇斗の気持ちの現れなんだと愛おしい。
「ちょっとだけね」
「……うん」
後ろを振り返らない。それでも、俺が勇斗の行動を否定しないから、勇斗は安心して肩に額を乗せて長く長く息を吐く。
「おつかれ。今日大変だった?」
背後で勇斗がふるふると首を振る。
「じゃあ……何がつらい?」
服の皺が深くなる。シャツに食い込む指が白くなるほど、強く。俺を離せないでいる。
「……ねえ、勇斗。顔見せて」
勇斗にだけ聞こえるように小さく囁く。広いエントランスには、俺の声は響かない。まるで秘め事のようだ。
シャツを持つ手が離れ、重かった肩が軽くなる。俺は後ろを振り返り、ゆっくりと見上げた。
「ふっ……泣きそうな顔してる」
「……泣かねえし」
すんって鼻を鳴らしながら言っても、説得力に欠けるんだけど。
「ごめん……今日は部屋に行けないから、また後で電話して?」
本当は、今すぐこの大きな身体を抱き締めたいのに。今にも崩れてしまいそうな、勇斗の心を癒してあげたいのに。そばに居たい。勇斗が必要としているのは紛れもなく俺だから、俺が応えてやりたい。
それでも、現実は無情なんだ。
俺の言葉に傷付いた勇斗の顔を見ても、俺はこの手を前に出せない。ぐっと握り締めて、拳をつくることしかできない。
「……じん、と」
分かる。分かるよ。でも、その声はずるいなあって。
「……聞き分けて、勇斗」
甘く優しく切なく、俺を呼ばないで。揺らいでしまいそうな弱い自分も、勇斗のせいにしてしまいそうな自分も。でも本当は、俺を求めてくれてるって嬉しがってる自分が一番嫌いだ。
なんで今日なんだろう。なんで、この手を伸ばせないんだろう。なんで……自分まで泣きそうになるんだろう。勇斗の方がつらいのに、その目が寂しいって訴えかけているのに。
俺は……間違っている、のだろうか……。
「……ごめん」
さっきからずっと、お互い謝ってばかりだ。
「ううん。勇斗のそばに居られなくて……俺の方が、ごめん」
「ちがう。我慢、できなかった。仁人、打ち合わせあるのに、俺のわがままでここに居させて、遅れるかもしんないのに、離せなくて、おれ……」
「はやと、勇斗」
「っ……、ぁ」
勇斗の込み上げてきた感情が、決壊したダムのように次から次へと溢れて止まらなかった。名前を呼んで腕を掴んで、やっと正気に戻る。
あぁ、限界なんだなって。大人になったはずの身体が悲鳴を上げていて、子どもの心が助けを呼んでいる。
ようやく、勇斗の本音が聞けた気がする。耐えることばかり覚えてしまった現実で、心の柔らかいところを垣間見た。
だったら、これを取りこぼしちゃいけない。
「終わったら行くから、待てる?」
俺のたった一言に、こんなにも目を輝かせる。頬を緩ませながら何度も頷く。あーもう可愛いなって、これが惚れた弱みってやつだ。
「ありがと、仁人。泊まる?」
「多分泊まらない。ちょっと顔見てすぐ帰るわ」
「……うん」
「勇斗明日早いじゃん。邪魔したくないの。ちゃんと寝な」
「わか、った……」
またしょんぼりした顔に戻る。でもさっきより少し顔色は良くて、ホッとした。
ポケットに入れた携帯が震えて、現実が帰ってくる。
「ごめん、マジでもう行く。終わったら一応連絡するけど、ほんとに先寝てていいから」
ポケットの中を探って携帯を取り出す。待ち合わせ場所に先に着いたマネージャーからの着信だった。
通話ボタンに指をかける。
「じんと」
呼ばれて、顔を上げる。近付いた勇斗の顔が横を過ぎる。
頬に、勇斗の唇が当たった。
「いってらっしゃい」
勇斗の、今日一番のとびきりの笑顔を見た。
「っ……いってきます!」
ゆらりゆらりと手を振る勇斗に見送られ、入ってきたエントランスの扉を潜る。突然のことに動揺した指で通話ボタンを押した。
「すいません、すぐ行きます!」
速足で向かう足取りはどこか軽く、俺は緩んだ頬を隠すように手で顔を覆う。
じっとりした夏の夜風が、少し涼しく感じた。
コメント
1件
うわあ……もう、冒頭から切なくて苦しくなるような空気感ですね。エントランスっていう半公共の場所で、お互い本音を隠しながらも身体が正直に動いてしまう感じ、すごくリアルでした。仁人くんの「終わったら行くから」って一言で勇斗くんがぱっと明るくなるの、可愛いなって思いました。最後の「いってらっしゃい」のキス、完全にやられました……続きが気になります!