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多香子はその小さく細い腕の中に、その小さな生き物を抱きしめて海岸に向かって必死で走った。
背後からは大勢の大人が彼女の名を大声で呼びながら追いかけて来る。
「タカコちゃん、聞こえますか? その生き物をこちらに渡しなさい。あぶないから、言う事を聞いて」
多香子はそれに耳を貸さず、サンダルでビーチの砂をはね上げながら波打ち際に向かって走る。もう少しの所で転んでしまうが、すぐに立ち上がってまた走る。
細い銀色の短い毛に覆われたその小さな生き物を腰まで海水に漬かったあたりで手放した。
その生き物は水の中に入ると体をくねらせて多香子の周りをクルクルと泳ぎ回り、側を離れようとしなかった。多香子は首を伸ばしてすり寄ろうとするその生き物のごつごつした頭をなでながら語りかけた。
「早く行って。あの大人の人たちに捕まったら、えぶちゃんがひどい事されるんだよ」
多香子の背後から目もくらむような光が当てられた。同時に数人の男の声が同時に上がる。
「いたぞ、あそこだ!」
「子どもを保護せよ! 他の者は生物を探せ」
えぶちゃんと呼ばれた生き物は驚いて身を震わせ、多香子の体から離れて素早く海に潜って姿を消した。
ばちゃばちゃという音がして、背の高い制服姿の男が多香子の体を海水の中から抱き上げた。頭に付けているインカムに向けて男は叫ぶ。
「こちら山本陸士! 当該児童の身柄確保! けがは無い模様。送れ」
インカムから相手の声が聞こえる。
「本部了解。当該生物は視認できるか?」
「当該生物の姿確認できず! 海中に逃亡したものと推測。送れ!」
「本部了解。山本陸士は当該児童を本部へ護送せよ」
「山本陸士了解。オーバー!」
多香子はその男に抱きかかえられたまま、海から少し離れた大きなテントに連れていかれた。テントの中には多香子の母親が、椅子に座っていた。
母親が立ち上がって、多香子を抱きしめた。
「大丈夫? えぶちゃんはどうしたの?」
「海に入って行ったよ、ママ。えぶちゃんは海の中でも生きていけるんだよね?」
「そうよ。フフ、よくやったわ」
テントに入って来た、制服姿の別の男が多香子の母親に、威圧的な口調で言った。
「神崎(かんざき)教授。東京の防衛省本省までご同行願います。貴女にはお尋ねしたい事が山ほどありますので」
母親は不敵な笑みを浮かべながら平然と返した。
「いいけど、この子の父親が迎えに向かっているから、連行するのはそれまで待ってくれない?」
やがて多香子の父親が真っ青な顔でテントに駆け付け、母親はすっかり暗くなった空へ、深緑色のヘリコプターに乗せられてどこかへ連れて行かれた。
翌日の昼、多香子が同じ波打ち際で砂を手で掘り返していると、父親が走って来て多香子の体を抱き起こした。
「こら、どうしてここへ来た? 昨日の今日だというのに」
多香子は半分べそをかきながら父親に自分の頭の左側を指差した。
「あのね、ママにもらった、あれ、昨日なくしちゃったみたい」
父親はそう言われて、娘がいつも髪を止めているバレットをしていない事に気づいた。
「ああ、赤い花の形の飾りが付いてた、あの髪留めか?」
父親は周りの砂浜をぐるっと眺めまわしてから、多香子に言った。
「あの後に満ち潮が来たから、多分流されてしまったんだろう。また買ってあげるから家に帰ろう。勝手にこの辺にいると、自衛隊のおじさんたちに怒られるよ」
近くで水が跳ねる音がした。もしやと思って海面を見たが、そこには丸い波紋以外何も無かった。
多香子ははっとしてベッドから飛び起きた。
「夢か」
そうつぶやいた瞬間スマホのタイムアラームが鳴る。ベッドから出て夏用の制服に着替え、バッグの中の教科書がそろっているか確認する。
一階へ下り、洗面所で身支度を済ませ、リビングへ入ると父親がテレビのニュースを見ながらコーヒーを淹れていた。ニュースはこう伝えていた。
「昨晩、沖縄県石垣市の三角諸島沖で沈没した中国海警の船舶の乗組員は全員が海上保安庁によって救助されました。中国は三角諸島の領有権を以前から主張しており、今回の沈没は日本側の攻撃である可能性があるとして、日本政府に調査を要求しています」
多香子は父親からコーヒーカップを受け取りながら訊いた。
「これって石垣島の近くだよね?」
父親もテレビの画面に気を取られながら朝食の皿を並べる。
「ああ、そうだ。もう11年前になるか、あの時の騒ぎから」
「そっか、このせいだ。昨日このニュース見たから、昔の事を夢に見たんだな」
「そうだ、お母さんから昨日突然連絡があってな。近いうちに日本に来るかもしれんそうだ」
「ええ? 日本に帰って来て大丈夫なの? 入国した途端に逮捕されたりしない?」
「ははは、それはないだろう。あの後、正式にアメリカの政府系の研究機関に転職したんだからな。まったく何をやっているんだか、あのマッドサイエンティストは? 多香子はちゃんとした仕事に就くんだぞ。受験は決まったか?」
「まだ早いよ、お父さん。花の高2なんだから、今は青春謳歌しなきゃ」
多香子が一足先に自宅マンションの外へ出ると、まばゆい夏の光が東京の上に降り注いでいた。
東シナ海で訓練航海中の海上自衛隊の艦隊の旗艦のブリッジ。艦長と副長が並んで窓の側に立ち、会話を交わす。
「ところで艦長、この副次任務というのは何です?」
「そうか、君はこの海域の任務は初めてだったな。不審な生物がいないか、訓練がてら調査しろというわけだよ」
「不審な生物? ひょっとして、11年前に海に逃げたというアレですか?」
「その通りだ。当時の調査によれば、かなり大きなサイズに成長している可能性があるらしい。もっとも、その兆候はずっと見つかっていないがね。とっくの昔に、大きな魚のえさになったんじゃないかな」
「なるほど、しかし自衛隊としては捜索をやめてしまうわけにもいかない、と。気の長い探し物ですね」
大きなヘッドセットを耳に当てているソナー監視員が突然大声を上げた。
「ソナーに感あり! 潜水艦? いや、違う。正体不明の巨大な何かが水中にいます!」
艦長が駆け寄って緊迫した口調で尋ねる。
「位置は?」
「本艦の直下! 推定全長、50メートル」
「クジラか? いや、それにしても大き過ぎる」
次の瞬間、艦全体が下からドンと突き上げられる衝撃を受け、ブリッジの全員が床に放り出されそうになった。
水しぶきが上がり、ブリッジの窓の外に「それ」が半身を海面の上に現した。西洋のドラゴンのような頭にやや長い首。ゴツゴツとした黒い肌に、銀色の細い毛が短く伸びている。
その巨大な生物は艦隊の真ん中を悠々と泳いで行く。向かう方向にあるのは日本列島。
艦長は通信士に横須賀基地への直通回線を開かせ、マイクを握り締めて叫んだ。
「こちら第9護衛隊群。巨大生物を視認! 繰り返す、巨大生物を視認にて発見!」
三日後、多香子が教室で授業を受けていると、突然空中からバリバリと轟音が聞こえて来た。それはまっすぐこちらへ向かって来た。
全ての教室の窓に授業中にも関わらず生徒が鈴なりになって、その音の発信源である、プロペラが二つ両翼に着いた航空機を見つめた。男子生徒が騒ぐ。
「あれ、ティルトローターってやつじゃねえ?」
「そうだ、オスプレイV22だぜ」
「じゃあ米軍か?」
「いや、自衛隊のマークが付いてる。おい、マジでこっちに向かって来てるぞ!」
オスプレイは学校の上空まで来ると、プロペラの角度を変え、ヘリコプターの様に、ちょうど空いている運動グラウンドに着地した。
迷彩服姿の自衛隊が二人降りて来て、駆け寄って来た校長たちと対峙した。校長はぶるぶる震えながら、隊員たちに問いかけた。
「い、一体何事ですか? ここは高校、それも授業中ですよ!」
隊員の一人が敬礼しながら答えた。
「緊急ですので、失礼はご容赦下さい。こちらの2年生に神崎多香子さんという女子生徒がいらっしゃるはずです。その方を至急、保護する必要が生じました」
「はあ、確かにそういう生徒はおりますが、しかし保護者の同意がありませんと……」
「それならここにいますよ」
オスプレイの中からそう声がして、ショッキングピンクのスカートスーツに身を包んだ女性が降りて来た。彼女はパスポートを開いて、校長の目の前にかざした。
「私がその保護者です」
校舎の二階の窓からその光景を見ていた多香子は思わず叫んだ。
「ママ! あれ、あたしのママだ!」
同時刻の首相官邸。閣議の最中に秘書が総理大臣に耳打ちする。総理は立ち上がって大臣たちに告げた。
「すまんが、閣議は一時中断する。アメリカ大統領から緊急の電話会談の要請が来た」
官邸の別室で総理は電話の受話器を取った。横に控えている通訳が相手の言葉を総理のヘッドセットに伝える。それを聞いた総理は青ざめた。
「何ですと! 核兵器を使う? いや待って下さい、大統領。これは我が国の問題であり……」
約十分後、総理は再び大臣たちを招集し、彼らに伝えた。
「あの巨大生物を我が国が処理できない場合、戦術小型核ミサイルを使用すると、米国大統領から通告された」
防衛大臣が身を乗り出した。
「そんな横暴な! 米国は自衛隊を信用できないと言うのか?」
総理は力なく答える。
「あの巨大生物が太平洋を越えてアメリカ西海岸に到達したら……米国政府はそれを恐れているようだ」
他の大臣たちも堰を切ったように声を上げた。
「なぜ11年も、影も形も見せなかった巨大生物が、今になって現れたんだ? なぜ日本本土へまっすぐ向かってくる?」
「何かの目的があるはずだが」
「何が目的であろうが、あんな巨大な生物が人口密集地を歩き回ったら、甚大な被害が出るのは目に見えている」
防衛大臣に秘書官が何かを耳打ちした。防衛大臣は小声で「通せ」と指示した。
秘書官がドアを開き、多香子の母親が威風堂々と部屋に入って来た。防衛大臣が他の閣僚に告げる。
「みなさん、米国政府から派遣された戦略アドバイザーです」
総理大臣が彼女を見て苦々しげに言った。
「神崎教授、あんたか!」
神崎はニヤニヤしながら挑発的に言う。
「お久しぶり。あなたが防衛大臣だった頃以来ね。あいさつは抜きにして、要点だけ言うわ。あれは昔あたしが遺伝子操作で作った、人工生物。世話をしていたあたしの娘は『えぶ』って呼んでた。
「えぶ? 何か意味があるのかね?」
「Evolution Boosted Ultimate. 日本語に訳せば、進化を加速させた最終形態ってとこね。略してEBU。これを子どもが発音したんで、えぶ」
神崎教授の説明が続き、閣僚たちは驚愕の表情で聞き入った。話が一通り終わったところで、総理大臣が厳かな口調で言った。
「名前が必要だな。今後あの巨大生物を『エブラ』と呼称する」
防衛省の賓客用の部屋で、多香子と父親が所在無さげにソファに座っている。母親の神崎教授と防衛大臣、統合幕僚監部の幕僚長が部屋に入って来た。
父親が立ち上がって三人に詰め寄った。
「これは一体、どういう事なんだ? どうして今さら多香子を巻き込む?」
神崎教授が答える。
「あの巨大生物、エブラは多香子の所へ来るつもりなのよ」
多香子もソファから立ち上がって叫んだ。
「あの怪獣は、えぶちゃんなの?」
「そう。エブラにはテレパシー能力があるの。多香子のいる場所が正確に分かるんだわ」
「でも、どうして今になって姿を現したの?」
「そこだけが謎なのよ。生まれたばかりのエブラに餌をあげたり、体を洗ってあげたり、世話をしていたのは多香子だから、あなたの事をお母さんだと思っているのかもしれないわね。でも、なぜ今なのか、の説明にはならない」
防衛大臣が口を開いた。
「そこで神崎多香子さん、あなたに協力をお願いしたい。なるべく被害の出ない場所にエブラを誘導し、自衛隊が迎撃します。あなたには、その場所へ移動していただきたい」
父親がさらに詰め寄った。
「うちの娘を囮に使う気か?!」
神崎教授が割って入る。
「あなた、落ち着いて。エブラが多香子に危害を加える意図はないはずよ。エブラの意図が何かが分かって、それを解決できたら、海に戻ってくれるかもしれない」
父親はまだ怒りで体を震わせながら訊いた。
「それでどこへ連れて行くんだ?」
統幕議長が脇に抱えていたタブレットの画面を父親と多香子に見せた。父親がつぶやく。
「お台場?」
統幕議長が言葉を続ける。
「住宅地の市民の避難は既に始まっています。ここなら島ですから、レインボーブリッジを封鎖して最終防衛線を張ります。無論、娘さんの身の安全は自衛隊の総力を挙げて確保いたします」
多香子と母親の神崎教授が東京ビッグサイト内に設置された、対エブラ迎撃作戦本部に移送されている間にも、伊豆半島沖では海上自衛隊の護衛艦群が攻撃を行った。
対潜水艦ミサイルが次々と発車されたが、エブラは水中で巧みにかわし、長い尾で弾き飛ばし、命中させなかった。
エブラはそのまま東京湾の入り口である浦賀水道に接近。計10隻から成る潜水艦隊が通過を阻止しようと試みたが失敗。
エブラはまっすぐにお台場へ向かい、最終防衛線であるレインボーブリッジ上には陸上自衛隊の戦車部隊が並んで待ち構えた。
お台場近くの海面には、急遽F35Bステルス戦闘機を搭載した、いずも型護衛艦が待機。航空自衛隊のF35A戦闘機は東京都横田基地に集結。
在日米軍は全軍臨戦態勢に入り、第7艦隊が横浜港沖に展開。グアムの米軍基地では核ミサイルを搭載したB1超音速戦略爆撃機が発進準備に入った。
だが、自衛隊の通常兵器はことごとく、エブラには利かなかった。ミサイルも砲弾もエブラの進行を止める事は出来ず、レインボーブリッジ直下を突破された。
そして遂に、お台場海浜公園のビーチにエブラは上陸した。後ろ足で直立した二足歩行の巨大生物は、ティラノサウルスのそれをもっと大きくしたような前足を縦横に振るって、行く手を妨げる陸橋や建造物を踏みつぶしながら、東京ビッグサイトに迫った。
防衛本部内では、作戦隊長が多香子の避難を決断した。ビッグサイトの奥まった場所に待機していた多香子と神崎教授の所へ隊長は赴き、切迫した口調で告げた。
「裏手に脱出用のオスプレイを着陸させます。それに乗って下さい。ここは多分持ちこたえられない」
二人が裏手の開けた場所に出て、そこへオスプレイが1機降下してくる。
その時エブラが、前脚を左右に大きく開いた。前脚から腰にかけて膜があり、まるでムササビのように、エブラの巨体が宙を飛んだ。
風圧で、二人を迎えに来ていたオスプレイは吹き飛ばされ、多香子の目の前に、エブラは舞い降りた。
ドラゴンのような巨大な顔が、多香子の方に近づく。神崎教授は成す術もなく多香子の体を後ろから抱きしめた。
エブラの口が大きく開き、多香子が手を伸ばせば届く距離まで近づいた。それを見た自衛隊員の一人が悲痛な叫びを上げた。
「まさか、あの女の子を食う気か?!」
多香子は手を伸ばしてエブラの鼻先を触った。大きさは違っても、確かに6歳の頃の多香子が可愛がっていた、あの生き物だと確信できた。
「えぶちゃんなの?」
多香子はそう話しかけてみた。エブラは目を細めて、クーンクーンと甘えるような声を出した。
エブラの細長い舌が口の奥から何かを取り出し、そのまま多香子の目の前に伸びて来た。その舌先にある物を見て、多香子はハッと息を呑んだ。
それは赤い花の飾りが付いた髪飾りだった。ピンの部分は変色して黒ずんでいたが、紛れもなく、あの幼い日に、多香子が石垣島の海岸で失くしてしまった、あの髪飾りだった。
「えぶちゃん。ひょっとして、これが見つかったから、届けに来てくれたの? そのために、あたしを探していたの?」
エブラはグゥオという声を出した。多香子には、それは喜んでいる様子に思えた。
多香子が髪飾りを手に取り、受け取ったのを見届けると、エブラはゆっくり立ち上がり、くるりと背を向けて、海の方へ歩き出した。
あたり一帯に地響きを立てながら、エブラは一直線に海を目指し、少しずつ海水の中に没して行った。
多香子を抱きしめたまま、神崎教授はつぶやいた。
「探し物は見つかったようね。誰にとっても」