東京湾岸の埋め立て地の片隅に、完成間近で放置されている中層ビルが立っていた。外見は真新しいが既に廃墟のような退廃的な雰囲気に包まれていた。
一人の若い男がフラフラとした足取りでビルの入り口にやって来た。通用口の小さな扉が耳障りな音を立てて開き、昔のヨーロッパの貴族の館にいたような黒いメイド服を着た女性が尋ねた。
「あなたがメールで連絡をくれた方でいらっしゃいますか?」
若い男が無表情のままうなずく。女は彼を中に招き入れた。若い男が後を歩いて行くと、広大な空間に出た。
元々ホテルになる予定の建物だったようで、おそらく大宴会場になるはずの空間だったのだろう。その中央に何か巨大な物の影が見えた。
暗い空間に、若い男を取り囲むように多くのゆらめく影が現れた。その影の内の一つが若い男に向けて問いかけた。
「あなたで108人目よ。喜んで、あなたは記念すべき最後の一人になる」
薄暗い光の中で、大きな仮面で目元を隠したその人影が問いかけた。声から判断して、まだあどけない少女という風情だ。長い黒い髪を無造作に背中に垂らしていて、仮面の穴からのぞく瞳が青い。
「でも本当にいいの? 命をもらうの事になるんだよ」
若い男は少し怯えた口調で言葉を返した。
「あんたたちは何者だ?」
影たちは不気味な甲高い笑い声を上げて答えた。あの少女の声がまた響いた。
「そうね、言うなれば、つくも神と呼ばれる、人が使い捨てた道具に魂が宿ったものよ」
若い男はむっとした口調で言い返した。
「道具? 俺は人間だぞ。どうして道具の成れの果てが俺を選んだ?」
少女が笑いながら言う。
「あなたも道具として生きてきたのではなくって? 他人にいいように使われる道具として。非正規労働者と言うのよね? それは道具と同じではないの?」
「そうだな」
若い男はため息交じりにうなずいた。
「確かに正社員の都合のいい道具として生きるのはもうまっぴらだ。人間としての未来がないのなら、この命好きなように使ってくれ」
辺り一帯に影たちが発する甲高い笑い声が響き渡った。
数週間後、夏のある夜、あの湾岸の建物から異臭と異音がするという通報を受けた二人組の制服警察官がパトーカーで現場へ到着した。
年上の警官が懐中電灯でビルを照らしながら掌で鼻を覆った。
「こりゃ確かにひどい臭いだ。生臭いというか。だが、死臭とは違うな」
若い警官も顔をしかめて辺りの地面を照らした。
「インバウンドを当て込んで建設したけど、途中で放棄されたビルですよね。何か生き物が住み着いたんでしょうか?」
「あっちのシャッターが開いてるな。駐車場の入り口か? ちょっと見て来る。ここで待機してくれ」
年上の警官がその場所へ近づく。すぐに悲鳴が上がった。若い警官が驚いて灯りを向けると、年上の警官の体に何か太いホースのような物が絡みつき、彼の体はそのままビルの中に引きずり込まれた。
「まさか、ニシキヘビか?」
若い警官が駆け寄ったが、同僚の姿は帽子だけを残して消え去っていた。グルルという低いうなり声が聞こえた。
若い警官が懐中電灯の明かりを上に向けた。二階の窓に巨大な目玉が見えた。警官があわてて走り出そうとした瞬間、ビルの外壁が内側から崩れ、巨大な手が警官を上から叩きつぶした。
その巨大な生き物は、ビルの外壁をさらに崩しながら、外へ体を現した。頭部と上腕は猿、胴体は虎、背には亀のような甲羅があり、後脚は狼のよう、尻尾は目の無い蛇のような形。
その巨大生物は完全に外へ出ると夜空を見上げ、ヒョーヒョーと甲高い鳥のような声を響かせた。
巨大生物は血走った眼を巡らせる。高級住宅街のマンションの灯りが遠くに見える。その巨大生物は地響きを立てながら、その住宅街の灯りの方へ向けて、後ろ足で立って歩き始めた。
翌朝、無残に破壊された湾岸の高級住宅地のマンション群の周りを警察と自衛隊の車両が取り囲んでいた。
あの巨大生物はその中央に座り込んで、体を丸めて眠り込んでいる。カメラを取り付けたドローンが数基、巨大生物を刺激しない距離から映像を送っている。
仮設の対策本部テントの中で、陸上自衛隊の隊長と警視庁の警部が、パソコン画面に送られている警察署の取り調べシーンの録画を見つめていた。
画面の中では、取調室の椅子に座った白髪の老人が、容疑者とは思えない不敵な口調で警察官に向かって話していた。
「わしは数種類の動物の細胞と108人の人間の細胞を融合させて、あれを作った。最強のキメラ生物だ。いわば(ぬえ)だな」
取り調べの警察官が怒りを含んだ口調で質問する。
「なぜそんな物を作った? あの怪物に32人もの市民が殺されたんだぞ。しかも、そのうち10人は……食われた」
「そうしろというお告げを受けたんじゃよ。超自然的な何かが、俺を選んでお告げを伝えた。こんな事が現代の科学で可能だとは、俺も夢にも思っていなかったがな」
「お告げだと? ふざけるな。罪もない市民の命を奪う理由になるのか?」
「おまえたち公務員に、任期付き研究者の気持ちが分かるのか? 未来も将来もない、希望もない。同じ境遇の若い連中は喜んで体を捧げてくれたよ。これは復讐なのだ。虐げられ、道具のように利用されて生きてきた俺たちの、世間への正当な復讐だ!」
自衛隊の隊長は、動画を止めて吐き捨てるように言った。
「イカれてやがる」
自衛隊の部下がテントに飛び込んで来て大声で叫んだ。
「巨大生物が活動を再開! 都心方向へ向かっています!」
紗理奈(さりな)のスマホに通話の着信が入ったのは、両親と避難の準備をしている最中だった。
謎の巨大生物、今は便宜的に「ヌエ」と呼ばれている、あの怪物がやって来るかもしれないという事で、紗理奈の住む住宅地一帯にも避難指示が発令されていた。
「もしもし、え? ミナセちゃんなの。岐阜に住んでた時のクラスメートのミナセちゃん? わあ、久しぶり。あ、悪いけど今立て込んでて……え? どういう事?」
紗理奈は父親に向かってためらいながら言ってみた。
「ねえ、お父さん。今から車出してもらえる?」
父親はキャリーバッグに荷物を詰め込む手を止めて、ポカンとした表情で訊いた。
「何の話をしてる?」
「あたしが中学生の時、お父さんの転勤で岐阜県に住んでたでしょ。あの時のクラスメートだったミナセちゃんて子、覚えてる?」
「ああ、神社の神主さんの娘さんだったな。あの子がどうした?」
「すごく大事な用があるんで、あたしに助けて欲しいんだって。この怪獣騒ぎに関係があるかもしれないって」
紗理奈の母親が驚いて声を上げた。
「何よそれ? それに今こんな時なのよ」
紗理奈はスマホを顔にあてたまま、首を傾げながら言った。
「それが、もう品川駅まで来てるんだって。新幹線そこで止まっているから」
ヌエの予想進行方向が、紗理奈の住む地域とずれている事がテレビのニュースで分かって、結局父親は紗理奈とともに車で品川駅へ向かった。
品川駅は西へ向かう折り返し運転の新幹線で避難しようとする人々でかなり混雑していた。
紗理奈と父親が彼女を見つけた時、二人は思わず目を見張った。純白の着物に緋色の袴、草履という巫女姿だったからだ。
紗理奈と同じ17歳にふさわしい、黒い髪を長く伸ばしていた。中学の頃の面影を残した美少女は、何かに取り付かれたような凛とした顔つきをしていた。
紗理奈は戸惑いながら話しかける。
「ミナセちゃん、だよね? あたしを覚えてる?」
ミナセはゆっくりとうなずいた。
「こんな時にごめんね。東京に知り合いは紗理奈ちゃんしかいないから、他に頼れる人がいないの」
「それはいいけど。あたしに何を頼みたいの?」
「これを」
ミナセは服装に不釣り合いなスポーツバッグを足元から取り上げ、中から50センチほどの高さの赤茶色の物を取り出した。
それは埴輪のように見えた。古代の兵士らしき形の、ずんぐりとした突起の少ない形をしている。ミナセはそれを大事そうに胸に抱えて言葉を続ける。
「うちの神社の神様からお告げがあったの。これをある場所まで運べと。あたしは東京に来た事がなかったから、行き方が分からない」
紗理奈が場所を訊くと、ミナセは着物の懐からスマホを取り出し、地図アプリの画面を見せた。
紗理奈は父親に言った。
「お父さん、この場所分かる?」
父親は地図の表示を見て、眉をしかめた。
「皇居の近くだな。大手町?」
皇居のお堀にほど近い、高層ビルの谷間のような場所にそれはあった。畳にして十畳ほどの開けた場所に、ポツンと墓石のような石碑が立っている。
玉砂利を敷き詰めた地面の中に石畳の通路があり、その石碑の前まで行ける。近代的な高層ビルに囲まれたその場所は、まるで異世界に紛れ込んだかのうような気分にさせた。
ミナセは石碑の前に歩み寄り、うやうやしく埴輪を両手で抱え上げた。
ドクンという低い音が辺り一帯に響いた。紗理奈と父親が驚いて後ずさる。どこからともなく野太い声が聞こえてきた。
「おぬしが宿儺(すくな)か?」
紗理奈と父親が辺りを見回すが、人の姿は全くない。なおも声が響く。
「朝敵同士のよしみで力を貸せと言うか? 面白い。その話、乗ってやろう」
紗理奈はその敷地の端にある案内板に何気なく目を止め、そして叫んだ。
「これって、将門(まさかど)の首塚?」
紗理奈はミナセに向かって叫ぶ。
「平将門(たいらのまさかど)って、昔の謀反人でしょ? そんな悪人に何をさせる気なの」
あの声が笑いを含んだ口調で言う。
「娘よ。案ずるな。われが朝敵となったのは、民の暮らしの安寧を願っての事。坂東新皇(ばんどうしんのう)を名乗った身として、おぬしら草莽の民は、われが守ろう」
ミナセの手から埴輪が宙に浮きあがった。突然、雲一つない晴れた空に稲妻が数度走り、埴輪がまばゆい光に包まれた。
紗理奈と父親が顔を覆っていた手を降ろした時、すぐ横の道路の上に巨人が立っていた。
古めかしい甲冑を着た高さ20メートルはあろうかという巨体。その巨人が紗理奈たちに背を向けると、体の後ろ側にももう一つの顔があった。
その巨人は地鳴りのような足音を立てながら、ある方向へ歩き出した。その巨体を見送りながら、紗理奈はミナセの側へ駆け寄った。
「ミナセちゃん、あれは何なの?」
ミナセはぐったりとして紗理奈にもたれかかるようにして答えた。
「あれは両面宿儺。昔、飛騨地方で大和朝廷と戦ったという伝説の鬼神様。将門様と力を合わせて、あのヌエという怪獣と戦うのよ」
巨大生物ヌエは湾岸の埋め立て地域の幹線道路沿いに北上。行く先々でビルを押し倒し、逃げ遅れた人たちを蛇のような尾で餌食にしながら、のし歩いた。
陸上自衛隊の戦車隊と対戦車ヘリが攻撃を加えたが、ヌエの体はたとえ砲弾で肉をえぐられても、見る見るうちに再生してしまい、全くダメージを受けていないようだった。
航空自衛隊の戦闘機によるミサイル攻撃も検討されたが、逃げ遅れた住人がいる可能性のある人口密集地での空爆は危険が高過ぎるとして見送られた。
日比谷公園の南端で巨人両面宿儺とヌエは対峙し、周りの建物をなぎ倒しながら、激突した。
巨人の腕に吹き飛ばされたヌエは、地面に伏した後、30メートルの高さにジャンプ。巨人の背後を取って背中から襲いかかったかに見えた。
だが、巨人の頭の後ろにある顔が目を見開き、腕と足の関節が今までと逆の方に曲がり、体の前と後ろが入れ替わった形になった。
カウンターパンチを食らった体勢のヌエは霞が関の官庁ビルに倒れこみ、財務省本庁舎の外壁を一部破壊した。
だが、巨人の攻撃をいくら食らっても、恐るべきスピードで再生する体のヌエに決定的なダメージを与える事はできず、一進一退の攻防が繰り返された。
巨人と巨大生物は絡み合ったまま、国会議事堂へと迫って行った。ヌエの凶暴さはとどまる事を知らず、巨人の方が防戦一方になり始めた。
皇居内では宮内庁長官と侍従長が押し問答をしていた。宮内庁長官は色をなして侍従長に詰め寄る。
「早く両陛下に避難していただかないと。自衛隊ですら足止めできないんですよ」
侍従長は柔らかい物腰で、しかし決然とした口調で告げた。
「陛下は宮中三殿でお祈りを捧げておられます。国民を置いて自分たちだけ安全な場所へ逃げる事はできぬ、とのお言葉でございます」
「それでは、陛下の身に万一の事が起きかねませんぞ!」
「ならば国民を守り切れなったという事になります。もしそうであるなら、国民と運命を共にするのが、この国の象徴たる自分の責務である。両陛下とも、そうおっしゃっておられます」
宮内庁長官は引き下がらざるを得なかった。
同時刻、名古屋の熱田神宮の境内が強烈な振動に見舞われた。社殿の外へ飛び出した宮司たちは、ほんの数百メートル離れた境内の外は全く揺れていないのに気づいた。
「地震ではなかったのか?」
ゴーッと音がして大きな光の棒のような物が空へ飛び去って行くのが見えた。神殿の中の様子を確認に行っていた職員の一人が必死の形相で走って来て宮司に叫んだ。
「大変です! ご神体が見当たりません」
宮司は光が飛び去った方向の空を見つめてつぶやいた。
「まさか飛んで行ったというのか? 草薙の剣が……」
首相官邸を半壊させたヌエは、皇居の桜田門に近づいていた。巨人はなんとか押しとどめようとするが、ズルズルとお堀の近くに追い詰められて行く。
そこへ大きな棒状の光が到達し、巨人の手に収まった。光が薄れ、巨大な古代の剣に変わった。
巨人の内側で二つの声が会話を交わした。
「これは気の利いた物を寄こしたな。三種の神器の一つをわれらに貸すというのか?」
「今は草薙の剣ではなく、天叢雲(あめのむらくも)の剣と呼ぶ方がふさわしかろう。ヤマタノオロチの力として使わせてもらうか」
巨人が剣を振り下ろす。ヌエの肩に刃が食い込み、緑色の血が噴水の様に噴き出す。ヌエは剣を振り払い、数歩下がって回復を待つ。だが、傷口は今までと違って、ふさがらなかった。
巨人が剣を真横に振る。ヌエの腹が裂け、ヌエは初めて苦悶の絶叫を発した。
巨人は剣を左右上下に何度も振り下ろし、ヌエの肉を少しずつ削り落とした。切り落とされた肉片は黒いガスを発して、そのまま腐敗し始める。
巨人は剣の最後の一振りで、ヌエの首を切断した。ヌエの首は桜田門と祝田橋の間のお堀の水の中に落下し、断末魔の絶叫を上げて動きを止めた。残った胴体はそのまま地面に倒れこみ、その後10分以上ピクピクと痙攣し続けた。
巨人は皇居の内に目を向けた。片方の顔の口が開いて、将門の声が爆音の様に響き渡った。
「今の世の帝(みかど)に問う。この国の民は幸いであるのか? この化け物は民草の怒りと憎しみと怨念の化身ではないか」
近くのビルの地下街に避難していた紗理奈、ミナセ、紗理奈の父親が地上へ出てきた。
ミナセは巨人の方を向き、両手を指を組んで合わせ、透き通った声で歌い始めた。
「守りもいやがる、盆から先にゃ」
唖然として見つめる紗理奈と父親にかまわず、ミナセは朗々と歌い続ける。
「雪もちらつくし、子も泣くし……」
巨人がミナセの歌声に気づいた。巨人の中で宿儺の声が将門に語りかけた。
「あの子守歌を受け継いでいる民がいるようだ。将門よ、ここは退かぬか? この国の在り様、今しばらく様子を見ようではないか」
「よかろう。これはおぬしの体であるしな。だが、最後にこれだけは言わせろ」
巨人の二つの顔の二つの口が同時に、再び大音声を発した。
「この国の帝と、帝の名のもとに政治(まつりごと)を仕切っておる大臣(おおおみ)たちに申す。われが時の朝廷に反旗を翻したは、民の苦しみを見るに見かねたため。今この国の民は等しく幸せであるか?」
巨人は体の向きを変え、さらに吠えた。
「もし、この国の民草の不幸せと犠牲の上にこの国が成り立っているというのなら、次はこの鬼神とおぬしらは戦う事になる。しかと、そう心得よ!」
巨人の足元ではミナセが歌の最後の一節を、声を限りに詠じた。
「はよも行きたや、この在所(ざいしょ)超えて。向こうに見えるは親のうち」
巨人が剣を宙に放った。剣は再び棒状の光と化して、西へ向かって飛び去った。
巨人の体もまばゆい光の塊になり、中で二つに分かれた。一つは将門の首塚の場所へ飛び去った。
もう一つの光は、ミナセの手元に飛んで来て、彼女の手の中で元の埴輪に戻った。
紗理奈がミナセにおそるおそる尋ねる。
「終わったの? もう全部終わったの?」
ミナセは埴輪を胸に抱きしめるように抱えて、微笑んでうなずいた。そして手の中の埴輪に向かって優しい口調で言った。
「お役目ご苦労さまでございました、宿儺様。ゆっくり、おやすみ下さい」