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ベルニージュの隣で大男が船縁の手すりに乗り出して、恥も外聞もなく大泣きしている。どれほど無惨な戦場でもこれほど悲痛な鳴き声を聞くことはないだろう。粗野な髭に隆々とした筋肉、その戯画化したかの如き雄々しさがかたなしだ。ベルニージュの記憶にはない大男。しかしその男こそがベルニージュの最も嫌いな生き物なのだ、とレモニカに宿る呪いが告げている。
大男は「ユカリさま。ユカリさま」と海面を見つめて繰り返すばかりだった。
ベルニージュは上質な仕立てを身に着けるレモニカの硬く張り詰めた背中をなでる。あまりにも奇妙な気分だった。
「ユカリが死ぬとは思えない」とベルニージュは呟く。「それに、ラミスカと言えないなら大声は出さないで。偽名の方を隠さなきゃいけないってのもおかしな話だけど」
ユカリが生きていると信じているならばこそ、今後の活動に支障を来すような振る舞いは避けるべきだとベルニージュは考える。もちろん生きている根拠は何もない。しかし、この世で最も強大な魔法を携えている者がそう易々と命を奪われる運命を想像するのも難しい。
「ですが……」と呟いただけで、レモニカは再び嗚咽し、真下の海面を見つめる。
嵐は過ぎ去った、らしい。しかしある意味ではそれ以上に厄介な状況に陥っている。
どこから現れたのか、『北の歌』号の他にも十数隻の船が寄り集まって犇めいている。時折船同士がぶつかって大きく揺れるが、今のところ転覆は免れていた。
この船の集まりの最も外側から伝わった噂によると、どうやら、一つの都市国家が収まるほどに巨大で、そして何故か汁物をかき混ぜる時の鍋のように緩やかな大渦が発生していて、なおかつそこから抜け出せるくらいの風が吹かず、これらの船全てが海の真ん中に閉じ込められているらしい。
本当にこのような現象が偶然起きているだけかもしれない。しかし何者かによる悪意ある魔法だと考えることにしよう、とベルニージュは決める。それはこの事態を引き起こしている何者かに対する宣戦布告にのようなものだ。
この場に、この海にいる誰もが情報を欲している。ベルニージュもレモニカも『北の歌』号の乗組員も、同じく海に囚われた船乗りたちも。そのため、大渦の虜囚となった船と船が接舷し、あり合わせの物で係留していくことになった。無関係な船の集まりは、この困難を乗り越えるための船団となる。海賊船がなかったのは幸いだが、どのような国のどのような組織に所属している船なのか、はっきりさせていくことが先決だった。
フォーリオンの海だけではなく、東はバイナから西はノルビウスの大洋まで、様々な海の船長たちが三々五々に集まって合議が行われ、仮初の法が施行されると人々が行き交い始める。様々な情報が交換され、少しずつ協力関係が構築されていく。
結局のところ、たまたまそばに――海におけるそばは陸のそれとは違うが――居合わせた船が全て巻き込まれたらしい。共通点らしいものは見つからなかった。
大まかな状況が分かって来ると今度は、魔法使いたちの交流が主に移る。この大渦の検証が行われる。当然みんながみんな、これを何者かによる魔法と考えていた。だったら面白いな、と考えている魔法使いもいる。
ベルニージュもまた間に合わせの呪文をいくつか試してみるが、大渦に変化はない、はずだ。そもそも、あまりにも大規模で緩やかなためか渦に呑まれているという実感さえない。
ある魔法使いの女は船を巡って、ほぼ中心に位置する『北の歌』号まで迷い込んできて、大渦についての噂を教えてくれた。ここでもいくつかの魔術を試し、ベルニージュの呪文を眺め、手ごたえのない状況にため息をつく。
「中心に来ても駄目ね。それにしても大きな魔法だよ、見たこともない規模だね。この船が中心に位置しているのは何か意味があると思ったんだけど」話しかけられているのか、ベルニージュには判然としない口調でその魔法使いは言った。「魔導書か。あるいは、もしかして例の人造魔導書だったりするのかな。しないのかな」
夜に野良猫と目を合わせた時のように不吉ながらも心惹かれる言葉を聞いて、ベルニージュは相変わらず、しくしくと忍び泣いているレモニカの背中をさする手を止め、その女をしげしげと見つめる。
垂れる眦はどこか悲し気ながら、その上で吊り上がる眉は感情よりも意志を優先しているように見える。細身の体に纏う深い夜のような長衣には魔法の気配を幽かに漂わせるいくつかの宝飾品が無造作に据え付けられている。春の陽気がそうさせるのか、単に無頓着なだけなのか、胸元は少しはだけ、まくった裾と袖から手足が露わになっている。鳶色の髪は捻じれて、長らく放っておかれた裏庭のように伸び放題だ。
少しユカリに似ているな、とベルニージュは思った。
ぼろぼろの肩紐の先には若葉色の木綿の鞄。金糸の刺繍で、ベルニージュに分かる限りで十七、実際には二十三の守りの呪文が織り込まれている。そして肩紐に結びつけられた海に似た群青色の石飾りが船に合わせて揺れていた。
初めて外に出た幼子の如き好奇心を抑えきれず、ベルニージュはその魔法使いに尋ねる。
「すみません。人造魔導書というのは何でしょうか? いえ、言葉から大体の意味は分かりますし、試み自体は昔からあるのでしょうけど。そんなものが存在するのですか?」
本当に実現したなら噂ではとどまらないはずだ。
噂を携えてきた魔法使いの女は過ちを黙認した時のような寂しげな微笑みを浮かべて言う。
「若い魔法使いさんに知識を授けるのも先輩の勤めかな。なんてね。単なる噂だよ、あくまでね。何か根拠があるわけじゃない。それでも良いなら教えてあげる。怒んないでね? たとえ流言だったとしても」
ベルニージュが静かに頷くと女はもったいぶって咳を一つ。手すりに体重をあずけて隣で揺れる船の方を見る。
「まずは前々からの噂。シグニカ統一国が、つまり救済機構がという意味なんだけど、人造の魔導書を研究しているらしいってね。とはいえ、そんな研究自体は珍しくもなんともない、魔法使いの間ではね。一つの目標であり、偉大な到達点だと誰もが考えているはず。それに魔法使いなら大抵のものに対して、人造できないだろうかって考えるしね。考えるよね? 救済機構だけがそういう噂を、嘲りを持って語られるのは、要するに彼らは魔導書撲滅を大義に掲げているくせに、っていう偽善っぷりに対する皮肉、嫌味でもあるわけだね。ところでトンド崩壊の噂については?」
「噂だけは。ワタシたち、サンヴィアから来たので」とベルニージュは半分正直に答える。
「それは運が良かったね。無事でよかった。どうやら噂によると、トンド王国を崩壊させたってのは一人の強大な魔法使いらしいんだ。ところでところで魔法少女ユカリについては?」
「知ってます。もはやこの大陸で最も有名な魔法使いかもしれません」とベルニージュは澱みなく答えつつ、「まさか魔法少女がトンド王国を崩壊させたってことですか?」と、こちらの会話に反応しそうになったレモニカをさりげなく背中で隠しつつ尋ねた。
「ううん。そんな噂はない」ベルニージュと女の目が合う。「ただ私が知っている中で、国を崩壊させかねない強力な魔法を持っている魔法使いといえばユカリだけってこと。ユカリがやったのでなくとも何か関係していそうだなって」
鴎の鳴き声を聞いて、ベルニージュは空を見上げる。彼らには大渦を起こしている魔法の影響はあるのだろうか、と考える。
ベルニージュは話を戻す。「それで人造魔導書とはどう繋がるんですか?」
「そのトンド王国を滅ぼした強大な魔法使いが人造魔導書を産みだした、という噂もある」
つまりクオルの研究が救済機構に流れた、という噂だ。当然そうなるだろう、とベルニージュは思っていたが、人造魔導書というのは考えていなかった。しかし心当たりはある。クオルの武器であり、防具であり、また触媒でもあった大量の空飛ぶ粘土板。噂が本当なら人造魔導書とはあれのことではないだろうか。
魔法使いの女は付け加える。「それに、滅ぶ前後のトンド王国の領域に救済機構の影が見え隠れしていたって、これも噂」
「連中はどこにでもいますよ」とベルニージュは言って、周囲を見回す。
もしかしたらこの船団にも乗り合わせているかもしれない。
「それはそうだね」と魔法使いの女は食事の準備をするユカリみたいに楽しそうに言う。
その時、船の反対側、左舷に別の船が勢いよくぶつかり、『北の歌』号は衝撃と共に大きく傾いた。ベルニージュも女も手すりをつかんで堪えたが、大男は勢い余って手すりを乗り越えて、野太い叫び声をあげながら海へと放り出された。しかし海に叩きつけられる音は聞こえず、ベルニージュが手すりを乗り出して見下ろすと、船縁から生えた樫の木がレモニカを受け止めていた。
ベルニージュは隣の女を見上げて言う。「ありがとうございます」
「うん? どうして私だと思うの?」
「どうしても何も樫を生やす魔術の呪文を唱えてくださったので」
「へえ」と女は感心して、魅力的な宝物を見つけたような眼差しをベルニージュに向ける。「今のが聞きとれたの? 私の出会った魔法使いの中で最も優秀だね、君は」
「どうも、ありがとうございます」ベルニージュは照れも恥じらいもせず、その誉れを自分に相応しいものとして素直に受け取る。「でもあの簡単な呪文であれだけ大きな樫の機を船縁から横向きに生やせるのは、正直解せません」
女は得意そうに言う。「それに関しては秘密。簡単には教えられないね」
「それは、仕方ありませんね。魔法使いですし」
樫の木が奇妙にねじくれて伸びながら、甲板まで上がって来て、そして大男は別の大男に姿を変えてしまった。レモニカはベルニージュの知らない大男からベルニージュの知らない大男に姿を変えたのだ。
新たな大男は前の男に比べると生真面目そうで、しかし負けず劣らず戦士に相応しい肉体を誇示している。しかし身につけているのは魔法を仕込むのにうってつけの緩やかな長衣だ。
この大男を、ベルニージュの隣に立っている魔法使いの女はしっかりと睨みつけている。そして憎しみの内に憐れみがあることをベルニージュは読み取れた。
「良ければ説明してくれる?」魔法使いの女はレモニカを甲板の上に解放して言う。「まだ知り合ってもいない君がなぜその男に変身できるのか」
ベルニージュとレモニカは目線を交わす。話を合わせよう、という合図だ。
「要するに、これがワタシたちの旅の目的です」とベルニージュは半分嘘をつく。「レモニカにかけられた呪いを解くための旅をしています。この船旅の目的地はシグニカですが、ワタシたちの旅の終着点は解呪です」
「呪い、か。これまた見たことのない呪いだよ。ごめんね、レモニカ。教えたくなかったのなら……」
レモニカは曖昧な笑みを浮かべる。「お気になさらないで。より多くの方の知恵をお借りしたいと思っていますの。呪いについてはむしろわたくし自ら皆さんにお聞かせしたいくらいですわ」
女はくすぐったそうに笑う。「その男が、その口調……」
ベルニージュもレモニカもさすがに呆れた目線を女に向けてしまう。
「ああ、ごめん。ごめんね。そう。ありがとう。それなら良いんだけどさ。二、三、試してもいい? 危険のない魔術」と女は言う。
レモニカは友好を示すように出来るだけ愛嬌のある笑みを浮かべる。大男がやっているのでなければとても愛らしかったことだろう。女はまたも笑いを、しかし堪えている。
その魔法使いが提案した解呪の魔法は、ほとんどがベルニージュも知っている既に試した魔法だった。
「ごめんね。力になれなくて」と目に見えて落ち込んだ様子で女は言う。
「お気になさらないでくださいませ。慣れたものですわ。お心遣いありがとうございます。えっと……」
レモニカの言い淀む言葉を少し待って、ようやく女は気づく。
「ああ、ごめん。名乗ってなかったね、まだ。名前は大事。私、ネドマリアね。はい、よろしく。はい、握手。君たちと同じくシグニカに向かってるよ」