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階段の踊り場に、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
遥はそこに立ち尽くしていた。
理由なんてなかった。ただ──行き場がなかった。
教室にはいたくなかった。
帰りたくなんて、もっとなかった。
誰にも会いたくなかった。
でも。
「……ここにいると思った」
階段の上から、日下部の声。
聞いた瞬間、心臓がひとつ跳ねた。
(……やめろよ)
来んなよ、とも思った。
でも、来てほしかった。
「昼、……ごめん。なんか、気に障るようなこと言ったなら」
日下部の声は、不器用なままだった。
優しさをまっすぐ出せないことを、本人もどこかでわかっている。
「……何も言ってねぇじゃん」
遥は吐き捨てるように言った。
攻撃じゃない。
ただ、触れられたくなかった。自分のぐちゃぐちゃを。
「じゃあ、なんでそんな顔してんだよ」
静かな問いかけだった。
でもそれが一番、刺さった。
(なんで……わかんだよ、そんなこと)
遥は、笑った。
それは嗤いだった。自分に向けた。
「なぁ、……おまえって、さ」
壁に背を預けて、遥は顔を上げた。
目元は赤く、でも涙はもう枯れていた。
「ほんと、バカだよな。……なんで俺なんかに関わるんだよ。どうかしてるだろ」
日下部は少しだけ目を伏せた。
けれどすぐに、前を見たまま言った。
「おまえのこと、知ってるから」
「知ってる、ねぇ」
遥は鼻で笑った。
「どこまで知ってんの。……どれくらい汚れてるか? どれくらい、壊れてるか?
──どれだけ、抱かれたいって思ってるか。抱かれて、全部壊したいって、思ってるか」
日下部の目が、わずかに揺れた。
遥はその反応に、さらに追い打ちをかけるように言葉を重ねた。
「そういう目、してんだよ、おまえは。俺を“守ろう”とか、“救おう”とか、勝手に思って、さ。……気持ち悪いんだよ」
喉が震えた。
自分の声が、自分の心を裂いていくのがわかる。
「……俺さ、わかってんだよ。
おまえが優しくするの、罪悪感のせいだろ。昔のこと、引きずって。
──贖罪ってやつ?」
沈黙。
日下部は、一歩、遥に近づいた。
触れる寸前で、手を止める。
「そうかもしれない」
遥の肩が、びくりと動いた。
「でも……それだけじゃない」
その声は、静かだった。
まるで、遥がどれだけ叫んでも壊れないようにと選ばれた音量で。
「おまえが壊れたいなら、俺は……止める。
でも、壊してほしいって、願うときは──俺じゃ、叶えてやれない」
「……なんで」
遥の声はかすれていた。
喉の奥から無理やり引きずり出した問い。
「俺の全部、壊してくれよ。どうせ、もうぐちゃぐちゃなんだから。
──おまえの手で壊されたら、たぶん、俺……それで、いいのに」
「それでも、できない」
日下部の言葉は揺るがなかった。
「おまえを、そういうふうに触るのは……俺が、おまえを“おまえ”として見なくなることだと思う。
──それだけは、絶対したくない」
遥は黙った。
わかってる。
だからこそ、苦しい。
欲しい。
けれど、手に入った瞬間に壊れるって、知ってる。
日下部が綺麗なままでいる限り、
──自分は、救われない。
でも、
日下部まで汚したら、
──ほんとに、終わる。
遥は、ゆっくりと視線を落とした。
夕陽が階段に落とす影が、どこまでも長く伸びていた。
その先に、誰もいないことを知りながら、
遥は一歩だけ、日下部から距離を取った。
「……近づくなよ。じゃないと……また、泣きたくなる」
それだけ言って、階段を駆け下りた。
日下部は、追いかけなかった。
ただ、そこに、佇んでいた。
遥の影が消えた階段の先を、
いつまでも見つめながら。