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ドクン。
ドクン……ドクン……ドクン。
自分の心臓の音が耳から聞こえるなんて、未だかつてあっただろうか。
悠仁との初めての夜。
ワイン風呂に浸かった時だって、こんなに高揚しなかった気がする。
「ふう………」
湯船に浸かった輝馬が低い息を吐き、両手で掬った湯で顔を擦っている。
骨ばった関節。
濡れたもみあげ。
すでに少年期、青年期を通り過ぎ、大人の男になった輝馬が今、数十センチ先に一糸まとわぬ姿でいる。
「……久しぶりね。一緒に入るのなんていつ以来?」
何でもないふりをして、わざと華やいだ声を出す。
「小学生とか、そんなんじゃない?よく覚えてないな」
輝馬はもう一度湯を掬い顔を擦りながら言った。
覚えていない。
本当にそうだろうか。
晴子は髪の毛に椿オイルの入ったノンシリコンシャンプーを揉みこみながら横目で見つめた。
あの日を、
小学生の時のあの日を、
輝馬は覚えていないのだろうか。
自分の幼い頃を思い出す。
9歳。小学3年生。
確かに記憶などおぼろげかもしれない。
しかし―――。
「―――ずっと嫌がられているのかと思ったの」
探りを入れてみる。
「私があの日、あんなことをしたから」
「――――?」
しかし輝馬はその言葉に反応して、晴子を見つめ返してきた。
どうやら本当に覚えていないらしい。
たった一度。
たった一度だけ晴子がその誘惑に負け、我欲を通し、小さく細い輝馬の身体を、弄んでしまったことを。
せっかく忘れているのならわざわざ記憶を引きずり出す必要はない。
晴子は流し終えた身体から、薄く湯気を発しながら、浴槽の脇に立った。
「お待たせ」
そう言うと、輝馬はふうっと大きく息を吐いて立ち上がった。
「…………」
城咲よりも薄い胸板。
城咲よりも濃い色をした肌。
城咲よりも薄い毛。
城咲よりも突き出た腸骨。
城咲よりも―――。
城咲よりも―――。
「!?」
輝馬はひどく驚いた顔をして振り返った。
気づくとその手首をつかんでいた。
「背中、流してあげるわ」
晴子はそう続けた。
「相談したいことがあるんでしょ」
せり上がってくる欲望で、
喉の奥がヒリヒリと焼けるように熱かった。
◇◇◇◇
「それって100%、会社が悪いじゃない」
輝馬の背中にスポンジを当てながら、晴子はため息をついた。
「雇用形態を会社の都合で変えるには、ちゃんと従業員の合意が必要なのよ。たとえ雇用主であれ一方的に替えちゃいけないの」
昔、弁護士事務所で得た知識を必死で思い出す。
「ちゃんと弁護士の先生に相談すれば、その変更は無効になるはずよ」
「………そうなんだ?」
鏡越しに見える輝馬の顔に、たちまち生気が戻る。
「そのオンラインカジノについてだって、契約後14日間であればクーリングオフ制度が適用されるはず」
輝馬は会社の不当異動、さらには友人に勧められたとかで、度重なるその契約金にも悩んでいた。
おまけに、
「最後に、その首藤さんの件だけど、私の方からアポイントをとって、話をつけてくるわ」
晴子は苦虫を嚙み潰すような顔で言った。
またその名前を聞くことになるなんて思わなかった。
悠仁と二人で訪ねたときの、青ざめた顔をした首藤を思い出す。
『私、市川君が好きなだけなんです……!今回だけは、許してください。もう関わりませんから……!』
そんなふうに言いながら、不細工な顔を歪めて泣いていた女を。
「危険だよ、あいつ。根っからの異常者だから」
輝馬が晴子を振り返った。
「大丈夫よ。彼女に会うのは初めてじゃないもの」
晴子はその不安そうな顔に頷いて見せた。
「――結局俺は」
輝馬はため息をつきながら体勢を戻すと、正面の曇った鏡越しに晴子を見つめた。
「母さんに守られているんだな。今も、昔も」
「―――――」
晴子はその柔和な笑顔を見つめた。
思えば輝馬が自分にこんな笑顔を向けてくれたのはえらく久しぶりな気がする。
そうだ。あの日以来だ。
この風呂で、
この洗い場で、
この椅子で、
幼き輝馬が、
晴子の手で射精した、
あの夜から。
「そうよ。あなたはいつまでたっても、私の大事な息子だもの」
晴子はその随分とたくましくなった肩に手を置いた。
二の腕の形と硬さを確かめるように滑り落ちていく。
そこから膝に移り、体毛をなぞるように太ももを上がっていく。
「まだ、こっちは洗っていなかったわね」
「………!!」
そのとき、撫でていた滑らかな太ももに、一瞬のうちにゾワッと鳥肌が浮き上がった。
「!」
その反応に晴子が驚き手を止めたところで、
「前は……!!」
輝馬がこちらを振り返った。
「自分で洗えるから……!」
戸惑いながらも険しいその顔が、
『子供……?馬鹿言うなよ。あり得ないだろ!』
若かりし悠仁と被って見えた。