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風呂から上がり、髪の毛を乾かし、布団に入っても晴子はなかなか眠れなかった。
そのうちに健彦が帰ってきて風呂に入り、隣のベッドのもぐりこむのを、晴子はすべて寝たふりを続け、聞いていた。
「ーーーー」
健彦の寝息を聞きながら、晴子は仰向けになり自分の下腹部を撫でた。
************
秘密の関係が半年ほど続いた時だった。
悠仁と香代子が入籍することになった。
晴子は奥歯を噛みしめながら、2人の入籍予定日が書かれた卓上カレンダーを睨んだ。
晴子の目から見て、香代子が魅力的ではなかったといえば嘘になる。
しかしそれは例えば野に咲くシロツメクサのような純朴で、華やかさはなくとも可憐でまっすぐで、誰にも迷惑をかけない種類の美しさであった。
病気にならないように予防薬を散布し、葉や新芽を食べる害虫が発生したら、1匹1匹丁寧に捕殺し、根腐れしないように雨が続くときには傘を差し、絡まないようにつるを誘引する。
そんな努力と手間の末にやっと咲く薔薇のような雄大な美しさは、むしろ晴子の方があると思っていた。
出会うのがほんのちょっぴり早かっただけで、彼女という位置に滑り込んだ香代子が憎かった。
そのポジションに香代子を収めたまま、自分を好き勝手に抱く悠仁が疎ましかった。
晴子が身ごもりさえすれば、
自分の子供ができたとわかれば、
そんな小さなきっかけで、悠仁はシロツメクサを手放し、自分という薔薇に振り向いてくれると思って疑わなかった。
だから、
彼が愛用していたコンドームに、ソーイングセットから取り出した針を突き刺した。
しかし実際の悠仁の反応は、晴子が予想だにしないものだった。
『子供……?馬鹿言うなよ。あり得ないだろ!だって俺たちはちゃんと避妊してたじゃないか……!』
悠仁は顔を真っ青にしながら、怯えたような表情で言った。
『それって、本当に俺の子か?いつ?いつできた子だよ?言ってみろ!』
彼は取り乱しながら、卓上カレンダーを掴み上げた。
「…………」
晴子はその長い指を見ながら言った。
「ーーいやね。冗談よ。彼氏との間にできた子よ」
「……は?」
悠仁は肩眉を下げながら言った。
「驚かせるなよ、もう……!てかお前、彼氏いるのに悪い女だなぁ!」
その左手の薬指には、香代子と一足先に買ったのであろう、エンゲージリングが光っていた。
刻一刻と香代子と悠仁の入籍の日が近づいていた。
学生だった晴子は堕胎手術費も捻出できず、厳格な父からは、
「誰かも言えない相手との間で妊娠したなんて、この恥知らずめ!」
いとも簡単に勘当されてしまった。
市川健彦と出会ったのは、そんな時だった。
当時、悠仁の弁護士事務所に出入りしていた金融業者の営業が、彼だった。
30歳。振り返るほどかっこよくもないが、後ろ指を指されるほど不細工でもなかった。
そしてその左手の薬指に、指輪はなかった。
晴子が見つめると、たちまち頬を染めて目を反らすわかりやすい健彦を、誘惑するのは簡単だった。
一夜の関係を結んだあと、それにより妊娠したと嘘をついた。
健彦が結婚していたのを知ったのはその時だった。
妻どころか、娘までいるらしいと聞いて、内心舌を巻いた。
「ひどい……!私のこと、騙したのね?」
そんな安いメロドラマの悲劇のヒロインのようなセリフを吐きながら、かえって面倒なことにならずに金だけ貰えて都合がいいとほくそ笑んだ。
しかし、事態は思わぬ方向に運んだ。
堕胎手術費さえもらえればよかったのに、初心な健彦は責任はとるだの、認知して援助するだの騒ぎ始めたのだ。
その言葉が悠仁の事務所や果てには健彦の妻にも知れ渡り、香代子よろしく純朴な妻はそれで精神を病んでしまった。
同じ年の冬だった。
悠仁と香代子が籍を入れ、披露宴を挙げた季節に、市川健彦の妻、市川|祥子は、クローゼット内で遺体で見つかった。
『……ママ……?』
首を吊った彼女を見つけたのは、
通園バスの運転手と、
健彦と祥子の一人娘、5歳の亜希子(あきこ)だった。
************
晴子はベッドから起き上がった。
掛け布団を剥いでゆっくり立ち上がると、裸足をフローリングに着いた。
床がきしまないようにゆっくりと歩き出す。
ドアをあけてリビングに出た。
サイドボードの上。
黒薔薇の上の掛け時計の秒針が、小さく音を立てている。
その秒針に合わせ、前進する。
目指すは、真ん中の扉。
元々は倉庫に使っていた、窓のない部屋。
今はダイヤル式の南京錠がかけられ、めったに開けられることはない。
ここが開くのは、健彦が月に一度、飲食物を届けるとき。
そして、
風呂に入れるという名目で、輝馬があの女を抱くときだけだった。
2人の行為に気づいたのは、比較的早かったと思う。
性に興味の湧く年齢の輝馬に、あの女の風呂を任せてしまった自分たちにも責任はある。
しかし嫌なら嫌と拒否すればいいものを、あの女は誰にも言わなかった。
つまりはあの女だって、容姿端麗な輝馬に惚れていたに違いない。
その行為を喜んで受け入れていたのに違いないのだ。
ーー本当に汚らわしい。
この家の中で唯一、晴子にとって本当の他人。
愛情なんて湧くはずもなかった。
実の娘である紫音や凌空でさえ、愛してはいないのに。
あの女さえいなければ。
あの女さえいなければ、この家に火をつけるのに。
自分だけ命からがら逃げのびたのだと、家族を失った哀れな母親の泣き顔を、アカデミー主演女優並みの演技で演じて見せるのに。
少し前までは、時たままるで遠吠えのような高い声を出すこともあった。
壁やフローリングを叩く音や、低い鳴き声が聞こえてくることもあった。
しかし最近はやけに静かだ。不気味なほどに。
人が死んだ腐敗臭は強烈で、それは近隣住民の精神まで蝕むほどだという。
そんな匂いはまだしない。
しないが―――。
南京錠に手を伸ばす。
そのとき、
ガチャッ。
玄関のドアが開いた。
晴子は慌てて足音を立てないようにリビングを駆け抜け、寝室に入った。
「――――」
ため息が聞こえてくる
ジャンバーのファスナーを外す音。
凌空だ。
こんな時間まで何をしていたのだろう。
なぜこんな時間に帰ってきたのだろう。
晴子は耳を澄ませた。
彼は頭をぼりぼりと掻きむしりながら移動し、洗濯機に衣服を投げ入れると、そのまま輝馬がいるの子供部屋に入っていった。
「―――――」
輝馬は眠っていたのだろう。話し声はしない。
晴子は小さく息を吐くと、自分もベッドの中に入った。
天井を睨む。
箪笥を開ける音。
箪笥を閉める音。
掛け布団を剥ぐ音。
ベッドに上る音。
マットレスに寝転がる音。
その後は、何の音も聞こえなかった。
市川家から音が消えた。
晴子は暗闇と静粛の中、ゆっくりと目を閉じた。
************
出産を翌月に控えた晴子は、大きな腹を抱えベンチに座りながら、越してきたばかりのマンションの前にある公園で、何が楽しいのか永遠とシーソーをこぎ続ける亜希子を見ていた。
「ーー市川さん!」
名前は忘れた。
しかしマンションに住む男だというのはすぐにわかった。
彼はまだ健彦と変わらないくらいの年齢に見えるのに、妙に顔色が悪くて、近所のおばさんたちはやれ腎臓が悪いだ肝臓が悪いだのと噂をしていた。
「いつもうちの息子が遊んでいただいて、ありがとうございます」
彼の後ろには亜希子より少し幼い男の子が、こちらを見上げていた。
そんなことは知らなかった。
勝手に遊びに行ってもいいけど、マンションの公園から出てはだめだと、ただ強く言い聞かせていただけだ。
こんな小さな子を一人で遊ばせるわけはない。
もしかしたらこの男は、礼を言う体で、いつも一人で亜希子を遊ばせている晴子を非難しているのかもしれない。
「いえいえ、こちらが遊んでもらってるんですよ」
晴子はにこやかに答えた。
引っ越してそうそうマンション内で変な噂がたっても困る。
「いつも亜希子と遊んでくれて、ありがとうね」
男の子をのぞき込むと、やけに警戒心の高い頭のよさそうな男の子は、線の細い父親の後ろに隠れてしまった。
「いやあ、ダメですね。一人っ子だから甘えん坊で」
父親は困ったように頭を掻いた。
「早くに母親を亡くしたのもあるかもしれないけど」
その腕にいくつもの注射の痕が見える。やはりどこか悪いというのは本当らしい。
早くに母親を―――。
晴子はもう一度男の子を見下ろした。
マンションのおばさんたちの言うことが本当であれば、この子はこんな幼いのに両親を失うことになるのか。
「本当に、市川さんのところの亜希子ちゃんにお世話になりっぱなしで」
父親はヘコヘコと他意のなさそうな気さくな笑顔で微笑んだあと、息子を振り返った。
「亜希子ちゃんのお母さんだぞ。ちゃんと挨拶しなさい」
――亜希子ちゃんのお母さん?
ソレなら勝手にクローゼットで首吊ったけど?
晴子は鼻で笑いそうになるのをこらえながら、男の子の前にかがんだ。
「これからも、亜希子と仲良くしてね」
「ほら、律樹!!」
答えない息子に、父親が言う。
「…………」
男の子は、こちらを睨むように、ただ見上げていた。
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