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いきなり強い力が僕を掴もうとした。反射的に身をよじり、かろうじてすり抜けた。 その瞬間、目の端に僕を捕まえよう
とする大きな二つの手が映った。
―人間だ!
僕の体が反射的に起き上がった。
さっきの燃えるような痛みはもう感じない。
―逃げなくっちゃ! 人間に捕まったら、
「人間に捕まったら、食べられてしまうぞ」ノラ猫集会で何度も聞いたのボスの言葉が頭の中にこだまする。
思うように動かない後ろ足を引きずり、前足でひたすらアスファルトをひっかくようにして、僕は自分の体を前に押し出し
続けた。 前へ、前へ・・・
それでも人間はしつこく追って来る。何度も何度もその大きな手で、僕の体を掴もうとしながら。
―そうだ。あの溝の端にある出っ張りに逃げ込もう。あそこなら安全だ。でかい人間は来られないはずだ。
最後の力を振り絞って、幅の狭いその出っ張り部分に体を放り込んだ。それから精一杯の敵意をもって後ろを振り返った。
こんな所までは来られないだろう。
ー人間。
僕はこれまで、こんなにまじまじと人間を見た事が無い。人間が近づいて来る気配を感じるやいなや
一目散にできるだけ遠くに逃げること。
これがノラ猫界の常識だった。時にじっと人間を睨んだり、威嚇しようとする無鉄砲な命知らずもいたが、そんなこと、僕
には意味の無い常識はずれの行動にしか思えなかった。
今、僕は溝の向こう側に突っ立ち、じっとこちらを見ている人間を、真っ直ぐに見返している。いや、睨みつけている。
「怖くないぞ。負けるもんか。捕まってたまるもんか」体中に力を込めてそう呟いた。
人間はしばらくじっとこちらを見ていたが、やがて諦めて帰って行った。
―ああ、良かった。人間になんか、絶対に捕まらないぞ。
ほっとした途端、強烈な痛みがぶり返してきた。
ー痛い。余りの痛さに、後ろ足を舐めることもできない。しばらくはこの二本の後ろ足、役に立たないだろう。
だけど車に轢かれ、アスファルトに横たわっていたときに比べて、随分気持ちは楽になっていた。
―なんとかなる。
僕は追いかけて来る人間を振り切って、ここまで逃げおおせた自分に、大きな勇気をもらっていた。
気が付けば、僕の体は泥だらけだ。アスファルトの上を這いまわって逃げてきたせいで、お腹の白い毛はまるで煮しめた雑巾
状態になっている.
ー落ち着け。落ち着け。
後ろ足をかばいながら体を丸め、泥まみれのお腹を舐めながら、僕は何度も 自分に言い聞かせた。
―とにかく僕の住み家に帰ろう。何としても、あそこに戻るんだ。
崩れかかった倉庫の前に、山と積まれた錆びだらけの鉄板。その間にある隙間が、僕の大切な住み家だった。といってもそ
こはいつも薄暗くて、ジメジメしていて、おまけにしつこい蚊やノミたちまでが住みついている。お世辞にも 快適とはいえな
い所だけど、それでもこの僕にとっては大切なお城なんだ。なんせそこには、めったなことで人間がやって来ない。雨露凌げ
るだけでなく、凶暴な人間たちからも守られているんだ。
―帰るといっても、昼間のうちは危険だ。なんせ後ろ足、こんな状態だから、前足だけで這っていかなくっちゃならない。仕
方がない、陽が落ちるまでここにいよう。
僕は目立たないように、出来るだけ体を丸めてその場にうずくまった。
初夏の日差しが、容赦なく僕の体に照り付ける。薄汚れた白い毛も、背中の黒い模様も、短い尻尾も、このままでは干上が
ってしまいそうだ。少し顔を上げて、陽の当たらない所を探してみたが……無理だ。
こんな溝のでっぱり部分に、日陰なんかあるわけがない。
ーああ、水が欲しい。
ほんのひと舐めでいいから、このカラカラに乾いた喉を潤したい。溝の底を覗き込めば、底の方に苔とゴミを含んだ泥水
が、少しばかり溜まっている。ここからぴょんと降りて、その茶色に濁った水を舌ですくえたらたら、どんなにいいだろう。
だけど、その後は、もう二度とここに上がって来られない。
雨上がりの蒸された空気が、僕の体にまとわりついている。
少し体を移動させようとした。が、その瞬間、後ろ足の痛みが脳天を突き刺した。僕は、どくどくと痛む後ろ足を、いたわ
るように丁寧に舐めていった。
とにかく、夜になるまで待とう。闇に隠れてだったら、歯を食いしばってでも前足だけで移動できる。それまでの辛抱だ。
遠くに人間たちの声が聞こえる。子供の笑い声も重なっている。車が走る音、自転車が止まる音、すべてが生き生きと動い
ている。
僕はジリジリと焼かれる背中を折り曲げて小石のように小さくなっていた。
涙が一筋、静かに足元を濡らした。
ふと、何やら嫌な空気を察知して、僕のヒゲがピクッと動いた。急いで顔を上げてみると、なんとさっきの人間が溝の向こ
うに立って、じっとこちらを睨んでいる。体中の細胞に緊張が走った。
―またあいつが戻って来た。何をしようとしているんだ。
溝の中に入った。まずい。こっちに近づいてくる。油断していた僕は、態勢を整える間もない。
慌てふためく僕を誘惑するかのように、突然、何やら濃厚な香りが僕の臭覚を直撃した。僕の体がピタっと止まった。
完全に、この香りに捕らえられている。鼻の穴をいっぱいに開いた僕は、四方八方の空気を臭覚に当てながら、無我夢中でそ
の香りの元を探った。
―人間の手の中だ。
人間が、食べ物を持って近づいてきている。
ーだめだ。逃げなくては。
なんとかその香りの誘惑を振り払おうとしてみたが、あれ? ゆっくりと近づいてくる人間から、とても温かい友達オーラを
感じた。
―まさか、これがその……。
目を凝らしてその人間を見た。
実はここだけの話なんだけど、僕たち猫はみな生き物のオーラが見えるんだ。見えるっていうよりも、感じられるっていう
ほうが近いかな。
どんな生き物も、それぞれ違ったオーラを持っているんだけど、人間の場合は結構複雑で、大きく三つに分けられる。
ネーミングがそのものって感じで、分かり易いだろ。
そして、もっと高度なテクニックでもってオーラが見えるようになると、(友達オーラ)まで見えるようになるんだ。
この(友達オーラ)は(猫好きオーラ)の一種だけど、微妙にドットが細かい。これについては、ノラ猫集会の夏季特別講座
で習ったんだけど、難しくてちょっと僕自信がないんだ。それでもとにかく、今この人間からは、その時習った(友達オー
ラ)が見えるような気がする。
ーええと、どうだったかなぁ? あの時もう少し本気で授業をきいておくべきだった。なんせ前の席にいるお嬢さんが気になっ
て、授業に集中してなかったもんなぁ……
なんて後悔している間にも、人間はどんどん僕に近づいて来る。魅力的な香りを持って。
あれこれ考えている僕の前に、その香りの元がそっと置かれた。
―わぁ、てんこ盛りの鯛のお刺身じゃないか! もうオーラのことなんかどう でもいい!
いきおいよく口を開けた瞬間、頭からバサッと大きな布に包まれた。
―しまった! 人間に捕まってしまった!
全身布に包まれた僕は、身動きが取れないくらい強い力で人間に抱きかかえられたまま、どこかに運ばれていく。
―逃げなくては! だけど体が動かない。
どこに連れていかれるんだろう。僕、人間に食べられてしまうんだろうか ……。
恐怖に押しつぶされそうになりながら、僕は次から次へと湧いてくる恐ろしい想像と戦っていた。