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待合室の奥、黄色のタグの患者を集めて床に寝かせてあるエリアで、若い女性看護師が大声で医師を呼んでいた。亮介が駆け寄ると彼女は、数字がずらりと並んだ記録シートを指差しながら怯えたような声で言った。
普段は冷静沈着な彼女の様子に驚いた亮介が記録シートを手に取ると、三十を少し超えた数字が二列に並んでいた。内科医の山倉もやって来て横からシートをのぞき込む。山倉は反射的に亮介の手からシートをひったくった。
「君、測り間違いじゃないのか?」
詰め寄る様に訊く山倉に看護師も信じられないといった表情で答える。
「私もそう思って、二度測りました。間違いありません」
山倉はシートの上の数字を指でたどりながら、一、二、三と声に出して数えた。
「四人が、三十度を切っているだと!」
「どういう事ですか?」
たまりかねて訊いた亮介に山倉は震える声で言った。
「直腸体温、要するに尻の穴に直接体温計を突っ込んで測った深部体温だよ。三十五度を下回ると危険だと言われている。それが三十度を切っている。こりゃ低体温症なんて生易しいものじゃない。凍死寸前だ!」
山倉は亮介とその看護師を連れて、その四人の患者を回り、手首のトリアージタグを黄色から赤に付け替えた。
午後三時過ぎ、ようやく殺到する患者の列が途切れた頃、救急車が運び込んできた若い女性の顔を見た亮介は、全身の血が凍りつくように感じた。
意識不明のまま搬送されてきたその女性は藤村美穂。五月になったら式を挙げることになっている亮介の婚約者だった。思わず駆け寄ろうとする亮介を、内科医の児玉が後ろから羽交い絞めにするような恰好で引きとめた。
「牧村先生、トリアージが先だ」
事情を察した山倉が美穂に駆け寄り、外傷の有無などをチェックする。救急隊員の話によれば、壁が一部崩落した駐車場ビルの車の中に閉じ込められていたそうだ。
「クラッシュ症候群だな」
そうつぶやく山倉の声に、亮介は泣き出しそうになった。長時間、瓦礫などの下敷きになって体が強い圧迫を受けた結果、筋肉細胞が大量に壊れ、その内容物が血液中に放出されて起きる、一種のショック症状だ。
山倉は白衣のポケットからトリアージタグを一つ選び、児玉の方に向けてそれを見せた。その色は赤だった。児玉は黙って大きくうなずいた。亮介は全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
美穂はただちに処置室に運ばれ、簡易血液検査の結果、カリウムの血中濃度が異常に高い事が確認された。クラッシュ症候群の典型的な兆候だった。美穂は意識不明のまま、病院二階の外科病棟に入院となった。
後ろ髪を引かれるような思いで病棟を去ろうとする亮介の肩を、山倉がポンと叩いて言った。
「心配するな、牧村先生。クラッシュ症候群なら、想定内ってやつだ。むしろこういう症状の患者の方が例外だって、その事の方が厄介だな」
一階の待合室に亮介たちが戻った時、テレビの周りから悲鳴が聞こえた。誰かの容態が急変したかと思って駆けつけた二人に、軽傷患者たちが口々に怯えきった声で言った。
「先生たち、大変だ。原発が爆発した!」
いや、ベントは成功したはず、そう思いながらテレビの画面を見つめる亮介の目に、四角い建物の上部が吹き飛ぶ映像が繰り返し映し出された。アナウンサーは福島第一原発の一号機が何らかの原因で爆発したとしか告げない。
「先生、ここは、ここは大丈夫なんだべか?」
高齢の患者たちが亮介たちにすがりつくような視線を向けて訊く。だが、医師である亮介に原子力発電所の事など分かるはずもない。横にいた山倉が必死に患者たちを落ち着かせようと声を張り上げた。
「この病院は原発から二十二キロも離れてるんです。大丈夫だよ、心配ないって」
夕方になって、早朝訪れたDMATの医師から、衛星電話で病院に連絡が入った。詩織を山形の大学病院で受け入れてくれる事になり、翌日の早朝にはドクターヘリが南宗田市立中央病院に着くという事だった。
電話機を受け取った亮介は、まるで喜劇かマンガに出て来るサラリーマンのように、受話器の向こうにいる相手に、何度も頭を下げながら言った。
「よろしくお願いします。今、この病院では本格的な外科手術は無理です」
受話器の向こうから聞こえてくる声が、これほど頼もしいと思った事はなかった。
「やっとヘリを確保できました。そこの病院の裏庭なら大型のヘリでも着陸できる。念のため、スペースを確保しておいて下さい」
夜になってまた気温が下がり始め、一階の床に寝かされている患者たちが寒さを訴え始めた。エアコンをもっと効かせたいが、病院の電気が全て緊急用の自家発電装置に頼っている状況では、そうもいかなかった。
黄色のタグの患者のエリアで次々に咳き込む声が聞こえ始めた。内科医たちはインフルエンザを心配して、看護師たちに抗ウイルス薬の用意をさせた。
午後七時少し前、再び病院の衛星電話に、あのDMATの医師から連絡が入った。呼び出された亮介は、思わず大声を上げた。
「ドクターヘリが出せないって、どういう事です?」
返って来た答は、またしても信じられない物だった。
「聞いてないんですか? ついさっき、政府が、国が、原発から二十キロ圏内に避難指示を出したんですよ」
「え! でもここは二十キロ圏外ですが」
「その二十キロ圏内は、自衛隊の航空機以外は飛行禁止になったんです。ドクターヘリの航続距離では、二十キロ圏を迂回してそこまでたどり着くのは不可能です。申し訳ないが、牧村先生、ヘリでの搬送はもうできない」
通話が切れた後も、亮介はしばらく衛星電話機を握りしめたまま、茫然としてつぶやいた。
「こんなに遠く離れた場所にまで、原発事故が……」
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