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日付が三月十三日に変わっても、病院内の危機的な状況は改善の兆しを見せなかった。入院患者用のベッドは、予備の簡易ベッドを全て並べても全く足りず、比較的症状の軽い入院患者は外科、内科それぞれの病棟の廊下にビニールマットと毛布を敷いて寝かせていた。
自家発電装置の燃料節約のため、夜間でも院内の照明は可能な限り落とし、亮介たち医師は廊下を歩く際、患者の体を踏みつけないようにひやひやしながら歩かねばならなかった。
震災発生以来、病院のスタッフは日に三度、小さなおにぎり一個とインスタントのカップ味噌汁だけで食事を済ませた。院内の非常用食品は患者最優先で配給したが、それでもお粥と缶詰の肉や魚がせいぜいで、それもいつまで続けられるか分からない状態だった。
夜明け前、束の間の休憩時間を与えられた亮介は、外科病棟に行き、美穂が寝かされているベッドの脇にそっと立ち寄った。美穂の両腕には計三本の点滴用の針が指してあった。クラッシュ症候群の治療法は、基本的には人工透析の後栄養剤を含む数種類の輸液を体内に送り込んで、細胞の自己修復を助けるしかない。
美穂の意識のない白い顔を薄闇の中で見つめながら、亮介は美穂と初めて知り合った頃の事を思い出していた。
朗らか、というのを通り越してケラケラとよく笑う女性だった。亮介が研修医としてこの病院に赴任してきてすぐの初夏の頃から、地元のおばちゃんたちの付き添いで美穂がしょっちゅう病院に姿を見せる様になった。
美穂は地元の高校を卒業後、郵便局の職員に採用され、南宗田市の中央郵便局の窓口係を務めて三年目という事だった。
そのおばちゃんたちは、何かと理由をつけて休憩時間中の亮介を病院の外来患者用の食堂に呼び出し、いつもそこには美穂がいた。おばちゃんたちは美穂の前でことさらに亮介の事を褒めちぎった。
「この先生、ほれ、あれに似てるだろ。スナックの草薙君」
「それを言うならスマップだよ。まあ、どっちにしてもいい男だ」
「牧村先生、東京にカノジョとかいねえのか? いねえ! そうか」
亮介も美穂も戸惑うばかりだったが、何がどうなったのか、その年の海開きの時期に二人で海辺のシーサイドパークという公園兼キャンプ場のような場所へ遊びに行く事になってしまった。
南宗田市内では数少ない若者向けの遊び場で、海岸の砂浜ではきわどい水着姿の若い女の子たちが、サーフィンに興じている若い男たちに黄色い声援を叫んでいた。
あまり水泳が得意ではない亮介は、キャンプ場管理事務所の側の木陰のベンチでくつろぐ事にした。美穂も夏用のワンピース姿でベンチの隣に座った。そして申し訳なさそうに亮介に言った。
「ごめんね、先生。せっかくの休みに付きあわせちゃって」
「いや、どうせ休みにする事もないし」
「実はねえ、先生。あのおばちゃんたちの陰謀なのよ、これ」
「陰謀?」
「ほら、この辺りって医療過疎地とか言われてさ。お医者さんが少ないじゃない。だから外から若い独身のお医者さんが来ると毎回これやるのよ、あのおばちゃんたち」
「は? どういう事?」
「だから、地元の女とくっ付けちゃえば、医者がこの街に居ついてくれるんじゃないかって、そう思ってるわけ。で、あたしと先生をさ……」
亮介はたまらず大声で吹き出した。
「あはは! そういう話は聞いた事があるよ。でも、まさか自分が……あっははは!」
「ちょっと先生、笑い過ぎ」
「あ、ごめん……いや、でも……」
笑うなと言われるとかえって我慢できなくなるもので、何度腹に力を込めて抑えようとしても、どうしても笑い声が漏れてしまう。美穂が右手の拳をグーの形に握りしめて亮介の肩をぶった。
「だから笑い過ぎだって!」
「いや、だって……あはは……ごめん……」
「もう!」
そう言って亮介の肩をぶち続ける美穂も、いつの間にか一緒になって大笑いしていた。そんな事があったせいか、それ以来亮介と美穂は気安く言葉を交わすようになり、いつしか本当に付き合い始めた。
その美穂が物言わぬ意識不明の重傷患者として今亮介の前にいる。亮介はシーツの上に力なく投げ出された美穂の右手をぎゅっと握った。その手首の赤いタグが、暗がりの中で亮介の視線に刺さる様に浮かび上がった。
なんとか詩織をどこかの病院に搬送できないか、朝になって亮介は電話をかけまくったが、どの番号を押しても「ププー」という音がするだけでつながらなかった。衛星電話は非常用なので院長室に保管してあり、どうせ衛星電話同士でしか通話はできない。一般の電話番号にはかけられないのだ。
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