若菜は俺の離れたくないという気持ちを感じ取っているのかわからない。
すこし微笑んだり、そうかと思えば唇をゆるく結んだりする若菜は、それから俺から目を離して遠くを見た。
若菜が俺から目を離した瞬間、終わりの気配を感じ、同時に『言わなきゃ』と強い思いがせり上がった。
言わなきゃ。
言わなきゃ俺が後悔するのもそうだけど、でもそれだけじゃないなにか―――わからないなにか強い気持ちがせり上がってくる。
でもその時、若菜が俺に目を戻し、弱く笑って―――その弱い笑みに胸を突かれて、勢いはそこで止まった。
「じゃあね。湊も元気で頑張って」
その言葉に、今湧きあがった勢いがすうっと落ちた。
代わりに苦しさが喉元を圧迫し、若菜、と心の中で叫ぶ。
その時、若菜が「ねー、湊」と冗談っぽい言い方で笑った。
「今までずっと聞いてみたかったんだけど」
いたずらっぽく笑う若菜は、そのまま茶化すような声で言う。
「湊は私のこと好きだったこと、あった?」
明るく言われたその言葉の破壊力を、棒立ちの俺はまともに受けた。
その言葉が俺の中に入って、膨らんで、爆発しそうなほど大きくなって、喉は震えるのに声は出てこない。
息が止まり、なにも考えられなくて、心臓の音だけがドクドクと音を立てて俺の中で響いている。
“湊は私のこと好きだったこと、あった?”
若菜は俺と目を合わせながら、変わらず明るい顔を向けている。
明るい声と明るい表情。それがかえって違和感を連れて、ぎこちなく思えて―――。
衝撃で頭が回らなくなっていたけど、若菜を見つめるうち、言わんとしていることがなにか感じ取った。
(あ……)
それがわかった瞬間、ゆっくり目を見開く。
若菜が聞いたのは、今が「最後」だから。
もう俺と離れるから、最後にこれまでの俺の気持ちを知りたいと聞いたんだ……。
(それって)
若菜は俺と離れることを受け入れたのか?
俺が異動になると告げた時、若菜は感情が抜け落ちたかのような目で、呆然と俺を見ていた。
でも今の若菜は、ただ明るい笑みを浮かべて、暗くならないように無理しているようにすら見える。
(若菜)
俺が若菜を原田に託すつもりだと、若菜が思っているのはわかっていた。
当たり前だ。
若菜に原田と付き合ってほしいと思っているのか尋ねられた時も、俺はあいつは若菜を幸せにしてくれると答えた。
そんなふうに言う俺が、若菜のことを「好き」だなんて、思うはずがない。
―――でも。
俺は一歩若菜へ近づいた。
若菜は俺がそうすると思わなかったらしく、驚いて小さな肩を揺らした。
不安や怖さを混ぜた目が、俺を見つめる。
「好きだった。若菜のこと、好きだったよ」
若菜の目が見開く。
呆然と、信じられないことを聞いたような目で俺を見つめている。
「ずっと昔から。
……いつからとかわからないくらい、昔から好きだった」
今日若菜に会えたら、自分の気持ちを伝えようと思っていた。
ここからいなくなる俺が、若菜に好きだなんて言っていいのかわからなかった。
俺は若菜のためになれないし、若菜のうちのためにもなれないヤツで。
そんな俺が気持ちを伝えて、若菜の心を揺らしたくなかったし、負担にもなりたくなかった。
なにより若菜とわかり合えていると思っていた、これまでの俺たちの関係を壊したくなかった。
俺の想いを伝えて、すべてが壊れるくらいなら、「好き」だなんて言わないほうがよかった。
でも……そんなふうに自分を守るのは、ずるいことだよな。
今更だけど、若菜は昔にした約束を気にしてくれて、何度も俺に問いかけてくれていた。
俺の気持ちがどこにあるか、何度も知ろうとしてくれていた。
それなのに俺は、若菜と向き合って、自分の器の小ささを知るのが怖くて……。
原田に取られて、若菜を失って、打ちのめされることを思えば、自分から手放したと強がって、現実から逃げるほうが楽だった。
だけど今、若菜が俺から離れると悟って初めて―――若菜を本当の意味で失いたくないと思って、初めて。
やっとバカみたいなプライドを捨てて、本心でぶつかろうと思えた。
「俺は若菜が好きだ。だれにも取られたくない」
大きく目を見開いた若菜は、微動だにせず俺を見ている。
まるで現実感のない目で、夢でも見ているような感じだった。
「そ、れって……」
若菜の唇がかすかに開き、震えるような声が聞こえる。
「幼なじみとして、って、こと? それとも……」
言葉は途切れ、若菜は俺から目を外した。
それは無意識に見える仕草で、答えを聞くのが怖いと思っているように思えて―――咄嗟に「違う」と滑り出る。
「違う。幼なじみとしてじゃない」
強い声に若菜の視線が俺に戻った。
「若菜とは子どもの頃から一緒だったから、大事だなんて当たり前だったよ。幼なじみだから大事だとか、男とか女とかなにも考えてなかった。
意識なんてしていなかったけど、当たり前に若菜は特別だった」
小学生の頃、若菜の食べられない給食を食べるのは俺で、まわりはそれを不思議がっていたけど、俺と若菜にはそれが当たり前で。
それくらい近しい存在だった。
頭もよくて、快活な若菜はいつもクラスの中心だったけど、特に冴えない俺も、あいつを遠くで見ていた記憶はなくて。
そんなふうになんだかんだで近くにいるのが心地よかったし、これまでずっと、「若菜の傍」というぬるま湯につかっていた。
「俺、若菜に彼氏ができたら、本当に幸せにしてくれるのか? って気にしてた。俺のほうが若菜のこと理解してるって、内心張り合ってたとこもあった。
それがどういう気持ちからくるのか、あんまり考えてなかったけど……でも、幼なじみを心配するとかいうより、若菜が他の男のものになるのが嫌だったんだ」
ずっと心の中にあった、大切な気持ち。
気付かないはずなかったのに、弱い俺は自覚したくなくて、ただ“好き
”という気持ち伝えるまでにこんなに遠回りをしてしまった。
何年もずっと消えなかったどころか、無意識に期待するほど、俺の中では昔にしたあの約束は大きかったのに、肝心なことはなにひとつ言えなくて。
若菜は大きく目を見開き、瞬きも忘れたように動きを止めていた。
動揺しているのも、頭の中が動いていないのもわかる。
そんなふうに固まるほど衝撃的なことを、俺は若菜に言っているんだろう。
でも、俺の告白を“嫌だ”という空気は、若菜から感じない。
それが救いで、大きな光で、俺にとって若菜は、どれほど大きな存在なのかを改めて知らされた気分だ。
「俺は、若菜が幸せならよかったんだ。その気持ちは嘘じゃない。でも……取られたくない気持ちだって本物で、すごくすごく、強い思いなんだ」
言葉を繋ぐ度、心臓が熱くなる。
あの時―――ここであの”約束”をした時も、こんなふうにせわしなく心臓が動いていた。
若菜は下唇を噛みしめる。
眉をぎゅっと寄せて、瞳が徐々に潤んでいく。
「なに……それ……。ほんと」
震える声。震える瞳。
「湊は……。ほんと」
“……遅すぎるよ”と、聞こえないほど小さな、かすかな声がした。
ずっと抱えていたものが、心の中から溢れて、零れ落ちたような声。
若菜が発した言葉に心臓を掴まれた瞬間、若菜の体がこちらへ動いた。
一歩、二歩、なにか重たいものでも引きずるように、ゆっくり俺に近づいて―――。
「わか―――」
若菜は俺の左腕を指先で握り、自分の顔を見られまいとするようにうつむく。
「ほんっとに湊はバカ。……バカだよ。……もう」
その時、俺の肩あたりから、吐息まじりの声が聞こえる。
“……だめかと思った”
その声が届いた瞬間、反射的に体が動いて、若菜を抱きしめていた。
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