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弱々しい、“だめかと思った”に、全身が粟立った。
心が震える。
喉の奥がじんとして、熱くて苦しくて、でもなにより若菜が今俺の腕の中にいることにほっとして―――心が熱い。
「だって湊は……私が原田くんとうまくいけばいいとか、原田くんなら私を幸せにしてくれるとか、そんなことばっかり言って。私の気持ちを、まるで考えてなくて」
途切れ途切れに、でも切羽詰まった思いを吐露するように、若菜は俺の腕に顔を埋めたまま続ける。
「……ごめん」
若菜の言うことはその通りすぎて、なにひとつ言い訳はできない。
「私……私……。湊のこと、ずっと好きだったんだよ。それを……湊が言わせてくれないから」
若菜の声には、恨みも少しはこもっているような感じがした。
(……言わせてくれない?)
どういうことかと頭の隅で思ったが、聞き返すより「ごめん」と反射的に謝った。
そのすこし後で、若菜がゆっくり動く。
睨むような目で上目遣いに見られ、悪い予感がしてドキッとする。
「……今、どういうこと?って思ったでしょ」
心中を言い当てられ、さらに心臓が跳ねた。
「先に作ったでしょ。湊のほうが、彼女」
「は?」
意味がわからず咄嗟に聞き返してしまうと、「やっぱり」とでも言いたげに、若菜は眉間に力を込めた。
「中学の時、湊が彼女を作ったでしょ。私、それで好きだって言えなくなったんだよ。湊は私のこと何とも思ってないのかと思って」
中学?
突然の話に驚いたが、言われて当時のことを思い出す。
(あぁ)
たしかにある女子に告白されて、当時なんとなくいいなと思って付き合い始めた子がいる。
その時はあまり深く考えていなかったし、若菜のことを今みたいに「女」として好きだと確信していなかった時で、記憶もおぼろげだ。
中学の時のことなんて完璧に頭から抜けていたから、すぐには頭がついていかない。
「さっきも湊、私に言ったじゃない。私のこと、男とか女とか、そういうこと考えてなかったって。そういうのが湊から伝わってきてたから、私も言えなかったんだよ」
ふてくされたようにこちらを睨んでいた若菜に、心中を見破られたかと思い、ドキッとする。
若菜ははぁ、と息をついて、視線をゆっくり別へやった。
「……でも、湊が私のこと特別に思ってくれているのもわかってたから、ずっと諦められなかった。……諦められなかったというより、期待を捨てられなかった、っていう方が正しいのかもしれないけど」
さっきとはまるで違う、勢いの弱まった声音に、はっとさせられる。
「湊は私のことを好きじゃないと思っても、心のどこかで諦められなくて、そんなことばっかり繰り返して」
若菜の目は遠く、過去を見ているような目だった。
「……湊が彼女を作っちゃったから、私もどこかで張り合って彼氏を作って。でも別れて、それを湊に報告して。その時……いつも湊が本気で励ましてくれるから、やっぱり湊を好きって気持ちはどこにもやれなくて、ずっと抱えたままだった」
遠くを見るような目を見ながら、若菜の気持ちをやっと理解し、胸が締めつけられる。
「だって、私は湊のことは幼なじみだけど、それより好きな男の子だった。……そうだったんだよ」
「……ごめん、本当ごめん」
俺が若菜との関係を深く考えていなかった中学時代、若菜はそんなふうに思っていたんだ。
若菜の話を聞いて過去の自分の鈍感さに呆れるが、同時にそんな昔から俺のことを好きでいてくれたことを嬉しく思って、だんだん心が浮ついていく。
(……そっか、若菜が)
原田に取られるかもしれないと思って、原田と自分を比べて、あいつのほうが若菜のとなりに立つにふさわしいヤツだと思って苦しんでいた。
自分じゃ若菜を幸せにできないと思っていたし、そのことが苦しくてやるせなかったけど、若菜の気持ちを聞いて、嬉しさで頬が自然と緩んだ。
でも若菜は真剣なんだからニヤけちゃいけないと思うのに、そうするのが難しいくらい嬉しくて……若菜を抱きしめる腕にまた力がこもる。
「……湊?」
そんな俺を不思議に思ったらしく、若菜が小さな声で尋ねた。
「ごめん、そんなふうに若菜が思ってると思わなかった。好きだって言わせてくれなかったとか……。そんなこと思ってるなんて思わなかった」
「も、もう!繰り返さないで!恥ずかしい!!」
こちらを見ようと顔を上げかけていた若菜は慌ててうつむき、照れ隠しなのか俺の胸を握り拳で叩いた。
その仕草がおかしくて声をあげて笑えば、若菜は「もう!」ともう一度俺の胸を叩く。
かわいい。
素直に、心の中心から湧きあがる温かい感情に、俺は笑ったまま若菜をさらに抱きしめた。
かわいい。好きだ。
……あぁ、俺。
若菜が好きなんだ。離れたくない。
心の中心から湧き上がってきた感情に、触れて自覚して、さらにその思いが強くなる。
だからこそ「今」を意識して、もうじき明日がくると―――自分が明日○○県に行き、若菜と離れてしまうことをまた実感する。
その時、視界の端に強い光が入った。
そちらを見れば、通り過ぎようとしている車が近づいてくるのが目に入った。
同時に、今道端で若菜を抱きしめていることを思い出し、若菜の顔が見られないよう、顔を隠すように抱きしめ直す。
車が行ってしまった後、ようやくいつまでもこんなところでこうしていられないと気付いた。
だけど、離れがたい。
若菜に回していた腕をほどくと、若菜は近所の人に見られたかもしれないと焦ったようで、車がいなくなったほうを見て大きく息をついていた。
「……なぁ」
「うん?」
「俺、○○県だろ。明日から」
自分でも知らないうちに、言葉が滑り落ちる。
「……うん」
「だから……ちょっと、あがらない?」
俺の言葉に、うつむきがちだった若菜は目を瞬き、一瞬遅れてこちらを見た。
「え?」
若菜は言われた意味がわからないといった顔をしている。
……それもそうか。
言い直すのは恥ずかしくて、今度は俺のほうが若菜から視線を外した。
「俺の家。このまま若菜と別れたくないから、ちょっとだけ」
この時間はもちろん家に両親がいる。
でももう寝ているだろうし、もし会ったとしても若菜だし、小学生のころはそこそこ遊びに来ていたから、親もそこまで気にしないだろう。
若菜はさらに大きく目を見開いた。
本当に寝耳に水といった顔だったが、やがてかすかに頷いた。
自分で言ったのに驚いて、目を泳がせていた俺は若菜を見る。
「すこしだけ、行きたい。私もなんか……ここで湊と別れるのは、やっぱ寂しいから」
(若菜……)
温かいのか切ないのか、なんだかわからない感情が湧き上がってくる。
俺は絞り出すように「うん」と頷いた。
頷いたと同時に若菜の手を取って、若菜の家とは反対の方向へ歩き出す。
俺たちの家の間にある空き地を挟んで、となりの俺の家。
自分の家に帰るのに、こんなに心臓がドクドク鳴っているのは初めてかもしれない。
軽く握った若菜の手に意識が集まっていた。
手をつないだなんて、もしかしたら幼稚園の頃かもしれないし、その時の記憶は曖昧だ。
若菜の指がこんなにも細くて華奢なことを、俺は今初めて知った。
よく知る若菜のこと、やっぱり俺は知らないことがあるんだと知らされる。
玄関の鍵をあけ、ドアをあけて中に入った。
今若菜が緊張していることは、つないだ手から感じて、俺のほうまで緊張してしまう。
廊下は電気が落とされていて暗かった。
一階の奥が寝室の親は、もう寝に行ったんだろう。
「入って」
小声で言い、若菜より先に靴を脱いだ。
若菜は俺の横に靴を揃えてから二階へ上がる。
……そういえば、今まで付き合ってきた彼女を家にあげたことはなかったな。
俺は実家暮らしだし、付き合ってきた人を親に紹介したこともなかったから、今こういうことをして、中学生みたいな青さでドキドキした。
特に目新しさもない木目のドアをあけ、中に入った。
廊下の明かりで部屋の中がぼんやりとし、電気を点けて視界がよりはっきりした。
はっきりして、部屋の隅に積まれた段ボールと、今朝起き抜けのままの、だらしないベッドを見て、はっとする。
(俺)
あのまま若菜と離れがたくて、あまり深く考えなかったけど、こんな引っ越し直前の部屋に若菜を入れてどうするんだ?
別にいつも綺麗にしているわけでもないが、がらんどう同然の部屋を見て、思考もからっぽになる。
棒立ちの俺の横で、若菜は俺と同じように立ったまま動かずにいた。
しばらくして俺のほうを向き、覗き込むように見る。
「なんで動かないの?」
「いや……」
なんで、と聞かれても、なにも考えていなかったからどう言えばいいかわからない。
「殺風景すぎて、びっくりして」
「え、荷造りしたのは湊じゃないの?」
「いや、そうだけど」
「じゃあおかしいでしょ!」
思わず声が大きくなった若菜は、それに気づいたらしく慌てて息をひそめる。
「もう!湊がわけわからないこと言うから大声出たじゃない」
「あぁ、いや……。なんか……そうだよな」
俺も自分自身に呆れつつ、とりあえずベッドからずり落ちそうになっている布団を戻し、後ろにいる若菜を見た。
「座る?」
フローリングの床以外に座れる場所はここしかない。
若菜が一度大きく瞬き、「うん」と聞き取れないほど小さな声で言った。
ベッドの真ん中からすこし左に若菜が座る。
それを見て、俺が右側に座った。
(あー……)
若菜のほうを見られないからわからないけど、たぶん若菜も俺と同じように床を見ているに違いない。
なにか話そうと思うのに、頭がからっぽだ。
相手は若菜なのに、若菜だからこそ意識して動けない。