それから時が経ち、私は成人の年を迎えました。それだけの長い年月が経っても、相変わらず、菊さんと私は仲の良いままでした。
「大人になりましたね、こうちゃん。」
「菊さんのおかげですよ」
「もう驚きですよ。前まであんなに小さかったのに。」
「もう、いつの話をしているんですか?」
「ほんの少し、前のことです」
「だいぶ昔のことですよ。」
「時の流れは早いですねえ。」
私はそっと菊さんの隣へと腰を下ろしました。
「そうだ。……こうちゃんは、夢をもっていますか?」
「夢?」
ふと、やわらかな声色で菊さんは私に問いました。
私の頭の中で夢という言葉が反復しています。
夢、夢。
私の夢はなんでしょう。私が憧れることは、一体なんでしょう。
「もしなければ、やってみたいことでもいいですよ。」
やってみたいこと。私の、やってみたいこと。
「なかったら、答えなくてもいいのですけれど……」
私は何がしたいのでしょう。私は、私は……。
そんな夢の話なんてあの頃から、菊さんに出会った時からずっと思い続けています。私が何をしたいのか。それは長い年月をかけてみても、寄り道をしてみても、すべて一つの答えに辿り着きました。
「……僕、あなたの傍で働いてみたいです」
ずっと夢でした。ずっと考えていました。あなたの隣に堂々と居られるにはどうしたらよいのか。あなたの傍で、あなたの一番近くで、あなたと過ごすにはどうすればよいのか。ずっと考え続いていました。
ですが、その答えは至って単純でした。菊さんの傍で働いていればいいのです。十一の時に出会った、あのざんぎり頭の偉い身分の男性のような、政治家のような人になれば、あなたの隣に無条件でいられるでしょうと。安直だと安易だと言われてしまっても仕方ありません。それほどまで無条件にあなたが好きなのです。
「え、えっと……」
菊さんは困っている様子でした。どう答えたら良いのか分からないようでした。でもそんな姿でさえも愛おしくこの瞳はあなたを映してしまいます。
「別に私のそばで働かなくとも、普通に会いに来ればいいではありませんか。どれだけあなたが大きくなっても、私はどこにも行きませんし、ずっとここで国として生き続けていきますし。」
「違いますよ、菊さん。それでは物足りない。僕はあなたの一番近くであなたの役に立ちたい。それが、僕の長年の夢です。」
「……一緒に居たいというのは、ありがたいし、嬉しいことですけれど、それでは、まるで私があなたの人生を縛り付けているみたいでしょう。それではいけませんし、あなたの人生はあなたのものですから、あなたはあなたの人生を生きてください」
胸の奥がむすっと変な気になったのがわかりました。
「僕は僕の人生を生きています。だからこそたくさん悩んで、今に至るんです。ずっと役に立ちたかった。いつも幸せをいただく立場なのは申し訳ないし、僕ももう大人ですから、あなたの役に少しでも立っていたいんです。……あなたが、ずっと好きですから。」
ついに言ってしまったと口許が緩んでしまう。それは初めて口にした愛の言葉が照れくさくてたまらなくて、だけれどようやく言えたという喜びが混ざっていました。
「……あまり、爺をからかわないでください」
「からかってなどおりません! 僕の目を見てください。本心です。まごうことなき、本心です。あなたのことがずっと好きでした。あなたを思うだけで胸がいっぱいになって、あなたが笑うだけで胸が満ち溢れて仕方ありませんでした……それでも、からかっているように見えますか?」
言葉が震え、声が震える。こんなにも人を愛していると実感するのは、こんなにも心が震えるのですか。こんなにも嬉しくて、こんなにもあなたが煌びやかに美しく見えるのですか。それを教えてくださったのは、間違いなく、あなたなのでした……
菊さんは顔を真っ赤にさせ、どぎまぎと目を逸らしています。私はそんなあなたの手をぎゅっと握りました。
「返事は今すぐ、とは言いません。ですが、忘れないでください。あなたがしてくださったことが、あなたが与えてくださった優しさが、こうやって愛になるのです。そんな僕がいるのだと……!」
「幸太郎」
菊さんは冷ややかに私の言葉を止めました。その目は笑ってなど、おりませんでした。
「……幸太郎。大変、ありがたいですが、それはきっと間違いです」
「……え?」
「その気持ちは勘違いなのです。あなたのその好きは、人としての私を思う一人の日本男児なのではなく、国を慕う善良な日本男児なのです。愛国心を、単なる恋心などと勘違いしてはなりませんよ」
菊さんは一切、私から目を逸らそうとはしませんでした。先ほどまでは逸らしていたはずなのに、強い信念が瞳に宿っているかのように私を見続けていました。
「そ、そんな、そんな、はずは、ありません……僕は本当にあなたのことを慕っているのです……!」
菊さんのおっしゃったことが、私の、私の今までの感情を真っ当から否定されたようで、頭はもはや何も考えられない容れ物と化しました。それは、もう、座っていることですら、ままならないほどでした。
「幸太郎。私は本田菊ではございません。日本、日本なのです。だから、……こうちゃん。こうちゃんのその気持ちを、私は否定したくはないですが、……こうちゃんのそれは、間違いなく愛国心なのです。」
まともに菊さんのお顔を見ることができませんでした。もう、すでに頭が真っ白になって、血の気が引いて、そこに加えて鈍く重い鈍器で思い切り殴られたかのようにどっしり重くて、苦しくて悲しくて仕方がなかったのです。
「……僕では、いけないんですか……? 僕の気持ちはすべて愛国心なのですか……?」
信じられやしませんでした。だって、ずっと思ってきたのですから。来る日も来る日も、菊さんを思い浮かべない日はないほどでしたから。信じられや、しませんでした。
「……林太郎に、いえ、こうちゃんのお父さんにも聞くといいですよ。」
ですが、菊さんは答えてはくれませんでした。その代わり、私の父の名を出して、今日はもう帰りなさいと私の背中を押して、家から出されてしまいました。
沈んだ気持ちばかりが、私を襲うばかりでした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!