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その後、どうやら家まで一人で歩いて帰ったそうです。どうやら、というのは、私自身、まもとに家に帰ってきた記憶がないのです。そのまま帰宅してすぐ、玄関先で廃人のように立ち尽くし、下女に声をかけられるまでは、まったくもって意識がどこかへと浮遊していたのです。「下のぼっちゃま、何か、ございましたか?」
「……いや、特に。……とりあえず、父の部屋に出向かせてくれ。話したいことが、あるんだ」
「え? ええ、かしこまりました。旦那様は執務室におられます。ただ今は執務時間であられますので、もしかしたら……」
「構わない。ただ、少し話がしたいだけだから」
「かしこまりました。」
下女は私の前を歩き、父の部屋へと案内をしてくれました。その道中も菊さんの『愛国心』という言葉が、ひどく私を傷つけるのです。たしかに、菊さんを思うということは、国という概念を思うことと同義だから、『愛国心』で間違いはないのでしょう。ですが、私の恋心をただの愛国心で片付けられるのに、私は納得がいなかったのです。そして、この『納得のいかない気持ち』を、父が何かすっぱりと当ててくれそうな気さえも、この時はしていたのです。
「旦那様。下のぼっちゃまが、旦那様にご用があると。」
下女は扉をたたきます。そして、少しした後、低くしわがれた声で、入れとおっしゃられました。私は父の執務室へ足を踏み入れました。
「父様、おたずねしたいことがあって、参りました。」
父は些か驚いた顔をして、
「お前からたずねてくるのは、まことに珍しい。何があった。申してみろ。」
私はごくりと唾を飲み込みました。
「父様は、……本田菊さんを、ご存じですか?」
私があの方の名前を申した時、父はさあっと青ざめて、椅子から立ち上がり、そして、
「お前、その名をどこで知った!」
と大変激怒されたのです。私が何か申そうと口を開いた時、父は私の目の前に手のひらを見せて、自身の鼻をつまみました。
「……いや、あの時、か……そう、お前も、お前も、あの方を……!」
私は俯きました。父はそれが私の気持ちを察したようで、私の方へ千鳥足でやって来られました。
「あの方を、好きになってしまったのか……?」
こくん、と首を縦に振りました。
「……だから、だから、あれほど会うな、と……つるが言っていただろう……?
つるとは、たしか、私の母の名前です。ですが、私が母の名前を知ったのは、この日が初めてなのでした。
「……母様から、言われておりました」
「それなのに会ったのか。」
「あの時から、お慕いしていたのです」
「そうか……もう、手遅れだったか……」
父はうなされるように立ち上がり、ゆらゆらとこちらへ向かいながら、ぽつりぽつりと呟き始めました。
「あの方は、いけない。あの方を一度でも好きになってしまったら、一生、忘れることなんてできない……どれだけ私一人を愛してくれる女に巡り会えても、子宝に恵まれようと、この身が金で潤おうとも、……あの方を、忘れられた日なんてこれっぽっちもなかった……!」
「と、父様……?」
「そしてようやく……忘れられそうになっていたというのに……! 幸太郎! なぜお前ごときがあの方を思い立たせてくれやがったんだ! 思い出さなければ、思い出さなければ……家内も、子供も、家も、名誉も、金も、大切に思うことができるのに! ……ああ! 日本様、日本様……! 菊さん……! 菊さん! あ、ああ、ああ!」
父は私を床に押し倒して、その上に覆い被さり、子供のように泣き叫びながら、菊さんの名前を呼び続けました。
私にはそれが恐ろしく見えて、たまらなく身震いをしたのです。いつも厳格そうに振る舞っていた父が、威厳のある父が、今、私の上で子供のように泣き叫んで、私の好きな人の名前を呼んでいるのです。父をどかし、父の部屋から出る気力すらも、驚きによって失われてしまったほどでした。
「……父、様……」
それから私は身柄を拘束され、勝手に外へ行かぬよう監視役までつけられ、一人、独房のような部屋で過ごさなくてはならなくなりました。すべては私が菊さんに会わないようにするため。それはまるで、呪いのようなものでした。
独房での生活は、最悪でした。何をするにも、監視役の目があり、自由になんてさせてくれやしません。食事をとろうにも、排泄をしようにも、仮眠をとろうにも、なにをしても監視の目がギラリとこちらに牙をむいて居心地が悪くて悪くて仕方ありませんでした。
居心地が悪くて、息が詰まって苦しかったから、つい、また菊さんのことを思い出してしまうのです。菊さんだけにはなんでも話せましたから。なんでも受け入れてくれましたから。……いや、私の恋心は受け入れてはくれませんでしたが……。
「おい、この出来損ない」
ふと、頭からそんな鋭い声が聞こえてきました。カラリと障子が開いて、人の影がゆらりと独房の中へ入ってきました。その人影に私はぶるっと悪寒が走って、顔を上げたく、なくなりました。
「いい気味だな、出来損ない。お前はどこへ行っても何をしていても出来損ないだな。やっと己の立場を理解したか? 愚か者め。」
顔を上げなくたって、その声の主が誰かなんて、とっくにわかりきっていました。
「母様から聞いたぞ。お前、あのお国様の元へ行っていたらしいな。お国様の元へは行ってはいけないと昔から言われていたのに、そんな小さな約束事も守れないのか、この出来損ない。」
「……兄様には、関係のないことでしょう……?」
「関係のない? はっ! まだ己の立場を理解してないのか。」
私を忌み嫌う兄、寛次郎は私の頭を乱暴に掴み上げ、私を強く睨みつけました。
「お前がお国様を思慕しているのは知っているんだ。だがな、お前がどれだけ出来損ないだとしても、樋口家の者であることは変わらないんだ。……だから、優しい兄様から、お前に一言。……父様がお前に婚約者を連れてきた。」
「……は、は?」
寛次郎の言葉に、私はもう、震えが止まりませんでした。
「こ、婚約者……?」
コンヤクシャ。と口先が言葉をなぞり、私はその言葉に驚いて、つい叫んでしまいそうでした。
「ああ、そうだ。遅めの結婚ではあるが、曲がりなりにも樋口の者だからな。……父様に感謝するんだぞ。そうでなくちゃ、お前は一生独り身だっただろうからなあ!」
寛次郎は嬉しそうに声を上げて笑い始めました。ですが今の私に、寛次郎の笑い声なんて耳に入らず、ただこだまするのは婚約者という五文字のみでした。これでもう二度と、菊さんをずるずる思える身でないことを、強く深く悟って、苦しくて仕方ありませんでした。
だから、私は寛次郎にも監視の者にも殺してくれ、死なせてくれと喚いて頼み込んでしまったのです。
菊さんのいない世界なんて考えたくもなかった。菊さんに会えない未来なんて消えてしまえばいいと思った。菊さんを見ることができない、話すことができない人生なんて、生きていても無駄だと思った。それは、私にとって菊さんとはそんな存在だったからでした。
喚き泣く私の姿を見て、寛次郎も監視の者も驚いたような、気狂いを見るかのような目でぼうぜんと立っていました。それほど嫌だったのです。それほど私にとっては苦痛でしかなかったのです。苦痛で、苦痛で、苦痛で、もう、死にたいほどに……。