コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第1話 平穏の終わり
朝の日差しが校庭の桜の葉を淡く透かしている。風はまだ冷たく、ことはの制服の襟元を軽く揺らした。城山ことはは、いつも通りの大きな声と笑顔で登校してくる。中学二年生の春の始まり、彼女はクラスのムードメーカーだった。休み時間の中心にいることが多く、体育祭でも文化祭でも、みんなを引っ張るタイプ。今日も同じだ。背中にかけたランドセルからは、教科書の端が少し覗いている。胸の内には、いつものくだらない冗談と、友達を安心させる小さな使命感が詰まっていた。
「おはよー、ことは!」
校門を入って最初に声をかけてくるのは真白結莉愛だ。金髪をふんわりと巻いた彼女は、人気者らしい派手やかさをまとう。制服のリボンの位置さえ意識しているかのように、すべてが計算された軽やかさを持っている。ことははその流れるような笑顔に合わせて、手を振る。
「おはよー! 今朝の髪、最高だね。どこで巻いたの?」
「んー、今日のところは秘密〜。放課後にでも教えてあげる♡」
二人のやり取りに、通学路に点在するクラスメイトたちの顔が集まってくる。五十嵐樹は相変わらずふざけていて、彼の口からは朝一番の下らないギャグが飛び出す。飯田遥斗はすでに誰かを煽る調子で、朝の校庭をいつもの小さな戦場にしていた。ことはは笑いを撒き散らしながら、そんなやり取りを心地よく受け止める。学級委員長の大山裕翔はいつもより少し早く教室へ向かい、黒板に今日の連絡事項を書き込む準備をしている。西田愛菜はメガネの奥で静かにノートを確認しており、花北奈々はスマホを握りしめて誰かに送るメッセージを悩んでいるように見えた。双子の星咲美架と舞優は、ことはのすぐそばでおそろいのアクセサリーの話をしている。
教室のドアを開けると、いつもの匂いがした。消しゴムの粉と、少し焦げた給食室の香り。座席表通りに並んだ机に、軽やかな乱れがある。今日は特別な日ではないはずなのに、ことはは胸の奥にわずかな違和感を覚えた。教室の窓辺、誰かの鉢植えの葉がいつもよりしおれている。黒板には昨日の授業の余韻が残っていて、グラフの端がかすかに消えかかっている。何でもないことが、妙に目につく朝だった。
「ことは、昨日の宿題出した?」真白が小声で聞く。
「出したよ〜。ことはは結構真面目なんだから」ことはは大げさに胸を張って見せる。周りがクスクス笑う。そんなやり取りがあればこそ、クラスは落ち着いて動いていく。
席に着くと、ことはは自分の机の隣の机をちらりと見る。そこには小さなメモ用紙が折りたたまれて、ほんの僅かだけ角が見えていた。いつもならその紙を手に取って中身を覗くのだが、今日は何故かことはの手は伸びなかった。気になるものの、見なかったふりをしてしまう自分がいる。やがて授業が始まり、佐久間悠也先生、通称「さーくまティーチャー」が黒板の前に立った。彼は相変わらず優しい声で話し、生徒たちの注意を穏やかに引きつける。だが、その穏やかさの裏でことははまた小さな違和感を覚えた。先生の表情が、瞬間的に少し曇った気がしたのだ。気のせいかもしれない。だが、人の顔の微妙な歪みを見逃さないことは、クラスのリーダーであることはの仕事のうちだ。
昼休み。ことははいつもの仲間と一緒に屋上へ向かう。風が抜ける場所で、みんなはお弁当を広げ、それぞれの話題で盛り上がる。真白は今日のヘアケアの話、五十嵐は放課後のサッカーの約束、飯田は誰かのSNSの書き込みを面白おかしく批評する。大山は委員会の仕事を淡々とこなす。西田はノートを開き、授業の復習を欠かさない。花北は一人で少し離れた場所に座り、誰かに送る長文のメッセージを何度も読み返しては消している。その光景はいつもと変わらない風景のはずだった。
「ことは、今日の放課後さ、みんなでカラオケ行かない?」美架が手を挙げる。舞優がすぐに二つ返事で賛成の意を示す。ことははその提案に明るく頷き、クラスの輪が少しだけ大きくなる。そんな些細な集まりの空気が、ことはを守っている気がしていた。
だが、昼休みの終わり近く、ことはは再びあの机の隣に置かれた紙のことを思い出す。放課後の予定を告げるはずの紙なら、すぐに中身を確認すればいい。簡単なことだ。だが、ことははその紙を見ない選択をしていた自分を認めたくなかった。勇気がないわけではない。むしろ直感が何かを警告しているのだと感じていた。なぜなら、その紙が置かれた机には、いつも座っているはずの人の気配が薄かったからだ。
放課後、ことはは友達と別れて教室へ戻る。机の上に、いつもなら置かれているはずのペンケースや教科書が見当たらない。誰かが忘れたのだろうか。周りの机を見渡すと、星咲姉妹の机の奥に、小さなスカーフが無造作に置かれている。美架と舞優は「それ、帰りに返すね」と笑うが、その笑顔の端に微かな緊張が見えた。西田は普段通りに静かだが、目の奥で何かを計算している様子がある。ことはは決して不穏なものを自分の目で確かめたくはないが、同時に見過ごしてはいけないという声が頭の中で鳴る。
ことははその晩、家に帰っても妙に落ち着かなかった。テレビからは家庭用のニュースが流れ、町のコロッケ屋「コロッケ師匠」こと町田和子の顔が映っていた。いつも陽気で街の人たちを笑わせる彼女の姿に、ことはの胸のひっかかりは一瞬和らいだ。だが、夜になるにつれてその引っかかりはまた現れる。ことははスマホを手に取った。クラスのグループチャットはまだ静かだ。誰かが何かを報告したり、くだらないスタンプが飛び交ったりするのを見慣れていることはは、今日はその空白が気持ち悪かった。
深夜、ことははふとした衝動で、昼に見かけた小さなメモが脳裏によみがえった。なぜあの子の机が空いていたのか。なぜあのノートがいつもの場所にないのか。ことはは自問自答する。直感は「ただの忘れ物」だと囁く一方で、別の声が「何かが違う」と主張する。ことはは自分がみんなを守る存在だという自負が、その声をさらに大きくさせるのを感じた。
翌朝、ことはは決めたことを実行に移す。学校へ向かう早足の中で、ことはの心はいつもより緊張していた。今日は放課後、クラス全体で話し合うつもりだ。誰かが欠けていることに気づかなかったふりはもうできない。ことはは自分に言い聞かせるように、深呼吸をした。
教室に着くと、今日もいつもの面々が集まっている。しかし、昨日とは微妙に違う。誰かの机がまた少しだけ乱れている。誰かのロッカーの鍵が開いている。小さな異常が連続して目につく。先生がいつものように朝の点呼を取るとき、大山が普段よりやや声を震わせているのをことはは見逃さなかった。顔を見れば、彼の瞳にいつもはない曇りがある。花北はひとりで窓の外を見つめ、指先が震えている。真白は言葉を装って笑っているが、ことはにはそれが仮面に見えた。
「欠席者がいる」——その言葉が、クラスの空気を一瞬で変えた。事務所からの連絡事項として伝えられたのは、体調不良による欠席だという表向きの説明だった。けれど、ことははその説明の裏にあるものを嗅ぎ取った。誰かがもう一人、いつもの場所にいない。その事実が、教室の温度を変える。
ことはは自分の胸の奥にある不安を押し殺し、いつもの笑顔を取り戻そうとする。だが、その笑顔がどこかぎこちないことは、クラスメイトたちにも伝わっていたのかもしれない。昼休みの空気は、昨日ほど無邪気ではない。誰も何かを口に出そうとしない。五十嵐のふざけ声は今日に限って空回りし、飯田の煽りはいつもより鋭く響いた。西田はいつもより多くのページをめくり、何かを探しているかのようだった。
放課後、ことはは教室の隣の席に置かれていたあのメモに手を伸ばす。指先が紙に触れた瞬間、手のひらに冷たい感触が残る。メモには「もうすぐ」だけが書かれていた。筆跡は乱暴で、焦ったように見える。だが、それだけだ。言葉の余白が、ことはの胸に黒い影を落とす。なぜこんな言葉がここにあるのか。誰が誰に伝えようとしたのか。ことははその紙を胸ポケットにしまい、ゆっくりと顔を上げる。
教室の窓の外、夕暮れが差し込む。ことはの視線はまわりの顔を一つずつなぞる。いつもなら安心できるはずの顔が、今日はどこか距離を持って見える。真白の笑顔は鋭利で、花北の寂しげな瞳は深海のようだ。大山は冷静を装っているが、唇の端が震えている。西田は何も語らない。双子は互いの手を軽く握り、互いの存在でしか安らげないかのように見えた。ことはは自分がクラスをまとめる役割を担っているという自負を、再び思い出す。だが、その自負は重い。
その夜、ことはは眠れなかった。窓から見える街灯がぼんやりと色を滲ませ、遠くから聞こえる自転車の音が夜の静けさに溶けていく。ことははノートを開き、今日の出来事を淡々と書き出す。メモの言葉、机の乱れ、クラスメイトたちの表情。字は震えず、正確に事実だけを記していく。ことはの手は、観察者としての冷静さを保ちながらも、内面では何かが動き始めているのを感じていた。
ページの最後に、ことはは小さく書き付ける。「何かが始まっている」。それは宣言であり、約束でもあった。ことはは自分自身に誓う。誰が何を隠していようとも、真実を見届けると。明るく、強く、そしてどうしたって諦めない存在として。だが、その誓いは同時に、ことは自身を深い迷路へと誘う入り口でもあった。
夜が深まるにつれて、街の息遣いは穏やかさを取り戻す。町田和子の店の灯りが最後の一人を送るように消え、コンビニのカウンターには村田咲希が静かにおにぎりを握っている姿が思い浮かぶ。穏やかな光景のはずだ。ことははその光景に一瞬だけ心を委ねる。だが翌朝、教室の机に置かれた「もうすぐ」というメモが、日常を確実に変えていく。
窓の外の桜の枝が、夕風に揺れる。ことははその揺れを、誰かの足音のように感じた。足音はまだ遠い。けれど、いつか必ずこの足音は近づく。そのとき、ことははどう動くだろうか。胸の奥の好奇心と恐れが、微かに震えながら共鳴する。物語の最初のページは、こうして静かに閉じられる。平穏の終わりはほとんど、気づかれないままに訪れたのだった。