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朝の風がまだ冷たく、ことははコートの襟をきゅっと立てながら校門をくぐった。前日から胸の中に貼り付いて離れない小さな不安が、朝の光のなかでまた少し重くなっている。昨日教室にあった「もうすぐ」という紙片の文字列が、いつまでもことはの頭を回っていた。それは脅しでも予告でもない、ただ短く、意味の半分を刃物のように欠いた言葉だった。
クラスに入ると、空気は昨日とは確かに違っていた。机は整っているが、そこかしこに緊張の細い糸が張られているように見える。真白はいつものように笑っていたが、その笑顔はことはの目に少し薄い仮面のように映った。五十嵐は昨日よりやや控えめにふざけ、飯田は情報を求めるように周囲を煽っている。美架と舞優は互いを確かめ合うように小さく話し、大山は書類の束に手を触れながら落ち着かない様子を隠せない。花北は一段と色が白くなり、窓の外の校庭を無言で見ている。西田は例によってノートを開いているが、その手が震えているのをことはは見逃さなかった。
「誰が休みって…?」ことははさりげなく尋ねた。声はいつもの明るさを保たせたつもりだったが、教室の中でそれはやや大きく響いた。
「学年の保健室から連絡が来た。体調不良ってことになってるけど、連絡つかないみたい」大山が低く答えた。学級委員長の声は事務的だが、その瞳は真剣だった。ことはは胸の中で何かが弾ける音を聞いた。体調不良――それは最も合理的で安全な説明だ。けれどことはは、その合理のすき間に別の影を感じた。昨日のメモ、教室に無造作に置かれていた鞄、そして――その人の席に残されたわずかな違和感。
昼休みが来るまで、ことはは目を皿のようにして周囲を見渡した。誰かが消えたという事実は、表面上は小さな欠席にすぎない。しかし不在が生む空白は、集団の中に異物を生む。昼休み、屋上に出て弁当を広げる一行の輪は、昨日よりも一回り縮こまっているように見えた。
「誰が欠席?」真白が言葉を漏らす。声の端には小さな震えが忍んでいた。ことはは名前を言わずに周囲を見回す。誰もが目を伏せたり、視線を外したりする。やがて舞優が小さな声で名前を呟いた。
「佐藤さん…」
その瞬間、屋上の空気が凍り付いた。佐藤愛子――教室では目立たない、どちらかと言えば地味でいるタイプの少女だ。普段から前に出ることは少なく、ことはも深い付き合いがあったわけではなかった。それでも、名前が発されると胸が締め付けられるような感覚が走る。誰かが欠けるということの重さは、仲の深さとは無関係に瞬時に伝播する。
「昨日、授業後に彼女の机の上に教科書が…ないって誰か見てなかった?」ことはは平静を装って問いかける。美架が首を小さく振り、舞優は両手で口元を覆った。大山はあらためて記録を取り出し、担任の佐久間にも確認した。
「保健室からは連絡が来ている。ただし、連絡先は本人の家族にしかつながっていない。確認はこれからになるって」佐久間先生が黒板の前で説明する。先生の顔は普段より疲れて見えた。ことはは先生の肩に一瞬だけ手を置く。教師の優しさと無力さが同時に見える瞬間だった。
午後の授業は、誰もが集中できないまま流れていった。黒板の文字がいつもよりぼやけ、教室の時計の針だけが無慈悲に時間を刻む。放課後になっても、ただちに解決する気配はない。ことはは自分のカバンを手に取り、机の上をもう一度確認した。隣の席、そこには折りたたまれたままのあのメモ用紙がまだあった。「もうすぐ」。ことははそれを握りしめ、指先に冷たさを感じた。
ことははまず、クラスメイトの何人かに直接聞き取りを始めた。真白には昨日の帰り道で会ったかどうか。飯田には放課後、その子が誰かと口論しているのを見たか。五十嵐には放課後どこへ行ったかの行動を正直に話すよう促した。誰もが自分の記憶を辿り、口をすぼめる。小さな破片が集まっても、全体像は見えない。だがその断片の縁には、確かなひずみが生まれていた。
夜、ことはは家で綴るように今日の出来事をノートに書き付けた。佐藤の欠席、教室に残された物、そして「もうすぐ」――ひとつずつ線で結ぼうとする。しかし線はぐにゃりと曲がり、繋がらない。ことははその不整合に歯がゆさを感じながらも、少しだけ安心する自分を見つける。問題を分割して考えることが、彼女にとっては唯一の救いだ。整理し、分類し、そして行動を起こす。リーダーとしての矜持が、静かに燃え上がる。
翌朝、事態は一段と深刻になっていた。保護者からの問い合わせが学校に相次ぎ、地域の掲示板には「欠席の理由を知らないか」という匿名の投稿すら見られた。村田咲希のおにぎり屋に立ち寄った人から「佐藤さんは見かけなかったか」と尋ねられるなど、噂は街へも広がっている。町田和子の店の前で子どもたちがささやき合う光景は、その町の平穏がゆっくりと剥がれていく証のようだった。
ことはは昼休みに、綾川兄妹の名前を聞いた。綾川瑠衣と綾川瑠璃――外部から呼ばれた探偵だという。学校側が保護者の不安を収めるために連絡したらしい。ことははその情報に複雑な気持ちを抱いた。外の視点が入ることは、真実を早く引き出す可能性を持つが、同時に集団の監視という新たな圧力を生む。
「探偵なんて、ドラマみたいだね」五十嵐が半笑いで言うが、その瞳は好奇と不安で揺れていた。ことはは眉を寄せた。誰かが観察していると思うと、人の行動は必ず変わる。嘘は鋭くなるし、隠し事は工夫される。ことはは仲間たちの顔をひとりずつ眺めながら、自分の胸に再び決意を固めた。外部の手が入る前に、自分たちでできることを集めよう。記憶、時間、些細な行動――それらを手繰り寄せて、何かを編み上げるんだ。
放課後、佐久間先生と数名の保護者代表が集うなかで、綾川兄妹が校門を入ってきた。瑠衣は淡々とした佇まいで書類を片手に持ち、瑠璃は観察するように周囲を見回している。彼らの存在は静かに教室の空気を変えた。生徒たちは囁き合い、教員は手続きを進める。綾川兄妹は、生徒たちに向けていくつかの質問を投げたが、その問いかけは従来の「事情聴取」とは違い、観察を促すような柔らかさを帯びていた。
「今日は、普段どおりでいてください。変なことをしないでください――それが、いま最も大切な情報になります」瑠衣の声は冷静に響いた。ことははその言葉に小さく頷いた。変わらないことは、この場では勇気のいる行為なのだ。
しかし、変わらないことが一夜にして変貌するのもまた人間の常である。グループチャットには噂や憶測が流れ、誰かが「見た」という断片的な情報を投稿すれば、たちまち会話は膨らみ、疑心は波紋のように広がる。ことはは携帯の画面を見て、胸の奥がざわつくのを感じた。噂は真実に寄せつく砂のように、事実を覆い隠す。
夜、ことはは自分のベッドで天井を見つめながら、ふと考えた。欠席は本当に体調不良なのか。もし違うなら、誰が何のために――。答えはまだない。だがことはは知っている。出発点はいつも小さな穴だ。放たれた言葉、忘れ物、見逃した視線。それらの穴がやがて巨大な空洞を作り、吸い込むように人々を変えていく。
ことははノートを開き、今日の確認事項を淡々と書き留めた。佐藤愛子の家の連絡先、最後に見られた時間、彼女の普段の行動パターン、そして教室に残された紙片のこと。ページの隅に、小さく付箋を貼るようにメモを書き添えた――「綾川兄妹に状況を詳述する」「グループチャットのログを保存する」「花北の昨日の行動を確認」。計画的に動くことが、ことはにとっては心の救いだった。
夜遅く、ことはのスマホが震えた。画面に表示されたのは大山からの短いメッセージだった。「家の人と連絡ついた。明日、詳しく話そう」。ことはは深く息を吐いた。希望のような一文だが、同時にそれがさらなる謎の序章であることも直感が告げていた。眠気が薄くなり、気づけばことはは窓辺に座り、外の街灯の淡い光を見つめていた。桜の葉が夜風に揺れる。その揺れが、遠い足音のように聞こえた。
ことはは立ち上がると、ノートを枕元に置き、もう一度だけその日の出来事を頭の中で整理した。欠席、噂、探偵の到着、そして残された短い言葉。ことはは自分の胸に小さな誓いを繰り返した――誰が何を知っているか、誰が何を隠しているか、必ず見つけ出すと。だが彼女はまだ知らない。次に動くのは誰か、そしてそれがどれほどこのクラスの体温を冷たくするかを。
夜が更け、街の灯りが一つ、また一つと消えていく。教室のドアの向こうで、誰かの存在が静かに揺れている。ことははその揺らぎを、じっと見つめた。消失の衝撃は、小さな欠席票のように紙切れで始まったのだと、このときはまだ誰も気づいていなかった。