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第1話:境界線の微睡
チョークが黒板に文字が刻まれる、カツカツとした音が響く。
数学の教師が黒板に書き連ねる難解な数式。
それは俺にとって、意識を心地よく微睡(まどろみ)へと誘う、抗いがたい子守歌のようなものだった。
「あ~……やっと終わった……」
終業のチャイムと共に、俺は机に突っ伏した。
斜め向かいの席から友人Aが「そんな情けない顔してたらモテないぞ」なんて軽口を叩いてくるけれど、今の俺には言い返す気力すら残っちゃいない。
数日前、俺は「見てはいけないもの」を見てしまった。
路地の奥、街灯の届かない暗闇の中で。
会社帰りの男に纏わり付いていた、意思を持つ**「黒い靄(もや)」**。
あれが幻覚か、それとも現実か。
正解を出せないまま、俺は本能的な恐怖に負けて、男を見捨てて逃げ出した。
それ以来、俺――日向 凪(ひなた なぎ)の夜からは、平穏な眠りが消え去った。
まともに眠れないまま数日が過ぎた、ある日の放課後。
頭に霞(かすみ)がかかったような気分のまま街を歩いていた俺は、吸い寄せられるように一本の路地へと足を踏み入れた。
都会の喧騒が嘘のように遠のき、時間が止まったような場所。
そこに、その店はあった。
喫茶店『微睡(まどろみ)』。
古びたドアを開けると、カランと控えめな鈴の音が響く。
客は、俺の他に一人だけ。
カウンターの隅で、黒髪を短く切り揃えた少女が、場違いなほど美しい横顔で座っていた。
彼女は、湯気の立つコーヒーに、山のような砂糖とミルクを注ぎ込んでいる。
あまりに奇妙なその光景と、彼女が纏う「透き通った黒い気配」に、俺は目を逸らすことすら忘れて立ち尽くした。
不意に、彼女が席を立つ。
カツ、カツ、と静かな靴音が近づき、俺のすぐそばで止まった。
「……あなた」
低く、けれど透き通った声。
俺はびくりと肩を揺らし、おそるおそる顔を上げる。
至近距離で見つめてくる彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど深い闇を湛えていた。
「ひっ、はいっ……!」
裏返った俺の声など気にする様子もなく、彼女は俺の首筋を射抜くような目で見つめ、小さく唇を動かした。
「最近、よく眠れていないでしょう。……逃げても、無駄なのに」
心臓を冷たい手で掴まれたような気がした。
数日前のあの夜を、彼女は見透かしている。
「運命は選択で決まる。……次に会う時、あなたが何を選ぶか、少しだけ興味があるわ」
彼女はそれだけ言い残すと、コーヒーの甘い残り香だけを置いて、夜の闇へと消えていった。
バクバクとうるさい鼓動が、静まり返った店内に響く。
これが、俺の日常が完全に終わりを告げる、最初の予感だった。
――翌日。
教室のドアが開くと同時に、担任が新しい転校生を呼び入れる。
「メアリ・モンローです。よろしく」
そこに立っていたのは、昨日『微睡』で俺の運命を予言した、あの少女だった。
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