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第2話:断絶への招待状
――昨日の出来事は、質の悪い白昼夢だったのではないか。
そう自分に言い聞かせながら、俺、日向凪(ひむかい なぎ)は教室の隅で息を潜めていた。
日向の視界には、相変わらず「黒い靄(もや)」が映っている。
クラスメイトの背後に、教室の入り口に、澱(おり)のように溜まったそれは、時折不気味に脈動して日向を怯えさせる。
この「見てはいけないもの」が見えてしまう日常。
それを誰にも悟られず、ただ平穏に、透明人間のようにやり過ごすこと。
それが日向の唯一の生存戦略だった。
だが、その願いは一瞬で、残酷なまでに粉砕される。
「凪さん……だったわよね? ちょっと話があるから、後で屋上に来てくれる?」
教室の喧騒が、水を打ったように静まり返った。
クラス中の視線が、針のように日向の全身を突き刺す。
声の主は、メアリ・モンロー。
今朝転校してきたばかりの、誰もが息を呑むような美少女だ。
質問攻めにしていたクラスメイトたちを軽くあしらい、迷いのない足取りで日向の席の前に立った彼女は、凛とした微笑みを浮かべていた。
「え……俺、……あ、うん」
絞り出したような日向の返答に、男子の嫉妬と女子の好奇心が混ざり合い、教室の熱量が異常に跳ね上がる。
それと同時に、日向の周りの「影」が、不気味に色を濃くした気がした。
◇
放課後の屋上。フェンスを吹き抜ける風が、日向の冷や汗をさらっていく。
待ち構えていたメアリは、穏やかな湖面のようでいて、逃げ場を許さない強い意志を秘めた眼差しで日向を射抜いた。
「貴方には見えてるんでしょう……? 人間から生まれる黒い靄(もや)が」
彼女の唇から溢れたのは、日向が一生誰にも言わずに墓まで持っていくはずだった秘密だった。
「それはやがて一つに寄り集まって形を成すわ。私達はそれを『影』と呼んでいるの」
彼女は淡々と告げる。
影は負の感情を餌に寄生し、宿主の精神を食い破る「精神の癌」であること。
そして、放置すれば命に関わる破滅をもたらすということを。
「影……。それが、あいつらの正体か」
「そうよ。そして……それを正せるのは、私達『調律者(チューナー)』だけ」
メアリはそれだけ言い残し、優等生らしい微笑みを浮かべて去っていった。
「放課後、貴方が一番落ち着ける場所で待っているわ」という言葉を、日向の心臓に深く突き刺したまま。
◇
メアリの言葉がトリガーになったのか、周囲の「黒い靄(もや)」は目に見えて活性化していった。
クラスメイトの笑い声さえも不協和音のように聞こえ、日向は逃げるように、校舎の隅にある旧校舎の美術室へと駆け込んだ。
そこは日向にとって、唯一「影」が薄い、心の平穏を保てるはずの聖域だった。
だが、扉を開けた瞬間に悟った。
日向の平穏は、もうどこにも存在しないのだと。
暗い室内には、ドロリとした濃密な気配が充満していた。
影は幼体として実体化し、床を這い回っている。
声にならない悲鳴が喉を焼く。
逃げ出そうとした日向の背中に、冷たく、けれど柔らかな気配が触れた。
「凪……。よく聞いて。運命はね……自分で掴み取る物なのよ」
振り返ると、夕日を撥ね付け、冷徹な光を宿した瞳のメアリが立っていた。
彼女は日向の困惑を置き去りにしたまま、細い右手を虚空へと伸ばす。
何もない空間の「取っ手」を掴むかのように、彼女の指先が強く握り込まれた。
――ギギィ、ッ。
世界が悲鳴を上げた。
次元干渉による空間の軋みが、黒い稲妻となって視界を焼き切る。
光が収まったとき、彼女の手には巨大な漆黒の大鎌――『ディスティニー・サイス』が握られていた。
「見ていなさい。これが――調律(チューン)よ」
影の幼体が霧のように逃走を図るが、メアリの瞳は既にその軌道を見切っていた。
「逃がさない」
彼女の体が独楽のように鋭く回転する。
巨大な刃が、驚くほど滑らかに、正確に空間を切り裂いた。
鎌を引き抜くと、影は抵抗する間もなく霧散する。
それは「殺害」というより、不適切な音を消し去るような、冷徹で完璧な所作だった。
影が消え去り、シンとした美術室。
立ち尽くす日向を振り返ったメアリの表情は、夕暮れの日差しの中でどこか寂しげだった。
艶やかな唇が、ゆっくりと開く。
「日向凪……。貴方はもう、『運命』から逃げられないわ」
大鎌を再び次元の狭間へと還しながら、彼女は残酷なほど美しく微笑んだ。
「ようこそ。……こちら側へ」
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