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M_Yuzu
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阿部が突然泣き出した、あの日から二週間。
岩本は想いを告げるどころか、まともに会話すらできずにいた。
とにかく、阿部が彼を避けるのである。
あの翌日、阿部は一見いつも通りだった。
楽屋では普段と変わらずメンバーと話し、収録が始まればいつもの笑顔を見せていた。前日の涙が嘘だったかのように、完璧な阿部亮平を演じていた。
だから仕事終わり、岩本は思い切って食事に誘った。
何があったのか、二人でゆっくり話せればと思ったのだ。
けれど阿部は一瞬だけ息を詰めると、怖いほど凝り固まった笑顔を浮かべた。
「ごめん。今日は無理」
「じゃあ、明日は?」
「しばらく忙しいから」
取り付く島もないほど、きっぱりとした口調だった。
これまでなら、都合が悪くても別の日を提案してくれた。あるいは「何食べる?」と、嬉しそうに食いついてきたはずだ。
それなのに今は、一歩でも踏み込めば拒絶されそうな空気をまとっている。
今までとのあまりの違いに、岩本はその場で立ち尽くした。
それからも状況は変わらなかった。
話しかければ返事はする。目が合えば笑いもする。
けれどそれだけだ。
会話は必要最低限で終わり、岩本が近づけば、阿部はそれとなくほかのメンバーのそばへ移動する。二人きりになりそうな気配を察すると、何かしら理由をつけていなくなった。
まるで見えない壁を作られたようだった。
何をしても暖簾に腕押し。
二週間もそんな態度を取られ続け、岩本の心はすっかり折れかけていた。
「俺、どうしたらいい……」
居酒屋の個室で、岩本はテーブルに突っ伏した。
大きな身体をこれでもかと縮こまらせ、力なく弱音を吐く。
「いやあ、俺も分からん」
向かいに座る深澤も、困惑した様子でジョッキを傾けた。
傍から見ても、阿部が意図的に岩本と距離を取っているのは明らかだった。
けれど――。
「……でも阿部ちゃん、無理してる気もするんだよな」
「無理?」
「お前の誘い断る時の顔。見ただろ?」
深澤は、あの不自然な笑顔を思い出す。
いつもの華やかなアイドルスマイルではない。胸の内を悟られまいと、必死に感情を覆い隠すための仮面だった。
「絶対、本心じゃないと思う」
「……俺が告白しようとしてんのに気づいて、気持ち悪がられたとか」
岩本は伏せたまま、消え入りそうな声で呟いた。
二週間かけて悪い想像を育て続けた結果、思考が完全に後ろ向きになっている。
「それはないだろ」
深澤は即座に否定した。
もし本当に岩本が告白しようとしていると分かったなら、阿部はきっと喜ぶ。少なくとも、こんなふうに怯えたように逃げ回ったりはしないはずだ。
「何で、そんなこと分かるんだよ……」
岩本がわずかに顔を上げる。
「うん。いや、まあ……勘?」
深澤は曖昧に笑い、ジョッキへ口をつけた。
阿部の気持ちを本人の許可なく教えるのは違う気がする。何より、「俺は前から気づいてたけど」などと言えば、岩本にマウントを取っているようで格好が悪い。
ついでに言えば、二人がいつ気づくのか見守るのも面白かった。
とはいえ、さすがに今の状況を放っておくのはまずい。このままでは、両想いのくせに勝手に傷つき合って、修復できないところまで拗らせかねない。
深澤はジョッキを置くと、ひとつ息を吐いた。
「分かった。二人きりで話せるように、俺が何とかするわ」
「ふっか……」
「任せろ」
ようやく顔を上げた岩本に、深澤は自信たっぷりに笑ってみせた。
居酒屋での話し合いから、数日後。
岩本は深澤に「ここにいろ」とだけ言われ、小さな会議室で一人待っていた。
白い壁に囲まれた室内には、長机と椅子、それに古いプロジェクターが置かれている。奥の机には、誰かのものらしい鞄と上着が無造作に置かれていた。
本当にここにいていいのだろうか。
何の説明もないまま、かれこれ二十分は待たされている。
じっと座っていられなくなった岩本は、狭い室内を何度も往復した。時計を見上げては息を吐き、スマートフォンを確認してはポケットへ戻す。
もしかして、忘れられているのではないか。
そう思い始めた時、突然ドアが開いた。
入ってきたのは、阿部だった。
阿部は中に人がいるとは思っていなかったらしい。岩本の姿を認めた途端、ドアノブに手をかけたまま固まった。
岩本も足を止める。
視線がぶつかり、気まずい沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは阿部だった。
「あの……荷物……」
おずおずと、奥の机を指さす。
そこで岩本はようやく理解した。
あの鞄と上着は阿部のものだ。
深澤が勝手に荷物をこの部屋へ移し、阿部に取りに来させたのだろう。
――いや、雑すぎるだろ!
心の中で、深澤に盛大なクレームをつける。
確かに二人きりにはなれた。
しかし何も知らされずにやって来た阿部は、見るからに戸惑っている。そんな相手を前に、何をどう切り出せというのか。
「えっと……俺、出直すね」
沈黙に耐えきれなくなったのか、阿部が目を逸らした。
ドアを閉めることなく、そのまま部屋を出ていこうとする。
岩本はハッと我に返った。
深澤の策は間違いなく雑だ。雑だが、今を逃せば、もう二度と阿部と二人きりで話せないかもしれない。
「阿部!」
思わず大きな声が出た。
阿部の肩がびくりと跳ねる。
「ちょ、待って」
岩本は慌てて歩み寄り、細い腕を掴んだ。
振り向いた阿部の目が驚きに見開かれる。その顔を見て、咄嗟に掴んだ手の力を緩めた。
「ごめん。でも……話がしたい」
「話……?」
阿部は訝しげに眉を寄せた。
けれど、振り払おうとはしなかった。
岩本はそっと腕を離し、逃げ道を塞がないよう一歩下がる。
「何?」
静かに促され、岩本は言葉に詰まった。
言わなければと思うのに、頭の中が真っ白になる。喉はからからに渇き、心臓が肋骨を突き破りそうな勢いで鳴っている。
今まで何度も頭の中で練習した。
けれど、用意してきたはずの言葉は、阿部を前にした途端ひとつ残らず消えてしまった。
「……ひかる?」
不安そうに名前を呼ばれる。
その声に背中を押されるように、岩本は震える息を吸った。
「俺……っ」
何とか声を絞り出す。
阿部の顔を見ていられず、俯いた。床に落とした視線の先で、自分の拳が固く握られている。
「あ……阿部のことが……」
喉が詰まる。
それでも、ここで止めるわけにはいかなかった。
「す……好き、です……」
蚊の鳴くような声だった。
自分でも情けなくなるほど頼りない告白だったが、確かに口にした。
顔から火が出るとは、きっとこういうことをいうのだろう。耳まで熱くなり、今すぐこの部屋から逃げ出したくなる。
長い沈黙のあと、阿部が掠れた声を漏らした。
「あの……それって、どういう……」
動揺しているのか、声がわずかに上擦っている。
「その……恋愛感情として」
岩本は俯いたまま、途切れ途切れに続けた。
「阿部のことが、好きって……こと、です」
言い切った途端、部屋の静けさが急に重くなった。
阿部は何も言わない。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いている。
やはり迷惑だったのだろうか。
怖くなりながら、岩本は恐る恐る顔を上げた。
呆然と立ち尽くす阿部と目が合う。
「……本当に?」
阿部がぽつりと呟いた。
信じられないものを見るような目だった。
「うん」
岩本が頷いた、その瞬間。
阿部の瞳がみるみる潤んだ。
「え……」
大粒の涙がひとつ、白い頬を伝う。
それを合図にしたように、次から次へと涙が溢れ出した。
「え、な、何で泣く……」
岩本は狼狽えた。
拒絶される覚悟はしていた。困らせることも、怒らせることも考えた。
けれど、泣かれることだけは想像していなかった。
「阿部……」
どうしていいか分からないまま、そっと肩に触れる。
すると阿部が、涙に濡れた顔を上げた。
「お、れも……っ、好き」
「……え?」
「俺も、ひかるが好き……っ」
嗚咽で息を詰まらせながら、阿部は必死に言葉を繋ぐ。
「ずっと前から……ひかるのこと、ずっと……大好き……っ」
何年も胸の奥に閉じ込めていた想いが、涙と一緒に零れ落ちていく。
「だから……うれしい……」
阿部は泣きながら笑った。
二週間前に見た、壊れそうな笑顔とはまるで違う。涙でぐしゃぐしゃなのに、どこまでも幸せそうな笑顔だった。
その言葉を理解するまでに、岩本は数秒かかった。
阿部も、自分を好きだった。
ずっと前から。
全身を張り詰めさせていた力が、一気に抜けていく。
安堵なのか、喜びなのか、それともこれまでの不安が解けた反動なのか、自分でも分からない。ただ胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
岩本は阿部の腕を引き、その薄い身体を抱き締めた。
「ひかる……」
胸元で、小さく名前を呼ばれる。
その声だけで、自分まで泣いてしまいそうになった。
岩本が抱き締める腕に力を込めると、阿部もおずおずと背中へ腕を回した。
やがて、縋るようにシャツを掴む。
背中に回された腕の確かな温もり。
胸元から伝わってくる震え。
すぐそばで聞こえる、阿部の息遣い。
そのすべてが、これは夢ではないのだと教えてくれる。
今まで感じたことのないほどの幸福感が、静かに身体中へ満ちていった。
数年越しに、ようやく届いた恋だった。
この温もりを、もう二度と手放したくない。
岩本はそう思いながら、腕の中の阿部をいっそう強く抱き締めた。
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