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この物語は、キャラクターの死、心の揺れ、流血表現含む場合があります。
曇り空の下、俺とイロハは、古びたバス停のベンチに並んで座っていた。
コンクリートの床には、ところどころ雨の染みができ始めている。雲の間を縫って吹く風が、どこか湿っぽい。
今日、俺たちは隣町に行っていた。
イロハが突然「因果が乱れている」と呟いたのが、始まりだった。
向かった先では、迷子になった子どもがひとり、泣きながら母親を探していた。
その子の背後には、じっと寄り添うような影――虚霊が、もうすぐで取り憑こうとしていた。
イロハはそれを静かに祓い、俺は母親を探して駆け回った。
無事に再会を果たした親子は、手をぎゅっと繋いで、何度も、何度も頭を下げてくれた。
『――ありがとう!お姉さん!お兄さん!』
あの子の声が、今でも耳の奥に残っている。
ほんの少しだけ、横顔がミヨに似ていた気がした。
「……雨、降りそうだな」
ふと空を見上げて、俺は隣に座るイロハに声をかけた。
「そうですね」
イロハは、まるで空の色を映したような瞳で雲を見ている。
……会話、終わった。
俺はちょっとだけ肩をすくめる。まぁ、予想はしてた。
でも、なんとかして沈黙を壊したい。せっかく、こんな風に並んで座ってるのに。
「……雨、嫌い?」
「雨は、嫌いではないです。」
「へぇ、なんか意外。雨って濡れるし、冷たいし、けっこう嫌がる人も多いと思ってた」
「濡れるのは困りますが……でも、雨の匂いは、どこか懐かしいんです」
イロハは小さく言って、ほんのわずかに目を細めた。
懐かしい――その言葉の意味を、俺は深く聞くことができなかった。
でも、なんとなく、それ以上は踏み込まない方がいいような気がして。
「……俺は雨の日、ミヨと一緒にカーテンの隙間から外見てたな。
“雲の上は晴れてるのかな”とか、わけわかんないこと言ってさ。
でも、あいつがそう言うと、なんか……本当な気がして」
イロハは小さく頷いた。
「きっと、本当ですよ。空の上にあるものは……いつでも、晴れているのかもしれません」
それは慰めでも希望でもなく、ただ静かな肯定だった。
けれど、不思議とその言葉が、俺の胸の奥に染みこんだ。
そうしているうちに、バスがやってきた。
古い塗装、きしむような音を立てて止まるバス。
「行きましょう。」
でも、曇り空のはずなのに、そのバスは、何故か奇妙に明るい気がした。
俺はイロハの分の運賃も払って、車内を見渡した。
車内は、がらんとしていた。乗客は数人。窓には結露、座席の布地も少し色褪せている。
俺とイロハは、一番後ろの席に並んで座った。
ポツ、ポツポツ、ポツ。
バスの天井から雨音が響く。
「雨、酷くなってきたな」
「ええ。」
そんな気まずい会話をしたあと、バスは走り出した。
「……ねぇ、イロハさん。」
俺はまた、イロハに話しかけてみた。
イロハは、俺の方にゆっくり顔を向ける。
「なんでしょうか。」
「……イロハさんって、好きな物とかないの?」
イロハは目を逸らして、しばし沈黙する。頭の中で言葉を探しているみたいに。
「……静かな時間。でしょうか。」
「……あははっ、イロハさんらしいや。」
俺は何故か、笑い声を漏らした。面白い訳でもない、ただ、予想内の答えだったから。
「……ほか、嫌いなものとか。」
「……嫌い、は……炎です。」
炎。熱くて、明るくて、バチバチと音を立てる。時に人命を奪うもの。イロハが嫌いだっていうのも、なんとなく想像はできる。
「……炎、か。炎の何が嫌いなんだ?」
「……分かりません。」
「……え?」
イロハは目を伏せる。
「分かりません。ただ、寂しいです。」
「寂しい……か。そんなこと言うんだな。」
ほんの少しだけ、イロハの過去が垣間見えた。
一体この子はどんな人生を歩んできたんだろう。
「……では、あなたは何が好きなのですか?」
「え?俺?」
「はい。」
驚いた。まさかイロハの方から話題を振ってくるなんて。
「好きな……俺が好きなのは、犬。」
「犬……ですか。あのしっぽを振って、威嚇をする生き物ですね。」
え?なんか違うような?
イロハがあまりに真顔で言うもんだから、最初は自分を疑った。でも、犬って、喜んでるからしっぽを振る生き物だ。
「いや、逆。しっぽ振ってる時、犬って喜んでるんだよ?」
「そうなのですね。初めて知りました。」
「……マジか。」
いや、犬がしっぽ振ってる時って、喜んでるってこと。みんな知ってるような気がするんだけどな。
その時、車内にアナウンスが響く。
「次は……て……し……ませ……ん……」
「え?なんて言った?」
アナウンスの声は途切れ途切れで、何を言っているのかさっぱりだった。
照明が、少しちらつき始める。
「ん……?」
おかしい……
普通少しは反応しても良さそうなのに、他の乗客は何も反応しないどころか、何かボソボソと呟いている。
ふと、バスの電子時計を見ると、時間が’’四時四十四分’’から、止まっていた。めっちゃ不吉な数字。
「……イロハさん、このバスおかしくない?」
「……ええ、この車内、奇妙です」
「奇妙って……例えば?」
「“音”が、違う」
そう言って、イロハはゆっくりと立ち上がる。
その顔が、ふいに強張った。
「降りましょう。今、すぐに」
「え、でもまだ次の停留所……」
「今すぐ止めてもらいましょう。早くしないと、乗客も、私達も、戻れなくなってしまいます 。」
「何言ってーー。」
言いかけた俺の言葉が、途中で止まった。
気づいた。
窓の外の風景が――“繰り返されている”。
同じコンビニ、同じ看板、同じ曲がり角。
まるで、ぐるぐると、同じ街区を延々と走り続けているみたいに。
「……バスでは、ないのです。」
イロハがそう呟いた瞬間、車内の空気が“濁った”。
その時、車内にまた、アナウンスが響く。
「このバスは、“日常”を通過します。ご注意ください──」
今度は、 はっきり聞こえた。でも、日常を通過……って、おかしい。このバス、イロハの言う通り、降りるべきなのか?
すると、乗客のひとりが、ぼそりと呻く。
「……帰れない……もう、帰れないんだよ……!」
目が虚ろだ。口から黒い霧が漏れ出し、座席の影が蠢いている。
これは……。
虚霊だった。
車内のあちこちに、乗客の絶望を喰らうように、虚霊が潜んでいる。
「ここは“移動のふりをした停滞”――虚霊に呑まれた空間です」
「え!?」
おいおい……虚霊ってこんな空間にまで取り憑くのかよ!
イロハが剣を抜いた。
狭い車内に、静かな緊張が走る。
「くそっ……!」
俺も思わず立ち上がるが、イロハが手で俺が動くのを制する。
あなたに何もできることはない。そんな風に言われたような気がした。
イロハがひとり、ゆっくりと前へ歩いていく。
そんな後ろ姿を見ているだけの自分が、なんだか馬鹿らしく思える。
俺だって……なにか役に立つことくらいは……。
車内は、だんだんと“黒”に染まり始める。 虚霊たちは呻き、叫び、泣きながらしがみついてくる。
「“置き去り”にされた心が、このバスを形づくっています。 『大人になるのが嫌』なのに。いつかは大人にならなければならない。
『後悔』、もう戻れない――その執着が、路線を狂わせている」
イロハの声は静かで、それでいてどこまでも真っ直ぐだった。
「……今、救い出さなければ。’’静寂’’で。」
その瞬間、イロハが動き出すと同時に、虚霊もイロハに急接近する。
「イロハさん!」
そう俺は叫んだ。
イロハは冷静に、剣を振るった。
「月煌、一閃。」
イロハがそう呟いた瞬間、空間が悲鳴をあげる。虚霊は断たれ、サラサラと消えてゆく。
でも、まだ終わらない。虚霊はまだ車内にいる。
「……嫌……大人になんてなりたくない……怖い……怖いの……!」
バスの座席に座る女子高生が、そう呟いていた。
イロハはゆっくり女子高生に近づく。
カツン、カツン、と静かな足音を立てながら。
「大人になりたくない。そうですね。成長するのは、怖いです。ですがーー」
イロハは一度言葉を止めて、女子高生に取り憑いている虚霊を断ち切った。
虚霊は空間から溶けるように消えてゆく。
「……成長しなければならないのです。怖くても、その先に何が待っていようとも。……大人は、子供と変わりはありません。ただ、周りに合わせて気を使わないといけなくなる。しんどい……ですよね。」
そのイロハの言葉は、淡々と、でも優しいかった。 この世の全ての痛みを理解しているようで。
「未来を恐れて、立ち止まってしまえば、あなたはずっと、動けないままです。悲しいことに、この世界は止まることを赦してはくれないのです。」
「……あなた、誰なの?」
女子高生が尋ねると、イロハの口がほんの少しだけ、緩んだ気がした。
「……ただの、’’託された者’’。です。」
イロハはそれだけ言って、バスの中を見渡す。
その時俺は、イロハがさっき言っていた言葉を思い出す。
’’立ち止まってしまえば、あなたはずっと、動けないままです。悲しいことに、この世界は止まることを赦してはくれないのですーー。’’
「……俺も、立ち止まったまま……なんだよな。」
俺はそう呟いた。俺も、まだ大切な人を失った後悔という感情から、ちゃんと抜け出せてない。
よく夢に出てくる。ミヨが消える寸前の、優しい笑顔をうかべる姿が。
ーー『お兄ちゃん、わたし、言いたいことがあるの。』
最後の、ミヨのあの笑顔と、言いたいことって、なんだったんだろう。
「……あの。」
俺はその声で我に返った。イロハが俺の方をじっと見ている。
「……ごめん、なに?」
「立ち止まっては、ダメです。あなたには、残された’’今’’がある」
「……わかってるよ」
いや、本当は全然わかってないかもしれない。
分かってないから、まだ落ち込んだままなんだ。
イロハは俺を3秒くらいじーっと見つめたあと、視線を一人の男に向けた。
スーツ姿の男、年は多分40代。
その男もまた、虚霊に囚われていて、目は虚ろ。 その虚ろな目からは大粒の涙が溢れ出てくる。
ずっとずっと、「俺の努力は無駄だった」と呟いている。
「……もう、もう、俺は……」
イロハは虚霊に囚われた男の前に立ち、そっと声をかける。
「あなたの努力は、無駄ではありません。きっといつか、あなたのことを……」
その瞬間、男の目がかっと見開かれた。
「……いつか? いつだよ、それは。
そんな綺麗事で……お前に、俺の何がわかるってんだ!!」
怒鳴り声と同時に、彼はイロハの胸ぐらを掴んだ。
「……っ!」
バスの照明が明滅し、影が揺れる。イロハの剣に手がかかるより先に、俺は反射的に走り出していた。
「やめろ!!」
何か……何かないか。武器なんて持ってない。剣もない!
だけど、ポケットに――
手探りで掴んだスマホ。
「……くそっ、当たってくれ!」
思いきり振りかぶって、投げた。
重い鈍い音がして、スマホが男のこめかみに直撃した。
「ぐっ……!」
力が抜けたように男の手が離れる。
「……?」
「何ボーッとしてんだよ! 早く、虚霊を!」
イロハは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を引き締め、男の背後に漂う虚霊を斬り払った。
しゅう、と音を立てて黒い影が霧散する。
「……あれ……? ここ、は……?」
正気に戻った男はきょろきょろと周囲を見渡し、震える手で顔を覆った。
「あなたは、まだ終わっていません。 ……生きて、ください」
俺はため息をつく。
「はぁ……。危ねぇ……。スマホ壊れてないよな……?」
「すまほ、とはなんですか?」
俺は床に落ちたスマホを拾い上げながら答えた。
「遠くの人と連絡できたり、分からないことを検索できたり……色んなことができるよ。」
「……なるほど。」
うん、絶対何も分かってない顔。この子スマホも知らねぇのか……。一体……何だったら知ってるんだよ……。
俺はスマホの画面を触る。画面には大きなヒビが入っている、けれど嬉しいことに、ちゃんと動く。
「良かったぁ……俺のスマホぶっ壊れたかと思った……。」
「……よかったですね。」
イロハがかすかに口角を上げる。
平和な空気が流れる。乗客も助けられた。でもほっとしたのはほんの少しだけ。
まだ運転手が、虚霊に囚われたままだ。
イロハは運転席の方に目を向けて、剣を抜く準備をする。
「……運転手さんも、助けないと。」
そう言って足を動かした時ーー。
車内が、大きく揺れた。崩れるように、地震でも起きたみたいに。大きな音を立てながら。
車内で立っていた俺とイロハも、揺れに耐えられずに尻もちを着く。
「いてっ……何が起きた……?」
「っ……!」
バスはそんな揺れもお構い無しに、どんどんスピードが上昇してゆく。
何が、何が起きてるんだ!?
イロハは急ぐように立ち上がって、運転席に向かう。
「この運転手に取り憑いている虚霊、このまま衝突して私たちを殺す気です。」
「はぁ!?」
遠くから運転席の様子を覗いてみた。そこには、ハンドルにうなだれる、気を失っている運転手。
そして、運転手の代わりというのも嫌だけど、虚霊が、運転をしている。
イロハは剣を抜いて、虚霊に向かって剣を振るった。だが虚霊は軽々と攻撃を避ける。そして、奇妙な笑い声を上げる。
うるさくて、耳がキーンとなるような、そんな笑い声。
そして虚霊はうねり、今度はイロハに取り憑こうとする。
「イロハさん!!」
「……。」
イロハは剣で受け止める。俺の声に反応もしない。顔は涼し気だけど、本当は少し焦ってる。だって、手が、ほんの少しだけ震えてる。
「っ、どうしたら!!」
その時バスは、また揺れる。
「きゃあ!」
「うおぉ!」
「みなさん掴まって!じゃないと、怪我する!!」
俺は乗客に叫ぶ。何かを持っていないと最悪の場合、頭を打って大怪我だ。
でもそれより……イロハがやばい。
そのとき。
イロハは後ろを振り返り、言い放つ。
「……バスの動きを、止めてください」
「はぁ!?」
「このままだと、私……この虚霊を斬ることも、乗客の命も、守れません。 」
「ちょ、ちょっと待てよ!? 止めるって、俺運転なんか……!」
「できます。あなたなら、きっと……。」
イロハの目は真剣だった。信じている、というよりも――託している。
俺はぎゅっと拳を握った。
「……くそっ……もう、やるしかねぇじゃんか!!」
俺は運転手を押しのけて、運転席に飛び込む。
だが、目の前には複雑なレバーとボタン、そして二つのペダル。
「くそ……どっちがブレーキだったけ!?」
スピードはどんどん上がっていく。
後ろではイロハが虚霊の腕を斬り払いながら、苦戦している。
「落ち着け、落ち着け……! 右がアクセル、左がブレーキ……たぶん、そう……!」
俺は意を決して、左のペダルを踏み込んだ――!
――ギィイイイイッッッ!!
悲鳴のような音とともに、バスが急減速する。
俺は両手でハンドルを押さえ、必死に耐える。
車体がガタガタと揺れ、乗客たちの悲鳴が交錯する。
「きゃああああ!」
「今!イロハさん……!!」
俺はが叫ぶ。今度はイロハに託す。俺たちの命を。
「――はい。」
イロハが跳躍。
月光のごとく剣が閃き、虚霊の本体を――その心臓のような部分を、真っ二つに断ち切った。
ギャアアアアアアッ!!
断末魔とともに、虚霊が霧散する。
バスは、完全に動きを止めた。さっきまでの異質な空気も、まるでなかったかのように、消え去った。
俺は床にへたり込む。
「はぁ……終わったぁ、全部。」
「お疲れ様です。」
「ほんとだよ……てかバス止めろって……俺運転したことねぇのに。無茶だよ……。」
イロハはほほ笑みを浮かべた。
「でも、止まったじゃないですか。終わりよければすべてよし、です。」
「よくねぇよ……。」
俺はため息混じりにつぶやく。
――バスは止まった。
現実がようやく追いついてきたかのように、車内の空気がわずかに緩む。
さっきまで止まっていた時間も、現在は動いている。
「……誰か、119番を……!」
「運転手さん、大丈夫!?」
ざわつく乗客たちの中で、俺とイロハは後部座席へと歩き出す。
床にはまだ、微かに虚霊の気配が残っているようだった。
「……もう大丈夫」
イロハが呟くと、その気配も音も、すうっと霧のように消えていった。
バスのドアが手動で開けられ、外の風が入り込む。
夜の匂いが、現実へと引き戻してくれる。
イロハはふと、さっきまで虚霊に囚われていた男に目を向ける。
「……助かって、よかった」
男は混乱しながらも、頭を下げた。
その姿に、イロハはそっと目を細める。
「……なんか、なんでなんだろうな。」
「?」
「どうしてこんなに、歪むんだろうな、世界って。」
その言葉に、イロハは微笑むように応じた。
「人々の想いに、世界が応じているから、です。」
「……」
「今回だって、あなたの私を助けようとするその行動が、この空間を救い出したのです。」
「……あんなの、無茶だったけどな」
なんだか気恥ずかしくて、俺は視線をそらす。
イロハはそんな俺を見つめ、そっと言葉を重ねた。
「私は、あなたのそんなところを尊敬したいと思います。」
「え?」
「――ふふっ。」
微かに顔を逸らすイロハ。
だがその頬は、夜の冷気に染まるには少しだけ、赤すぎた。
イロハが、笑い声を出した……?そんなことあるんだな……と俺は感心した。
しばらくして、救急車と警察が到着し、乗客たちはひとりずつ降ろされていった。
当然、俺達もーー。
「君たち、バスで何があったか、覚えてますか?」
「え……えと……。」
警察の人が俺の目を見つめてくる、怖ぇ……てかどういう風に説明しよう……?
すると横からイロハが
「何も覚えていないのです。気づいた時には、警察の方と救急車が来ていて……。」
と、平然と嘘をついた。
そのあと警察の人は諦めて、俺たちを帰らせてくれた。
「なぁ、嘘ついてよかったのか?」
「ええ、むしろ嘘をつかないと、大変なことになりかねません。」
俺達がバスを降りた頃でも、まだ雨は降っていた。
イロハは空を見上げてぽつりと呟く。
「雨……ですね、普通の世界に戻ってこれた気がします。」
「……ほんと、皮肉だよな。さっきまで地獄みたいだったのに」
「にしても、寒いですね……傘も持たずに立っているからでしょうか。」
うん、そうだな。
でも、今日の天気予報では雨は降らないって言ってたのにな、傘も持ってきてないのに。どうしよう。
「……。」
俺は、俺が羽織っていた黒い上着を、イロハに被せる。
イロハの髪が、ふわっ、と揺れる。
「……?」
「被っとけよ。濡れるから。」
「でも、あなたはーー。」
「いいんだよ。濡れるくらい慣れてるし。」
そして俺は雨の降る中、走り出そうとした時。
ぎゅっ、と、冷たい手が、俺の手首を掴んだ。
「……ちょっと……」
イロハは俺の顔を覗き込んできた。上目遣い。綺麗な瞳。
「……ありがとう、ございます。また、返しに行きます。」
イロハは微笑んだ。少し、懐かしい桜の香りがした。
「……返さなくていいよ。じゃあね。」
そして俺はイロハの手を振りほどいた。なんでこんな冷たいことをしてしまったんだろう。
ただ、あの顔をずっと見ていたら、おかしくなりそうだったし……何より早く帰りたい。
俺は、バシャバシャと足音を響かせながら走り出した。
イロハは、レンの走ってゆく姿をただ見つめていた。
レンが見えなくなっても、まだそこにいるかのように、ずっと立ち止まる。
レンの上着をぎゅっ、と握りしめて、こう呟いた。
「……あたたかい。」
雨はまだ止まない。だが、イロハの心の中には、光が差し込んでいた。
第四の月夜「眠れる記憶と月ノ姫」へ続く。