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霧は、今日も濃かった。
鉄錆の匂い。
濡れた土の匂い。
そして、新しく流れた血の匂い。
FORSAKENの深い霧は、それらすべてを静かに抱き込み、まるで最初から何事もなかったかのように飲み込んでいく。
その霧の中で、一人の生存者が倒れていた。
「た、助けて……!」
泥にまみれ、腕だけで必死に地面を這う。
震える声。
荒い息。
命を繋ぎ止めようとする必死な姿。
その数歩先で。
アズールは立ち尽くしていた。
「……ぁ……。」
漆黒の指先が、小刻みに震えている。
その手には、まだ温かい血がこびりついていた。
背中から伸びる触手も、まるで自分が何をしてしまったのか理解したかのように静かに揺れている。
肉を裂いた感触。
骨へ触れた鈍い衝撃。
命が崩れ落ちる瞬間の重み。
そのすべてが、指先へ焼き付いて離れなかった。
「私が……。」
声が震える。
「私が、人を……。」
頭の中へ、昔の景色が浮かぶ。
薬草畑。
陽だまり。
傷付いた仲間へ薬を塗っていた頃の自分。
植物は人を癒やすものだった。
命を繋ぐために学んだ。
誰かを助けるために、その知識を身につけた。
なのに今。
同じ手が。
誰かの命を奪った。
「違う……。」
首を振る。
血が飛ぶ。
「こんなはずじゃ……。」
呼吸が苦しい。
胸が締め付けられる。
膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちそうになる。
その瞬間だった。
ふわり、と。
背中へ温もりが落ちる。
細く長い腕が、震える身体を静かに包み込んだ。
「……よく頑張った。」
低く、美しい声。
耳元で囁かれるだけで、張り詰めていた心が揺らぐ。
「私の可愛いアズール。」
スペクターだった。
赤いシルクハットの影から覗く微笑みは、どこまでも穏やかだった。
彼は何も急がない。
何も責めない。
ただ怯える青年を後ろから抱き寄せ、その震えを自分の胸で受け止めていた。
「見なさい。」
指先が、そっとアズールの顎を持ち上げる。
「君は何を恐れている?」
「私は……。」
涙が零れる。
「人を傷付けました……。」
#デジタルイラスト
汚染
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あめ猫@サボり魔
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ありきたりな雑炊
50
震える声。
「私は……もう、人間じゃ……。」
言葉は最後まで続かなかった。
スペクターは静かに首を横へ振る。
「違う。」
否定は優しかった。
優しすぎるほどだった。
「君は間違っていない。」
その一言だけで。
アズールの胸に渦巻いていた罪悪感が、少しだけ形を失う。
「この者たちは生き延びるためなら誰でも踏み台にする。」
スペクターは倒れている生存者へ視線を向ける。
そこに宿る感情は読み取れない。
「君を裏切った男も同じだった。」
その名前は出さない。
それでも。
アズールの胸は大きく震えた。
「愛を口にしながら。」
静かな声。
「最後は君へ刃を向けた。」
アズールは唇を噛む。
忘れられない。
胸を貫いた冷たい痛み。
最後に見た、あの瞳。
「人はそういうものだ。」
スペクターは穏やかに言う。
まるで真理を語る教師のように。
「君は今、その穢れを一つ取り除いただけ。」
耳元へ唇を寄せる。
「世界を綺麗にしたんだ。」
「世界を……。」
掠れた声が漏れる。
「綺麗に……。」
その言葉が心へ落ちる。
最初は小さく。
やがて波紋のように広がっていく。
罪ではない。
罰ではない。
これは救済。
これは浄化。
そう思えた瞬間。
胸を締め付けていた苦しみが、すっとほどけていった。
「そうだ。」
スペクターは微笑む。
「君は命を奪ったのではない。」
静かな囁き。
「命を収穫したんだ。」
収穫。
その言葉は、植物学者だったアズールの心へ深く根を下ろした。
花を摘むように。
実を収穫するように。
命もまた刈り取るもの。
その歪んだ理屈は、壊れかけた心へ驚くほど自然に入り込んでいく。
「君が収穫するたび。」
抱き締める腕へ少しだけ力が入る。
「私は誇らしい。」
その言葉だった。
アズールの肩が震える。
主人が喜んでいる。
主人が認めてくれている。
その事実だけが、心を満たしていく。
「ああ……。」
熱い涙が頬を伝う。
「あなた様……。」
ゆっくりと身体から力が抜ける。
アズールは完全に背中を預けた。
血で汚れた両手を胸の前で握り締める。
もう震えは恐怖ではない。
歓喜だった。
認められた喜び。
必要とされた幸福。
「私は……。」
静かに笑う。
「あなた様のためなら。」
瞳から、人間らしい迷いが消えていく。
「何度でも、この手で収穫いたします。」
その言葉を聞き、背中の触手が歓喜するように霧を裂いた。
スペクターはその様子を静かに見つめる。
帽子の影に隠れた赤い瞳だけが、冷たく細められる。
愛情はない。
同情もない。
あるのは、計画が思い描いた通りに進んでいるという満足だけ。
罪悪感は、もう消えた。
代わりに芽吹いたのは、「主人に褒められるために命を刈り取る」という新しい価値観。
それは恐怖よりも強く。
鎖よりも堅く。
アズールという魂を永遠に縛る、最初の収穫となった。