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岩崎と月子が照れながら甘い空気に流されているさなか、ガサガサと音がした。
「あっ!お咲!こらっ!」
岩崎が笑いながら、お咲を叱りつける。
岩崎に手渡されたあんパンの包みを先程の騒ぎで月子は知らぬ間に床へ落としていた。それを、いつの間にか現れたお咲が目ざとく見つけ、開いていたのだ。
「あっ」
見つかったと、お咲は、少しばつが悪そうに、それでも物欲しげに包みを見ながら手を止めたが、ぐうーと腹が鳴った。
「お咲ちゃん!お腹減ってるんだね。あんパン食べよう?」
月子は語りかけ、粗相とも言えるお咲の行いを許してやってくれと、岩崎へ目で訴えた。
岩崎も心得ているようで、クスクス笑っている。
「月子、我が家には桃太郎を唄う鼠がいるようだぞ?あんパンを狙って出て来たようだなぁ」
困ったふりをして、岩崎は起き上がりお咲へ向かって頷いた。
「チューチューチュー!」
鼠の鳴き真似をしながら、あんパン片手にお咲は、小走りに居間へ逃げこむ。
「やれやれ、お咲のやつ。しかし、あいつ、いつからいたんだろう?ごたついた時にはいなかった……というよりも……。見られたか……?」
考え込む岩崎に、月子は色々思いだし頬を染めた。
「とにかく、月子。あんパンを食べよう」
落ちている包みを取り上げ、岩崎も居間へ向かった。
「お、お茶の用意をします!」
月子も慌てて後を追う。
──盆に湯飲みを乗せて月子が台所から居間へ行くと、岩崎とお咲が、うんうん頷きながら、あんパンを頬張っていた。
二人とも、実に美味しそうに食べている。
「お茶をどうぞ」
「ありがとう。月子も食べなさい。ちゃんと月子の分もあるぞ」
月子のあんパンを残しておくよう、お咲に咜られたのだと岩崎は白状した。
月子は汁粉屋での岩崎の食べっぷりを思い出す。きっと、あんパンも、あれよあれよと食べてしまったのではなかろうか。
お咲に注意されている岩崎の姿を想像して、月子はクスクス笑った。
「ふふふ、お咲ちゃん、ありがとう」
「月子様のあんパン、なくなっちゃう!月子様!早く食べないと旦那様が食べちゃうよ!」
「お咲鼠!そんなに私は食べていないだろ?!」
むきになった岩崎が、お咲へ小言を言っているが、お咲は、チューチューと鼠の鳴き真似をしながら、あんパンにかじりついた。
「……じゃあ、いただきます」
手を合わせ、月子もあんパンを手に取り、口にする。
佐紀子の来訪で一時はどうなるかと緊張した月子だったが、岩崎がいるという安心感と、あんパンの甘さが安らぎを運んで来てくれた。
同時に、幸せにするという岩崎の声が、月子の頭の中に流れて来る。
皆であんパンを食べながら、美味しいと言い合うたわいもない時間が、月子にはとても幸せに感じられた。
岩崎と共に居る。岩崎と日常を送る。たったそれだけの事が、こんなにも嬉しく感じるのはなぜだろう。
今まで、さんざん虐げられて来た。母と二人で悔し涙を流していたが、それもいつしか、諦めの涙へと変わっていった。
そして……。
気がつけば、月子の頬を涙が伝っている。
「月子?!どうした?!ああ!頭をぶつけたな!痛むのか?!」
岩崎が心配そうに月子を伺ってくる。
「……いえ、な、何ぜだか、わかりませんが、涙が……。あんパンが美味しいからかもしれません……」
涙目のまま、微笑む月子の様子に岩崎は何かを感じ取ったようで、そうか、と言うと、あんパンにかじりついた。
「あっ、旦那様、お髭にあんこが……」
「あっ?!やってしまったか!うん、やはり、髭だな、髭か……」
口髭にあんこを付けたまま、岩崎は考え込んでいる。そして、上着のポケットからハンカチを取り出すと丁寧に口元をぬぐった。
少しばつが悪いのか、誤魔化すように岩崎は茶を飲む。
「月子、実は……あんパンを食べ終えたら、本宅へ向かおうと思うのだが、構わんか?」
岩崎は、佐紀子の一件を持ち出し、男爵家に暫く世話になる方が良いのではないかと言いだした。
昼間は、自分はいない。そして、演奏会の準備などから帰りも遅くなる。下手すれば、泊まり込むこともあるかもしれない。岩崎は言うと月子をしっかり見た。
「やはり、お咲と二人だけというのは心配だ。仮に、また佐紀子さんが現れたら……」
確かに、佐紀子が来ないという保証はない。
岩崎の言うように、男爵邸ならば皆がいる。
「それに、月子。御母上とも一緒に居られるだろ?どうだろう?」
「……母さんと……」
呟く月子へ、転院まで暫くの間ではあるがと、岩崎は念を押しつつ、皆で一緒に居るというのも悪くないのではないかと問うて来た。
言われてみれば確かに悪い話ではないのだが……。
「遠慮はいらんよ。あんパンを食べたら、支度しなさい」
朗らかに言う岩崎に、月子は素直に頷いた。