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神田旭町から、岩崎男爵邸へ向けて、人力車は小半時《いちじかん》程走り続けている。
あんパンを食べ終わり、戸締まりをして、月子とお咲は全財産である風呂敷包み一つを抱え人力車に揺られていた。
岩崎は、お咲を膝の上に乗せ月子の隣で不機嫌そうに座っている。
「月子、遠慮はいらんと言っただろう?」
用意してもらっていた芳子のお下がりの着物に着替えなかった月子へ、岩崎が不満げな顔を向けて来る。
時間はあっという間に過ぎるもの。少しでも早く出発した方が良いからと、月子は着替える手間を省いた。
というのは言い訳で、用意されていた着物が普段着の銘仙《めいせん》とはいえ、さすが芳子のお下がり、余りにも上等すぎるものだったからだ。
世話になる以上、月子は男爵家の手伝いをするつもりだった。
だから、そのままの着物でいるのが一番だと思ったのだ。
しかし、芳子からの気持ちは無下にできないと、着るあてはないが渡されていた寸法直し済みの着物を大切に抱えている。
岩崎は、おそらくその辺りもお見通しのようで、月子に気を使い過ぎだと何度も言った。
「月子、岩崎の家が、もう月子の家なのだから頼りなさい」
とはいうものの、やはり月子には容易に受け入れがたい。
そんな、すこしだけギクシャクした時も終わりを迎えようとしている。
月子にも見覚えのある男爵邸の白壁が現れたからだ。
──人力車を降りた一行は、岩崎を先頭に歩んでいる。
岩崎は慣れた手つきで門を開け、玄関ドアを開けると大きな声で執事の吉田を呼んだ。
「おかえりなさいませ」
現れた吉田は、皆がやって来る事が分かっていたかの様に落ち着き払い、頭を下げた。
「兄上は戻られているか?」
こちらに世話になる挨拶と、音楽学校の定期演奏会について話がしたいのだと岩崎は言った。
それも吉田には分かっていたのか、
「旦那様はお待ちです」
と、余りにもそつなく岩崎を案内しようとする。
「吉田!月子を別館へ」
踵を返した執事へ岩崎は慌てて言った。
「はい、承知いたしました。女中に案内させますので、京介様は、旦那様の所へお早く」
吉田は、静かな口振りではあるがこれまた、分かっているとばかりに岩崎へ返事をした。ついでに、お咲は女中達に任せるとまで付け加えて。
いつも以上の手際のよさに、何かあると岩崎も、ドキリとしつつ月子へ、あとで御母上へ挨拶に伺うとそれだけ言って吉田に続いた。
岩崎の言葉に月子はおぼろげながら、男爵邸には今居る洋館とは別に、和式の邸宅があったことを思い出した。そして、そちらで月子の母は養生させてもらっていたはずだった。
「さあ、こちらですよ。玄関から出て中庭を通った方が近道ですから、そうしましょう」
いつの間にか、人懐っこそうな月子も見覚えのある女中が側に来ていた。
そして、お咲は他の女中と手を繋いで他の部屋へ連れて行かれている。
ただ、そんな光景も岩崎邸では不審に感じることもなく、月子も言われるまま動くことが出来た。
それでも遠慮の二文字は頭からどうしても離れない。
「まあまあ、月子様ったら。そんなに固くならなくても。ここは、月子様の家なのですから。それに、お母様も喜ばれますよ?」
女中は、優しく微笑み月子へ言った。
言われて月子は母の事を思い出し、自然と笑みが浮かんでいた。
そもそも母と分かれて、一晩しか経っていない。が、余りにも色々な事が有りすぎてうっかり母の事を忘れていた自分に月子は呆れてもいた。そんな、少し和んだ姿を見た女中は、
「じゃあ、行きましょう。そうだわ!京介様がおいでになられたら、チェロを演奏して頂きましょうよ!月子様がお願いしたら、京介様も二つ返事で動かれますよ!」
なとと、からかいのような事を言ってくれる。
もちろん、月子は恥ずかしさから俯いたが、耳にしたチェロという言葉に、岩崎の演奏を思い浮かべ、楽しみに感じていた。