特に誰かにつけられることもなく、大口を開けたマルガ洞の前の石切場の広場に戻って来た。広場に残っている者もいない。
祈る者たちがいた時は祭壇のように見えたが、改めて見ればただの殺風景な石切場にしか見えない。大きな石材を切り出した跡がある。石材を運んだのだろう轍がある。静謐で無機質で無味無臭の乾燥した、棺の中を想わせる光景だ。
広場を眺めていたユカリはふと気づく。洞窟を囲む丘自体はそれほど高くないが裾野はとても広い。にもかかわらず石切場はまるで洞窟からメグネイルの街まで横たわった大蛇の干物のように細長い。
普通の石切場ならば、こうも集落から洞窟へまっすぐに削ることはないだろう。まるで洞窟の口の延長線上をたどるように切り拓いているようだ。信仰対象の周囲を経済活動で切り拓くというのも不自然な話だ。やはり宗教的意味合いのある祭壇めいたものなのかもしれない。
石切場の祭壇の間の、かつては力強い鉱夫と腕に覚えのある石工で賑わった広場に入ってしまうと八つの太陽の半分が丘に隠れ、さらに薄暗くなる。ユカリにとっても松明が欲しくなる暗さだ。
そして、なおユカリの目にも暗い闇が、柵の間から餌を求めて鳴く家鴨の口のようにマルガ洞の縁に溢れている。まるでユカリが何度か想像の翼を広げて訪れた黄泉の入り口のようだ。何より鋭い想像の剣を佩き、何より堅い想像の鎧を身に纏ったユカリは恐れることなく闇に飛び込んだものだが、目の前の闇はまるで高所から下を覗いた時のようにユカリを竦ませる。
「洞窟の中に入るの?」とグリュエーが耳元に吹き寄せる。
「そうだね。魔導書の気配を、強く感じる、気がする」とユカリは自身なさげに答える。
その時、マルガ洞から文字通りに闇が溢れた。まるで夜を仰ぐ者の頭上に宇宙の暗黒が星々を置き去りして降り注ぐ時のように、ドーク少年を攫った『這い闇の奇計』が迫る。無数の緑の光の眼を灯している。やはりマルガ洞に隠れ潜んでいたのだ。
魔法少女ユカリは最早体の一部のように馴染んだ杖を虚空から取り出し、跨って、空中へと避難する。『這い闇の奇計』は空を飛べないはずだ。このまま空中からかつての戦場に燻っているという呪いを観察する。
『這い闇の奇計』は飛べないが接合し、混合し、それ自体の体積が増えるように膨らみ、ユカリの方へと手を伸ばす。しかしそれほど素早くなく、闇の量にも限界があるようだ。火事場の黒煙のように立ち昇って、寂しげにたなびく。兄に玩具をとられてからかわれる幼子のように必死に背伸びするが魔法少女には届かない。
ユカリは、大まかな闇の総量と広がる速さを確認する。地上で、人の足で逃げられる速度ではない。いずれにしても闇の中の人々にはどうすることもできないだろうが。
また見えない何かに捕まりはしないかと警戒しつつ空高く上ったことで、もう一つ、不幸な事実にユカリは気づいた。メグネイルの街だけではない。ラゴーラ領のあちこちで、闇が立ち上っている。ユカリの真下でうねっている闇ほどの高さではないが、見える範囲でも数えきれない量だ。そこにも人がいるのか、洞窟があるのか、魔導書があるのかは分からない。まるでその光景は世界が鉄格子に鎖されたかのようだ。
その数を数えるのを諦めてユカリは呟く。「そういえばドークがマルガ洞はどこかに繋がってるって言ってたっけ。クヴラフワの外まで伸びているかは分からないけど」
「こいつら鈍いね。グリュエーは全然怖くないよ。ほら、吹き飛ばしちゃうから」
「グリュエーは大丈夫だろうけど、油断しないで。……え? 吹き飛ばせちゃうの?」
グリュエーのお陰でさらなる気づきを得た。確かにグリュエーの力で秋の落葉のように闇が吹き散らされている。
ユカリも試す。杖から噴き出す空気にも『這い闇の奇計』は散らされた。出力を変えつつ何度か試して確信する。これは闇というよりも、黒い霧か煙のような性質らしい。
そしてもう一つ。ユカリは魔法少女の変身を解き、狩人の娘ラミスカの姿に戻る。すると辺りは暗闇に包まれる。そして同様に風を吹き付ける実験を行う。結果も同様だ。ラゴーラ領を包む闇も、ラゴーラの人々を攫う『這い闇の奇計』も同じ性質だ。これらの呪いの闇は風で吹き飛ばせてしまう。
これならグリュエーと協力すれば人々を聖地とやらに連れて行けるのではないだろうか、とユカリは希望を抱く。
ユカリが神々に見放された緑がかった灰色の地上へと戻るとカルストフ率いる教団の面々、そして街の大人たちが何人も待ち受けていた。幾人かが未来を手繰り寄せる希望を見つめるように、紫の光を、天から降りてくる魔法少女ユカリを仰いでいる。神官と同様に魔法少女の姿は見えるのだから空高く昇れば目立つのは当然だ。
反応は人それぞれだった。驚き、恐れ、不安。中には瞳に崇敬の輝きを湛えている者もいたが、ユカリは気づかなかった。シシュミス教団の神官たちに関しては画一的な反応だ。メグネイルの仮の指導者たちは頭から溢れそうなほどの疑念を抱えてユカリを迎えた。
魔法少女という獲物を得られず腹を空かせた『這い闇の奇計』は、しかし神官たちやメグネイル市民には目を向けず、腹を満たした蚯蚓の如くのたうちながら再びマルガ洞へすごすごと帰っていく。少なくとも神官たちはしっかりと見たはずだ。信仰対象から呪いが溢れていることを知ったら、信徒たちはどう考えるのだろうか。
「お怪我はありませんか? ユカリさん」とカルストフは唯一微笑みを浮かべてユカリに声をかける。「どうやら無傷のようですね。無事で良かった」
「ええ。大丈夫です。小指の先ほども触れてませんし、たぶん触れても大丈夫なんじゃないかな、わたしは」
怒ってもいないのに挑発的な言動で相手の出方を伺うのは流儀ではなかったが、ベルニージュから学んだそれは一定の効果があると今では知っていた。
「それは良かった。しかし不思議ですね……」
ユカリはカルストフの続きの言葉を待つ。何を不思議と思うかは人それぞれだ。
「貴女は空を飛べるのに、丘を歩いて現れた。呪いをものともせずに行き来できるのに、この街に留まっている。いったい何が目的なのですか? 何かを探しているのですね?」
それは前にも答えたはずだ。
ユカリは首をひねってもう一度説明する。「クヴラフワを解呪するのが目的です。探していると言えば探しています、解呪方法を。お疑いなのは当然だと私も思いますが。今のだって『這い闇の奇計』の性質を調べていたんです」後ろで成り行きを見守っている人々にも聞こえるように話す。「上手くやれば『這い闇の奇計』を退けつつ移動できます。大集団ですから入念な準備は必要ですが、呪いがないというクヴラフワ中枢に向かうことも可能でしょう」
「なんと! それは真ですか!?」とカルストフはユカリに掴みかからん勢いで尋ねる。「どうやって退けるのですか? 何か強力な魔術を使うのですね? そうに違いない」
「え? ええ、はい。あれは闇というより霧や煙に近いんです」信徒たちにもしっかり伝える。「見ましたよね? 私の魔法の風で吹き飛ばせます」
ユカリに応じるように、「グリュエーもね! グリュエーは強力だよ!」と言って相棒の風が吹き寄せた。
お陰で人々にどよめきが起きる。勝軍の帰還を知った者たちさながらの不安と希望に満ちた声だ。
「なるほど。そういうことですか」カルストフは思案するように呟く。「風の魔術で……。たしかに、『這い闇の奇計』と伝わっている名称を鵜呑みにしていました。それで、いつになれば出発できますか? 今すぐにでも可能なのですね?」
「え? ああ、えっと少しだけ準備がいります。風を十分に蓄えなくてはならないので」
「分かりました。その間に準備を整えておきましょう。皆の統率は私たちにお任せください」
カルストフのそれはユカリの予想していた態度とは違った。信仰と呪いを利用した支配が教団の目的ではないのだろうか。
さっそく計画を練りながら去り行く教団の神官たちをユカリは呼び止める。黙っていても構わないと思っていたが、こうなると信頼関係を崩さない方が良い。
「カルストフさん。もう一つお願いが」カルストフは立ち止まって、神官たちを先に行かせる。「マルガ洞に入っても構わないですか?」
カルストフはユカリを見、マルガ洞を見、案じるように尋ねる。「それはなぜですか? とてもおすすめはできません。貴女の自信はよく分かりましたが、わざわざ危険に飛び込む必要はないでしょう」
「危険なんですね? マルガ洞は」
カルストフは怪訝な目でユカリを見つめ返して答える。「『這い闇の奇計』が出てきたのをご覧になったでしょう? これ以上の説明が必要ですか? そもそも何の目的で入りたいのです?」
魔導書のことは言わない。
「攫われた人々を探しに行きます。すぐに移動するなら連れて行かないと」
「言っていませんでしたが、最後に攫われたのはひと月も前です。呪いに塗れて生きていたとしても飢え死にしていますよ」
「それでも、安否を確認するのは残された者のためでもあります」
少し無理があったかもしれないがユカリは押し通す。そういう価値観があったっていいはずだ。
カルストフはため息をつく。子供の我が儘に折れた大人のため息だ。
「それだけ自信があるのだと、信じましょう」
「そんなに時間をかけるつもりはありません。日が暮れるまでに戻ります」
カルストフが控えめに笑う、ユカリが冗談を言ったかのように。ユカリが不思議な顔をしているとカルストフも不思議な顔をする。
神官たちは闇の呪いを避けているのだ。であれば昼夜の違いが分かるはずだ。
「夜なんて来ませんよ」とカルストフは当たり前のことのように無感情に言った。「我らには見えるあれら八つの太陽は時に天を徘徊しますが、地平線より下に降りることはありません」
全てはクヴラフワ衝突、そしてクヴラフワの呪災によって始まったのだ。あるいは終わったのだ、とユカリは心の内で付け加える。
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