魔法少女ユカリはマルガ洞と向き合う。何もかもを喰い尽くし飢饉をもたらすという古の怪物のような大口が崖に穿たれている。ユカリは怪物に挑む勇者の持つ剣と盾の代わりに、右手に魔法少女の杖を、左手に借りてきた松明を携えている。あまり意味はないかもしれないが念のために、とカルストフが貸してくれたものだ。もはやラゴーラ領に住む誰も使っていないだろう道具だが、闇の呪いなど効かない魔法少女といえども洞窟の中は自然に暗いはずだ。意味がないということはないだろう。
その時、洞窟の中から物音が聞こえ、ユカリは飛び退く。『這い闇の奇計』が現れたのかと思ったが、違った。それは二本足の足音、人間だ。まるで花を踏まぬようにと気配るような楚々とした歩調が近づいてくる。一体何者かと待ち受け、現れたのは街では見覚えのない美しい女性だった。水銀を伸ばしたような輝かしい髪は束ねられ、纏められ、賢慮を滲ませる翠玉の瞳が揺れる。身に着けた一揃いの衣装は新雪のような白で、メグネイルの街で見るべくもない上質な仕立てだ。そんな女性が、まるで壇上に上る指導者のように堂々とマルガ洞から歩み出てきた。
「待ってくれていたのですね」と女は涼やかで確かな声で語りかけてくる。「心配ご無用ですよ。私は護られているのですから」
「え? なんですか? いったい、貴女は?」
突如現れた女に分からないことを一方的に喋られ、ユカリは戸惑いを露わにする。
「てっきりあの子と仲良くなったのかと」女は揶揄うように目を細め、くすくすと笑う。「そこまで否定しなくてもいいでしょう?」
予告も前兆もなく現れた存在を前にユカリは押し黙る。話が通じていないのは明らかだ。それに視線の先がユカリの胸元を指している。ユカリには見えない魔法少女よりも背の低い何者かと話しているのだ。
「ええ、そうですね。この洞窟は実験に丁度よさそうですよ。街の者たちも協力は惜しまないと申し出てくださっているし。……それはまた今度ですね。まだ、あくまで仮説です。が、欠片も存在しなかった希望を得ました。それは貴女がもたらしたのですよ。きっとクヴラフワは救われる。さあ、行きましょう」
まっすぐに突っ込んでくるのでユカリは道を開けるが、ユカリの目の前で女は消え失せた。
「大丈夫? ユカリ?」とグリュエーが心配している。
「どうだろう。大丈夫じゃないかも。グリュエーには見えてなかったんだね」
「そんなことないよ。いつも見えてる。今日も可愛いね、ユカリ」
「うん、ありがとう。どうやら幽霊を見てたみたい。あれも呪い? 『這い闇の奇計』には関係していなさそうだけど」
「なんでグリュエーを見れないのに幽霊は見れるの!?」
「そんなこと私に言われても」
ユカリはもう一度マルガ洞の口を見つめる。暫く待っても他の幽霊も『這い闇の奇計』も現れないので、ユカリは意を決して闇の源へと飛び込む。
確かにカルストフの言う通り松明はあまり意味がなかった。いざマルガ洞に入って見ればそこには朧で仄かな明かりに照らされていたのだった。まるで鮮血に透けた陽光のような微かに赤みを帯びた温かみのある光だ。一体何事か、と淡い光に近づいてみればそれは茸だった。合掌茸だ。鍾乳石の根元や罅割れの中に生えていて、マルガ洞を妖しげな光で照らし出している。確かに聞いていた通り、大きい物では丸々と太った兎ほどに成長していた。
メグネイルの街の人々はここから収穫した合掌茸を食べていたのだろうか。神の恵みという訳だ。
では『這い闇の奇計』はどうしたのかというと、やはり辺りをうろついている。しかし緑光の眼で睨みつつもユカリとは十分に距離を取っており、風を吹きつけてなくとも近づけば離れて行った。学習したらしい。
拍子抜けではあるが、思う存分探索するだけだ。ユカリは改めて黴臭く湿気た空気に包まれながら目を凝らす。入り口付近には見たところ、『這い闇の奇計』に攫われた人々の痕跡はない。奥へ連れ込まれたのだろうか。ユカリは細長い洞を突き進む。『這い闇の奇計』を押し込むように奥へ奥へと邁進する。
まるで隙間に詰まったかのように『這い闇の奇計』の動きが鈍くなると、ユカリは洗い流すように強烈な勢いで空気を送り込んでさらに奥へと押し込んだ。
「もう!」グリュエーが反響する。「どうしてユカリはグリュエーに頼ってくれないの!? 役立たずだと思ってるの!?」
「またその話? そんな風に思ってるわけないでしょ? おっと」
ユカリは立ち止まり、奥に満ちている『這い闇の奇計』を威嚇するように睨みつける。風を吹き付けると左右に分かれ、入り口の方へと流れてしまった。
どうやら行き止まりのようだ。どこか遠くへ繋がっているという噂があるとドークは語っていた。確かに同様の闇が各地から噴き上がっているのをユカリは見た。しかし繋がってはいなかった、噂は噂だった、ということだろうか。
「グリュエー。隙間がないか探ってみて?」
「もう探ったよ。床面近くにある」
ユカリもまた冬を追い出す春の最初の風のように空気を吹き付けて『這い闇の奇計』を退けると確かにそこにはグリュエーの言う隙間があった。しかし人間ならばそれを亀裂と称するべきだろう。煙の如き『這い闇の奇計』ならともかく、赤ん坊でも通り抜けられはしない。
つまりどこか遠くへ繋がってはいるが、人が通り抜けることはできない、が正解だ。ドークを残念がらせてしまう土産になってしまった。
「さて、ここまでに見つけたのは怪しい茸と陰気な黒い煙だけ。攫われた人々の痕跡も無し。魔導書は、……あれ?」
「気配は感じる?」とグリュエーに尋ねられ、ユカリは幽かに頷く。
「でも、少しおかしい。おおよその方向は分かってたのに、今は方向を感じない。ううん、それも違う」ユカリは改めて洞窟を見上げ、見下ろし、振り返り、見渡す。「あらゆる方向から魔導書の気配を感じる」
「どういうこと? 沢山あるの?」
「そのまま解釈するなら、洞窟そのものが魔導書、とか、かな。ともあれ攫われた人たちも魔導書も見つからない。とりあえず話だけでも聞いてみようかな」
「誰に?」
ユカリは辺りを見回す。誰もいないが色々なものがある。鍾乳石、滴る水、そして合掌茸。
「すみません。少しお話よろしいですか?」とユカリは合掌茸に【尋ねる】。
「ようやく口を利いてくれたな」「祈り始めて幾歳月」「口がないのが口惜しや」
洞窟のあちこちから合掌茸が好奇心旺盛な小人のようにユカリに話しかけてくる。
「何か話をしたかったんですか?」ユカリは興味を惹かれて尋ねる。
「無論も無論」「我らの言葉は遥か遠くへ、地を越え時越えどこまでも、響き渡るが返事はなし」「代わり映えせぬ同胞の悪口陰口痴愚の愚痴」「口もないのに口々に、耳もないのに嫌になる」
ユカリも耳を塞ぎたくなるほどあちこちから話しかけられる。「要するに話し相手がなくて暇だったんですね?」
「如何にも如何にも」「茸にも話し相手は務まろう」
「じゃあ教えて欲しいんですけど。ここに誰か連れて来られたりしませんでした?」とユカリは合掌茸を一つ一つ眺めながら尋ねる。
「うむ。この洞に差し向けられるのは的外れの祈りと仲間外れの闇ばかり」
ユカリは意気込む。「その闇に包まれていたんじゃないか、と思うんですけど」
「可笑しなことを言うものよ。己は己の腹の内の、己が食ったものが見えるのかえ?」
確かにその通りだ。ドークも体の半分が呑み込まれていた。そしてユカリはもう一つ、重大な事実、致命的な失敗に気づく。迂闊だった。今までずっと気を付けていたのに。
もう合掌茸を食べられない。
ユカリは頭を抱え、吐き気を堪える。腹の中から話しかけられないぶんにはまだ大丈夫だ。
その時、赤みを帯びて巨大な獣の体内のような洞窟の景色に違和感を抱く。ユカリの視線はユカリのやって来た洞窟の入り口の方に向けられている。
そしてすぐに理解する。洞窟はここまでまっすぐに伸びていた。そこには、小さくなったマルガ洞の口があり、さすがに合掌茸よりは明るい八つの太陽の緑の光が目に見えるはずだ。それが塗り潰されたみたいに真っ暗になっている。
「まさか! 閉じた!?」
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