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同居――同棲と呼ぶのは何だかおこがましい気がします!――を始めたことに急かされるみたいに、私、宗親さんから〝偽装結婚〟の手はずをどんどん進められています。
強引すぎる宗親さんに、一応は抵抗する素振りは見せたけれど、本当の意味で彼からの提案を蹴るつもりなんて微塵もなくて。
別に生娘だったわけじゃなし。
上司とエッチ――未遂だけど――をしてしまったことぐらい、一夜の過ちだとか、成り行きで仕方なくだとか、お酒のせいでどうかしていただけだとか……。
それこそ自分に対してあれこれ言い訳することは簡単だったはずだから。
なのにそう出来なかったのは……あの夜自分自身がハッキリと自覚してしまったからだと分かっているの。
――宗親さんを誰かに奪られたくない!って。
遠巻きに見ているだけで良かったはずの宗親さんのこと、ただの憧れなんかじゃなく恋愛対象として。
それこそ手が届くかもしれない対象として……。
本気で好きになってしまったんだって思い知らされたキッカケが、彼と肌を合わせたことだっただけ。
実際にはきっと、宗親さんとバーで初めて出会った瞬間から、私は彼に心を奪われていたんだと思う。
見た目も声も好みのどストライク。
だけど、腹黒で自分勝手で強引でわがままな、近付き難い上司。
私とは住む世界が違う人だから、いくら好みのタイプでも好きになったりしない。好きになったりしちゃいけない。
遠くから、姿を眺めるだけで十分の雲上人。
そう自分に言い聞かせていた時点で、私の負けはとっくに決まっていたんだよね。
そんな好みの相手から――例え利害の上とは言え、「妻に」と請われて突っぱね続けることができるほど、チョロ子の私は強くなかっただけ。
宗親さんの私へのこだわりと、私の彼への執着は種類が違うもので、交わることはないというのはもちろん百も承知。
だって、宗親さんのそれは都合の良い妻役を逃すまいとする事務的な固執で、私のこれは紛れもなく恋慕なんだもの。
重なりっこない。
それでも宗親さんは仕事の出来る男性だから、きっと偽装とは言えいざ結婚したとなれば、婚姻相手の私に「愛されているという錯覚」を与えてくれるはずだ。
先の夜がそうだったみたいに。
現に私、宗親さんの腕の中で元カレ相手では得られなかった快感と幸福感に包まれた。
ちゃんと最後まで抱かれたわけでもないのにアレ。
本当の意味で一線を越えてしまったら私、どうなってしまうんだろう。
どんなに深く愛されているように感じさせられても、彼にとっての私はあくまでも利用すべき相手であって、恋愛対象じゃない。
それをしっかり自覚しておかないと、私ひとり気持ちが暴走しちゃいそうで怖い。
だからこそ私、自分の気持ちにふたをする決心を鈍らせたくなくて、引っ越しの際、背水の陣でこの同居に臨んだの。
私だってあんなにたくさんのものを手放すことに不安がなかったわけじゃない。
だけど――。
ああでもしないと宗親さんと一緒にいる理由を〝彼のことを愛してしまったから〟以外の理由で、自分の中にこじつけられなくなりそうで怖かったんだもの。
何もかもを手放した私は、ここを追い出されたら露頭に迷ってしまう。
困るように自分で自分を追い詰めた。
それを、彼の元にしがみ付く言い訳にできるように。
結婚すれば妻以外を抱くつもりはないと言ってくださった宗親さんの言葉に、恐らく嘘偽りはない。
けど、宗親さんが契約上の妻として、私に操立てをしてくださっているだけなのを、自分への愛情だと錯覚することがないようにしないと、きっと宗親さんに呆れられてしまうと思うの。
それを忘れてしまったら、私、夢から醒めた時、絶対に惨めになるから。
――宗親さんのお芝居に縋ってしまいたいと思う気持ちをどれだけ制御出来るか。
それこそが、この偽装結婚での〝肝〟なんだと思う。
――私は偽装夫の織田宗親さんを本心から愛していながらも、そんな事はないと宗親さんを騙しながら偽装妻を演じなければいけない。
本気になってしまったと悟られたら、多分全てがご破産になってしまう。
そう思うから――。
私は渋々宗親さんに振り回されている体で、今日も彼に付き従っています。
***
うちの実家は日本海に面した、小さな商業都市で。
宗親さんは先の宣言通り、私を海に連れて行って下さった後、その足でうちの実家へと足を伸ばす計画を立てた。
***
「春凪、こんな素敵なお相手がいらしたんなら、もっと早く紹介しなさいよ」
宗親さんを見るなり、真っ赤な顔してお母さんが慌てたように横髪に何度も手櫛をかける。
これは緊張したときにやる、お母さんの癖だ。
宗親さんを前に、明らかにお母さんが高揚している代わりみたいに、お父さんはムスッと苦虫を噛み潰したような顔で、宗親さんを睨みつけている。
「母さんは少し黙っていなさい」
とうとう堪えかねたようにお父さんがお母さんをピシリと叱りつけると、お母さんがビクッとして口を閉ざした。
うちの両親はいつもこんな感じだ。
お父さんが絶対君主で、お母さんはその奴隷か配下のよう。
私と楽しく談笑していても、お父さんが不機嫌そうに咳払いをしただけで、お母さんは水を打ったように黙り込んでしまう。
実家の稼業――運送会社――の手伝いで、経理事務をすることはあっても、基本専業主婦のお母さんは、お父さんがいないと生活が立ち行かないと思っているところがある。
生家も〝出戻りは許さない〟と言う風潮だから、お母さんはどんなにお父さんに虐げられても、離婚するという選択肢なんて思い付きもしないんだろうな。
そんな両親の関係を見ているのが私、実は幼い頃から苦痛だった。
運送会社の社長をしていた私のおじいちゃんも、おばあちゃんのことをお手伝いさんか何かのように思っている節があって、おじいちゃんにびくびくした様子のおばあちゃんを見るのも辛かったっけ。
妻や、一人娘である母には手厳しかった祖父も、娘が産んだ唯一の子供である私には何故かデレデレと甘かった。
けれど、それでも言葉の端々に男尊女卑というか、そういうものが見え隠れするのを幼な心に感じていたから。
私が男の子だったなら、祖父はもっともっと私のことを溺愛してくれたんだろうなと思ったりした。
小さかった私の頭を撫でながら、祖父が時折うわごとのようにつぶやく、「春凪が男の子だったら」という言葉は、女として生まれた私の自尊心を、少なからず傷付けたの。
母は結局私以外に子供を授かることができなかったから、私の孫としての地位は幸いにして不動だったけれど、もしも弟が生まれていたらきっと――。
男の子を望む割に母方の血族には男の子が生まれにくい傾向があるのだと、母が「まるで呪われてるみたいでいい気味ね」とつぶやいたのを私、聞いたことがある。
――きっと、将来春凪ちゃんが産む子も女の子ばっかりよ、という言葉とともに。
私、おじいちゃんと、婿養子に迎えた義理の息子である父とのほうが実の娘である母と、よりも考え方が似ているというのを何だか皮肉だなと思ったりして。
『春凪は大きくなったら地元の賢くて立派な男の人をお婿さんに迎えるんだよ。そうして柴田家に立派な男の跡継ぎを産んでおくれ。わしに任せておけば大丈夫だから。な?』
おじいちゃんが私を膝の上に乗せて頭を撫でながら繰り返し繰り返し投げかけた言葉は、私にとっては苦痛でしかなかったと、本人は気付いているかしら。
お父さんだって同じ。
『おじいちゃんとお父さんで、春凪には素敵なお婿さんを見つけてやるからな』
要するにおじいちゃんとお父さんは、女の子は20歳を過ぎるか大学を卒業するかしたら仕事なんてせず、堅実な男性と所帯を持つのが何よりの幸せ、と言う考え方の人たちなのだ。
それも、相当の良縁でもない限り、自分たちの息がかかった地元の男性が望ましいという感じ。
おじいちゃんやお父さんの目論見が見えれば見えるほど、私はこの家から出たくて出たくてたまらなくなったの。
おばあちゃんやお母さんみたいに、男の人の言いなりになって、依存して生きていくなんて絶対に嫌っ。
そう思って大学進学を機に、忌々しいこの家を飛び出した。
(だけど……今の私、宗親さんに捨てられるんじゃないかとビクビクして……結局はおばあちゃんやお母さんと一緒じゃない!)
ふとそんなことを思って……。
結局は私も〝柴田家の女〟なのだと痛感させられて、自分の不甲斐なさにうつむいた。
(私なんかが宗親さんの隣にいてもいいのかな)
視線を落とすうち、宗親さんのそばで偽装妻に成りすます事さえも、凄く凄く不釣り合いな気がしてきて。
生家への宣戦布告の真っ最中だというのに、私はこの場から消えてなくなりたくなってしまう。
でも――。
それでも……私はやっぱり宗親さんが好きで……。
どんな形でも彼のそばに居たいし、偽りでも構わないから……彼の温もりを独り占めしたいと強く欲していることにも気が付いた。
愛されたいなんて贅沢は言いません。
見せかけだけの偽装夫婦でも構わない。
だからお願い、宗親さん。
こんな私だけど……貴方のそばにいる事を許して……?
そんな私の気持ちなんて、お父さんには分かりっこないんだろうな。
家を存続させるための手駒としてアレコレ言い聞かせながら育てたはずの娘が、まさか自分の言いなりになる傀儡のままでいることを嫌うだなんて、きっと想定の範囲外だったよね?
それは今この場にはいないおじいちゃんにしても同じだと思うけど。
ねえ、お父さん。後生だから私の大好きな人を値踏みするみたいな目で見ないで?
父親の、宗親さんを見る眼差しが凄く嫌で……。
なのに宗親さんはまるでそんなの些末なことででもあるかのように凛としていらして、全然気にしていらっしゃるようには見えないの。
どうしてこの人は、いついかなる時もこんなに自分に自信を持って存在していられるんだろう?
その答えを私、呆れの対象として見ていた眼前の父とともに知ることになった――。
***
父は、宗親さんのことを田舎の小さな街の、中小企業の課長程度と侮っていたように思う。
それが一変したのは、宗親さんがご自身の出自と、ご両親のこと、それからゆくゆくは自分が歩むはずの道を話されて、一葉の名刺をお出しになった後。
ドキュメンタリー番組やニュースなんかでもよく取り上げられるような、大きな会社の名前が書かれた名刺に、課長や部長どころか、副社長織田宗親の文字。
宗親さんが、そこの会社の代表取締役社長の息子で、妹さんはいるけれど跡取りとして期待されているのは彼の方だと知った後の、手のひらを返したような父の態度。
元より女性である夏凪さんの存在なんて、きっと父の目には入ってもいない。
宗親さんの血統を知った途端の父の豹変ぶりに寒気がして、私は彼に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
宗親さんに言わせると、社長の息子だからといって、その会社のトップの席が必ずしも約束されているわけではないらしい。
現に、自分と同じ役職の名刺を持つ人間がもうひとりいて、副社長としての業務は今現在、ほぼその人がこなしているらしい。
そう述べた後で、宗親さんは堂々と胸を張った。
「けれど、僕はその座も――、もちろんトップの座も他者に譲る気はさらさらないのです」
ただ、今のままの自分では知識不足なことも、経験不足なことも重々承知しているのだと彼は申し添えて。
「だから僕は我が社の慣例に従い、他の取締役たちを黙らせる力をつけるため、現在外部の会社で研鑽を積んでいる最中なんです」
そこで一旦言葉を止めると、宗親さんは私に視線を流した。
「僕はこの研修期間中に、父から責任ある大人の男として〝家庭を築くための伴侶を得る〟ことも言い渡されていました」
もちろん無理なら見合いも視野に入れることはやぶさかではないと考えていたのだが、わたしと出会ってその必要はなくなりました、とにっこり微笑まれて。
「僕が共に人生を歩んでいくパートナーとして、春凪さん以外の女性は有り得ないと確信しています」
そううちの父に話す宗親さんの横顔は、嘘偽りだらけの言葉にまみれているはずなのに、凛乎たる有様で本当にカッコ良かったの。
ハッタリでも何でも、父を納得させるだけの気迫が宗親さんにはあって――。
いつだったか、宗親さんが自信たっぷりに、「僕は割と人たらしの才能もありますから、そちらの親御さんにも確実に気に入られる自信があります」と豪語なさったのは、伊達じゃなかったんだと身をもって実感した。
「時に宗親くん。そちらのご両親は……その、うちの娘が貴方と結婚することをお許し下さっているのでしょうか?」
初見の時の偉そうな態度とは一変。
どこか宗親さんに媚びへつらうような物言いをする父に、私は胸のうちでひとり密かに嘆息をする。
分かっていたけれど、この人は本当に人をステータスでしか判断が出来ないんだなって思ってガッカリしてしまう。
宗親さんは肩書きなんてなくても凄い人なのに。
もしも宗親さんが一介のサラリーマンだったら、父は――というより祖父も――彼との結婚を許してはくれないんだろうな。
「父にはこれから紹介する段取りですが、母と春凪さんは既に面識があります。少なくとも母親は彼女のことを気に入ってくれていますし、僕も春凪さん以外の女性と入籍するつもりはありませんので必ず説得してみせます」
宗親さんは父の値踏みするような視線にも何ら動じることなく背筋をピンと伸ばしてにこやかに微笑んだ。
その上で続けるの。
「正式に話がまとまり次第、次回はうちの両親とともにご挨拶に伺おうと思います」
大会社の社長が、一介の田舎娘のためにこんな僻地まで出向いてくると聞かされた父は、それだけで舞い上がってしまったみたい。
「いやっ、それではお忙しいのに申し訳がない。こちらのけじめとしてその際はそちらが都合の良い場所までうちが出向いて顔合わせといきましょう」
父の物言いに微かな引っ掛かりを感じた私は、幼い頃から言われ続けてきたことを思い出してにわかに不安になる。
それと同時、自分の半分ほどしか生きていないであろう宗親さんに、父がヘコヘコと頭を下げる様を見るのは何だか滑稽にも思えて。
父の背後に黙って控えている母が、私の方を見て口の端に小さく笑みを浮かべたのを私、見逃さなかったよ?