カイラスの牙がリリスの咬痕を再び貫いた瞬間、屋敷の外で、世界そのものがひっくり返ったかのような轟音が響いた。壁の紋様が裂け、空気が震え、窓の外に広がる夜が“血の色”に染まる。
カイラスがリリスを腕の中に抱いたまま顔を上げる。
彼の瞳に宿る色――それは初めてリリスが見た、完全な“獣の赤”。
「……来たか」
その声には、恐れも迷いもなく、ただ冷たい怒りだけが走っていた。
リリスは息を呑み、彼の胸元に手を添えた。
「カイラス……あれは……?」
「奴だ。――吸血種の王《ノクタ・レックス》」
名前を口にした瞬間、息を凍らせるような闇が窓の外を覆う。
屋敷全体が、巨大な影の掌で握りつぶされるように軋んだ。
「どうして……“王”がここに……?」
リリスは震える声で問いかけた。
「おまえの咬痕のせいだ。血誓(Blood Oath)の波動が、王の眠りを揺るがした。あいつはおまえを奪うために来た」
カイラスは言い捨てた。
「奴にとって、おまえは“資源”だ。人間の中でも稀に生まれる、血誓適性を持つ魂……王はそれを好んで喰う。自分の力を永遠に保つために」
リリスは言葉を失った。
喉が乾き、胸が痛いほど脈打つ。
カイラスが優しく彼女の頬を撫でた。
「怖がるな。もう、おまえは俺のものだ。――絶対に渡さない」
その声の奥には、獣の本能が響いていた。
守るためなら何であれ殺す、という冷徹な決意が。
屋敷の外――夜空が裂けた。
見上げる者すべてを震え上がらせる黒い霧が渦巻き、その中心に“影の玉座”が形を成した。
そこに座しているのは、巨大な黒い翼を持つ男。
姿は人にも似ているが、瞳は獣そのもの。
闇の海で燃える双つの血紅。
吸血種の王《ノクタ・レックス》。
夜そのものが姿をとった最初の吸血鬼。
彼が口を開いた瞬間、空気が断ち割られたように静まり返る。
「血誓を交わした人間よ……リリス。我が声が聞こえるか」
リリスは耳を塞いだが、声は頭蓋の奥まで響いてきた。
「……聞こえる……やめて……!」
「逃げるな。おまえは選ばれた。我が永き夜の糧となるために、ここに生まれた」
リリスの心臓が凍りついた瞬間、
カイラスが彼女の耳元で囁いた。
「聞くな。あれはおまえを“所有物”として呼んでいるだけだ」
リリスは小刻みに震えた。
だが、カイラスの腕に抱かれているその温度だけが、確かな現実だった。
王の影が、屋敷の敷地に降り立つ。
その衝撃で地面が波打ち、古い石畳が砕け散った。
カイラスはリリスの肩を軽く押し、そっと後ろへ下がらせる。
「リリス、俺の後ろから絶対に動くな。少しでも離れたら、王に跡形もなく持っていかれる」
「カイラス……」
彼の名前を呼ぶ声は震えていた。
だがその震えは恐怖だけではなく、彼を信じたいという願いだった。
カイラスは短く頷き、彼女を守るように前へ踏み出す。
「ノクタ・レックス……ここまで出てくるとは思わなかった」
カイラスが低く呟いた。
「貴様ごときが“血誓”を使ったからだ」
王の声が響く。
あまりの圧に、屋敷の壁がひび割れた。
「人間との血誓は、吸血種の王族にのみ許された契り。下位の吸血種ごときが、我の糧となる人間を先に奪うとは――」
「許されるかどうかなんて関係ない」
カイラスの声は静かだった。
だが、その静けさは戦いの前の暴風のようなものだった。
「俺はリリスが欲しかった。それだけだ。……理由は要らない。おまえが邪魔をするな」
「愚か者め」
王が立ち上がると、背後の霧が生き物のように蠢き始めた。
「ならば、奪うだけのこと」
次の瞬間、影が世界を覆った。
リリスが悲鳴を上げる暇もなく、王の闇が屋敷の柱をへし折り、天井を半ば吹き飛ばした。
黒煙が天に昇り、瓦礫が降り注ぐ。
だが、そのすべてをカイラスの片腕が防いだ。
彼は炎のような赤い魔力を纏い、瓦礫を弾き返しながら吼える。
「リリスから離れろッ!!」
獣の咆哮が世界を震わせた。
王は笑う。
冷たく、残忍に。
「守るのか?愚かな……あの娘は“喰われるために生まれた”。おまえの牙よりも、我の牙の方が価値がある」
「黙れ!」
瞬間、カイラスが飛び出した。
その速度は風より速く、影より鋭い。
彼の爪が王の影を切り裂く――だが。
「遅い」
王の影が伸び、槍のようにカイラスの胸を貫こうと迫る。
「カイラス!!」
リリスの叫びが夜を裂いた。
その声が届いた瞬間、
カイラスの体を流れる血が“跳ね上がる”ように燃えた。
血誓の力――。
リリスの心臓が恐怖で走らせた鼓動が、カイラスの魔力を暴走させる。
「ッ……!」
胸を貫く影を、カイラスは腕力だけでへし折った。
血を流しながらも、彼は王に向かって吼える。
「たったひとりの女を守れないような吸血鬼に……“王”なんて名乗る資格はないッ!!」
次の瞬間、カイラスの背から黒い炎が噴き上がる。
吸血種の獣性が限界まで解放され、彼は夜の中で真紅の閃光となった。
戦いは膠着状態に陥った。
カイラスの攻撃は速く強靭だが、王の影は無限に再生する。
そして――
リリスの胸元が痛み始めた。
「……カイラス……苦しい……」
リリスは胸を押さえ、息を乱す。
咬痕から熱が溢れ、視界が霞む。
血誓が“警告”していた。
――“主”が死にかけている。
「カイラス!死なないで……!」
リリスが叫んだ瞬間だった。
王の影が、カイラスの背を貫いた。
鮮血が宙に散り、リリスの足元に滴り落ちる。
「カイラス!!!!」
リリスの悲鳴は、夜の法則すら捻じ曲げた。
血誓が暴走する。
リリスの涙が血に変わり、床に赤い紋様を描き始める。
それは――古い古い言語。
吸血種も知らぬ失われた魔法。
王が低く言った。
「……まさか。その娘……“血誓の巫女(Blood Priestess)”か」
リリスの血が床に触れた瞬間、世界が震える。
カイラスが倒れかけたその身体を、赤い光の腕が支えた。
リリスの魔力だった。
彼女は涙を流しながら、カイラスの胸に手をあてる。
「カイラス……お願い、生きて……私を置いていかないで……!」
王がつぶやく。
「血誓は双方向……おまえが死ねば、彼も死ぬ」
リリスの目が開いた。
その瞳は涙で潤んでいるのに、光は炎のように鋭かった。
「だったら――絶対に死なせない」
リリスが床に膝をつく。
彼女の血がさらに溢れ、巨大な魔法陣が床に広がる。
王がわずかに身を引いた。
「まさか……人間の身で“血誓の呪術”を使えるとは」
カイラスは朦朧としながら、彼女の名を呼ぶ。
「……リリス……やめろ……その術は、おまえの寿命を削る……」
「いいの」
リリスは微笑んだ。
涙を流しながらも、ひどく綺麗に。
「カイラスがいない世界なら……生きても意味がないから」
その言葉に、カイラスの心臓が震えた。
王が笑う。
冷たく、嗜虐的に。
「面白い。吸血鬼より、吸血種の王より……“人間”が一番愚かで、一番美しい」
リリスの詠唱が夜を震わせた。
赤い魔力がカイラスの傷を塞ぎ、彼の体を再び立たせる。
咬痕が激しく輝き、二人を繋ぐ光の鎖が夜空に伸びる。
カイラスの息が戻る。
瞳が再び燃える。
彼はゆっくり立ち上がり、リリスの肩に触れた。
「……ありがとう、リリス」
その声は震えていたが、確かな強さを帯びていた。
リリスは泣きながら頷く。
「もう……死んじゃダメ。私が生きてる限り……あなたも、生きなきゃダメ」
カイラスが微笑んだ。
「生きるよ。おまえが望む限り、ずっと」
その姿を見て、王が低く唸った。
「ならば――二人とも喰らうまで」
影が立ち上がり、夜が叫び、世界が震えた。
カイラスがリリスの手を握る。
「離れるな。リリス――俺と一緒に、生き延びろ」
リリスは強く頷く。
「カイラス。あなたの血誓で、私はもう逃げない」
夜が裂け、
王とカイラスの最終決戦が始まる。
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