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『昔々、ヴィルアーゼ王国に平民出身のアグネスという女性がいました。アグネスは心優しく勇敢だったので、みんなから慕われていました。そんなアグネスには、魔法の才能がありました。あまりにも飛び抜けていたので、多くの人々から嫉妬されましたが、やがて王様にその才能を認められ、魔王を討伐することになりました。数々の苦難を乗り越え、アグネスは仲間たちと共に見事魔王を打ち倒しました。その功績を称え、アグネスには多額の報酬金が贈られ、以後、彼女は人々から英雄アグネスと呼ばれるようになったのでした』
という話は、ヴィルアーゼ王国に住まう国民なら誰もが知る物語だ。
まだ片手に満たないほどの幼子でも知っている。
この話をよく知るのは、王都で暮らす町娘エーファも同じだった。
御年十六歳のエーファは、両親が切り盛りしている酒場をいつも手伝っているが、暇さえあれば本にかじりついているほど読書好きな少女だった。
ある日。
エーファはいつものように酒場を手伝っていた。
「エーファちゃん、葡萄酒四よろしく! 」
「エーファちゃんこっちも麦酒三つお願い」
赤ら顔の中年の男と女がエーファに言う。
「はーい」
エーファは注文を紙にメモし、厨房の調理台の上に置いた。
「エーファお会計お願い」
エーファの母ルイーザが彼女に言う。
「うん!」
エーファは急いで勘定台に行った。
勘定台の前に立っていた客は黒いローブを身にまとっており、フードで顔が見えなかった。
いつからかまでは覚えていないが、数ヶ月に一度店に訪れている客だ。
長身であるし、体格的に男だろうか。
客は無言で銅貨三枚を手渡す。
その時だった。
刹那、ローブから現れた客の手首がきらりと光ったのが見えたのだ。
エーファは僅かに目を見開いたが、すぐに笑顔を作り、銅貨を受け取る。
「ありがとうございました」
客は何も言わずに去って行った。
エーファは客が出ていった店の扉を見つめる。
あの客の手首には、腕輪がはめられていた。
細やかな紋様が刻まれた銀製の腕輪だ。
しかし、貴族も平民もあの腕輪を着けてはならない。と言うよりも、着けられない。
公には知られていないが、あの腕輪は、王家の血を引く者だけが着けられるのだ。
そして立場によって違う色の宝石が埋め込まれている。
王はアメジスト、王子はルビー、王女はサファイア。
エーファは客の手首に赤い輝きを見た。
ヴィルアーゼ王国の王子はひとりしかいない。
クラウス・ヴィルアーゼ王太子。
御年二十一歳の、国王のひとり息子。
真っ白な肌、たっぷりの艶を帯びた黒髪、切れ長の目、陽の光のような金色の瞳、整った目鼻立ち、薄い唇。
その魅力的な容姿から、国中の淑女方の圧倒的な人気を誇っている。
剣術にも長けており、一人前の騎士顔負けの腕前との噂だ。
その王太子がこんな酒場に来るとは。
王族も市街地に出てくるんだなあとエーファはひとり思うのだった。
黒いローブをまとった人物は、酒場を出た後、人目のつかない路地を通り、まっすぐ王宮に向かっていた。
数十分歩くと、王宮の裏門に着く。
黒尽くめの人物–クラウスは、ローブのフードを取り、美しい顔に微笑を浮かべた。
「ご苦労」
すると裏門に立っていた守衛の一人が裏門の鍵を解き、門を開ける。
守衛たちが頭を下げ、クラウスは中に入っていった。
裏庭を通り、自分の宮殿に向かって歩いていく。
クラウスは三年前からエーファの酒場に数ヶ月に一度通っている。
最初は現実逃避のために城を飛び出し、たまたま目についたあの酒場で飲んでいたが、今ではエーファという癒やしのために通っている。
数ヶ月に一度しか行かないし、いつも店の端で飲んでいるから覚えられていないだろうが。
エーファ……、優しく、いつも笑っている美しい少女。
君と一度でも笑い合えたなら……。
「おや、王太子殿下。またお出かけになっていたのですか」
後ろから中年の男の声がした。
クラウスは途端に腹立たしさを覚えた。
クラウスは振り返る。
そこにはやはりクラウスの大嫌いな男が立っていた。
デネブ・マルティス。
大臣の一人だ。
クラウスがマルティスを嫌いである所以は、クラウスの母を馬鹿にしているからだ。
クラウスの母ナターシャは元々子爵家の令嬢で、王宮で侍女として働いていた。
身分は低かったが、国王であるクラウスの父バルトロメウスに見初められ、王妃になった。
しかしクラウスが五つの時に病死してしまった。
バルトロメウスはナターシャただ一人を深く愛していたので、愛人も作らず、再婚もせず、子供はクラウスしかいないのだ。
マルティスは子爵令嬢の子が王位継承権を持っていることが気に入らないというわけなのだ。
マルティスは意地悪い笑顔を浮かべて言う。
「今は国王陛下は目を瞑っておられますが、あまりにも回数を重ねるとどうされるかわかりませんよ」
ローブを脱ぎながら、クラウスも笑みを作った。
「父は寛大なお方だから、きっと許してくださるだろう。もし父が良くないと判断されたとしても、忠告してくださるはずだ」
マルティスの弧を描いている唇の端がぴくりと動いた。
「……左様ですか」
マルティスはそれだけ返事して立ち去った。
クラウスはマルティスの姿が遠くなるまで、マルティスを見つめていた。
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