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翠曽 源氏 著
私の人生に於いて、八十一歳という平均寿命は余りにも中途半端過ぎる。
もし、寿命が二十歳であったら、その数奇な人生を存分に謳歌するのであろうし、寿命が百五十歳程であったら、生きるということをより深く吟味できるのであろう。
しかし現状の人類はその中途半端な形に囚われ、歪み合い、罵る。
寿命を言い訳にし、有利に立とうとする者も居る。
そしてこの文を打ち込んで評判を得ようと目論む私でさえも、寿命を言い訳や隠蔽に使用するのだから、人というのは不思議である。
昨今ではSDGsという問題も度々耳にする。
あれは歴史と人の利点の混じり合いで成り立っているものの他ない。
気づけば皆は不利益を捨て、利益を噛み締める。
利益を噛み締め噛み締め、仕舞いには利益をも放棄する。
私は中学三年生の今を深く見つめたいと思った。
周りの友人は授業のノートと教科書を深く見合わせ、目を充血させる程にまで追い込まれている。
私は勉学が堪能ではないし、興味が無いので軽くノートをまとめて音楽を聴く。
「中学受験は今後の人生を大きく変える」
「勉学をすれば内申で有利になる」
等という教諭の教えもあったが、私は正直その教えに全く動じなかった。
動じられなかった。
成績でしか自分を認めてくれない人達に人生を穢されることに嫌気がさした。それよりも継ぎはぎの思考と気持ちが巡り合う駄作な人生を送った方がさぞ良かった。
がしかし、このご時世では高等学校卒業はもはや必須となっている空気がある。
周りの圧というのはとても醜く悍ましい。
この日本では特に。
この圧の逆境に私は耐えられなかった。
結局は言葉に動じていないと主張すると共に、気づけば自分が動じている。
「ミイラ取りがミイラになる」
全くだ。
そのくせ、ミイラを狩る者は自分がミイラになっていると気がついていないのである。
タチの悪い、信憑性に欠けるミイラ取りに自分は成り下がっていた。
こうなってしまっては仕方がない、と自分を正当化して繰り返すのが人間だ。
それが一般的な考え方だ。
その一般の圧までも嫌ったのが中学二年生までの自分である。
日本刀を作る上での玉鋼のように、私は重く、硬く赤められる。
その後で、周りの圧という名の槌で撃たれる。
その世間の形を「相槌を打つ」というのだ。
大人も子供もペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコペコ。
頭をいつ上げるのか解らぬ程に頷いている。
頭を下げられる方も、誰かには頭を下げる。
中学二年生の私はその繰り返しを笑っていたが、三年になると流石に笑えなくなってきた。
その逆行を貫いてきた人だって大勢いる。
中でも岡本太郎殿は、私の思想に於いての師匠だった。
「自分の中に毒を持て」
これは岡本氏が著した書物の主題でもある。
この書を見た時、私の脳に雷鳴が轟いた。
感動だった。
全身の毛が逆立った。
その時から、私の中での教諭は岡本氏で決まった。
この文は決して岡本氏の本を絶賛するものでは
ない、が、それ程までに岡本氏の力は私を震撼させた。
生きることは決して良いことという訳ではない。
死にたいのであれば一度死んでみてほしい。
みんなが自殺を批判し、殺害を反対している現状で、新しい形だと感ぜられる。
殺害の場合は、被害者が非常に不利である。
被害者は混沌なこの世間にまだ滞在していたいと志願しているのだとすれば、身勝手で嫌悪な事であるし、自分の欲のために犠牲にするものが多量すぎる。
自殺の場合は批判される意味が私には理解ができない。
自殺をする程にこの世を憾み、簡単でない死という方向に懸命に取り組んだ形が自殺であるはずなのに、皆はその新しい形を悲しみ、嘆く。
自殺に臨んだ者の墓の前では、よくやったと励ましてやろうではないか。
そして自殺までに追い込んだ人は、死んでも自殺者の墓の前で「そんなつもりは無かった」等と口にするものではない。
それは殺人と変わらない。
口にするのであれば「貴方の生と死に対する試み、仕方心に刻みました。有難う御座います」
と感謝の念を押すべきだ。
私は地獄とか極楽とかという珍妙な考えを信用しない。
その証拠に、私は神や仏という異質な存在を信じない。
その考えでいると、人間関係の疑いになり、自分の甘えになってしまうからだ。
身近なことで考えてみよう。
例えば給食中のお代わりジャンケンで考えてみてほしい。
自分がグーを出すことを神に誓い、ポンと同時に拳を前に突き出す。
周りは全員パーだったら貴方はどう考えるだろう。
「フルーツポンチ食べたかったな…」
で終われるだろうか。
そこで終われるならそれで結構。
しかし、心の中には必ず
「神に誓ったのに」
という疑いと、自分の責任ではないという甘えが生じる。
私はそれが嫌いなのだ。
いじめに於ける主犯と同じ様に
「自分は直接的に手を出していない」
と類似されることは間違い無い。
それでも平気で生きられる人は、もはや崇められるべきだと考える。
文はここまでにしようと思う。
誤字脱字、意味の履き違いはどうか見逃して欲しい。
そんな中で私の考えに興味を持ったならば、是非次回も見てほしい。
人はいつでも思春期で、甘酸っぱいものだ。
それでは、グッドラック。