テラーノベル
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面会室を出た途端、一花は壁へ手をついた。
張り詰めていた糸が切れたように、足から力が抜けそうになる。
「桜井さん」
すぐ隣から神崎の声がした。
「座れますか?」
「……大丈夫です」
反射的にそう答えてから、自分でも大丈夫ではないことくらい分かっていた。
たった今、自分の家に火をつけた男と向き合った。母を奪った男が、笑いながら「しあわせ」と繰り返すのを目の前で聞いた。
怒りなのか、恐怖なのか、それとも別の何かなのか。
胸の奥でいくつもの感情が絡まり合い、まだ息苦しさが残っている。
「無理はしないでください。少し休んでいきましょう」
神崎に促され、一花は廊下の壁際に置かれた長椅子へ腰を下ろした。
足に力が入らず、座った途端に全身の重みが一気に押し寄せてくる。
「……すみません」
「謝る必要はありません」
神崎は一花のそばに立ったまま、静かに様子を見守っていた。
急かすことも、無理に声をかけることもない。その落ち着いた気配に、一花はようやく少しだけ呼吸を整えることができた。
「……先生」
「はい」
「あの人、夫の借金のことまで知ってました」
神崎が一花を見る。
「水野本人には?」
「話したことなんてありません。というより……水野とは、会話をしたことさえ一度もありません」
つきまとわれていたからといって、俊介が抱えていた借金の事情まで分かるはずがない。
それなのに水野は、まるで以前から聞かされていたことのように口にした。
「誰かから聞いたみたいに思えて……」
「水野に、あなたのことを話した人がいるかもしれないと?」
「……分かりません」
一花は唇を噛んだ。
考えすぎかもしれない。けれど、水野が「助けたかった」と繰り返していたことまで思い返すと、どうしても引っかかった。
「水野は、私がつらかったって言ってました。だから助けたかったって。でも……私が何に悩んでたのかなんて、あの人は知らないはずなんです」
神崎はしばらく考えるように黙っていた。
「今の話だけでは、第三者がいるとは言い切れません」
「……はい」
「ただ、水野がどうやってあなたの個人的な事情を知ったのか。それは確認する価値があると思います」
一花は小さく頷いた。
そこで話を終えるつもりだった。
けれど、どうしても胸に引っかかっていることが、もうひとつある。
「それに……」
口にするのをためらい、一花は一度視線を落とした。
「さっき、水野が『えらい』って言ったんです」
「えらい?」
「しんどいとか、つらいっていう意味で。東海の方で使う方言みたいで……」
そこまで言うと、心臓が嫌なほど大きく脈打った。
「……私の友人が、昔その言葉をよく使ってたんです」
神崎は何も言わず、一花の続きを待っている。
「高校に入る少し前まで名古屋に住んでいて。普段は標準語なんですけど、ときどき昔住んでいた土地の言葉が混じることがあって……」
「その友人と、水野に接点があるんですか?」
「分かりません」
一花はすぐに答えた。
「ないと思います。だから……ただの偶然かもしれません」
そう言いながらも、自分の声に確信はなかった。
俊介の借金を知っていたこと。
そして、水野の口から出た、聞き覚えのある言葉。
(まさか、そんなはずない)
偶然であってほしい。
そう思えば思うほど、胸の奥に芽生えた疑念は消えてくれなかった。
水野との面会から、数日が経った。
一花はカフェの窓際の席に座っていた。テーブルの上には、ほとんど口をつけていないアイスティーが置かれている。
向かいにいるのは、高校時代から何でも話してきた親友だった。
「急にどうしたの?」
奈緒が不思議そうに笑いながら、アイスコーヒーのストローへ手を伸ばす。
「何かあった?」
いつもと変わらない声で、いつもと変わらない表情だった。
一花はすぐには答えられなかった。
奈緒には、何でも話してきた。俊介と付き合い始めた時も、結婚した時も、悠真が生まれた時も。
そして俊介が借金を背負った時、不安で仕方がないと打ち明けたのも奈緒だった。
奈緒はいつだって、自分の話を聞いてくれた。だからこそ、疑いたくなんてなかった。
水野が使った言葉だって、ただの偶然かもしれない。考えすぎなのかもしれない。
それでも、確かめずにはいられなかった。
「ねえ、奈緒」
「ん?」
一花は膝の上で手を握りしめた。心臓が、嫌なほど大きく鳴っている。
それでも視線は逸らさず、奈緒の目をまっすぐに見つめた。
「ひとつ、聞いてもいい?」
「なによー? そんなに改まってさ」
一花は迷いを振り切るように、指先へ力を込めた。
「水野翼と……会ったことある?」
コメント
1件
いや、最後の「水野翼と……会ったことある?」で持ってかれた……。一花が水野の口にした「えらい」って方言に引っかかって、親友の奈緒にたどり着く流れ、ゾッとした。あの「急にどうしたの?」って自然な笑顔が逆に怖い。偶然であってほしいって願うほど胸が締め付けられる描写、すごく好きです。続き、気になりすぎる……!
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きなこもち
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