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神崎の声が背後に遠ざかっても、耳の奥にはまだ残響がこびりついていた。「くだらない」なんて自分から吐き捨てたくせに、胸の奥ではそのひと言で針が刺さったみたいに疼いてしまう。
奏の手を握る指先が、無意識に強くなった。
「蓮……痛い」
小さく言われたことで、慌てて力を緩めた。
(――俺はいったい、なにをしてるんだ)
歩道を並んで歩きながらも、視線は前だけに向けたまま。隣にいるはずの奏が、なぜか遠くに感じられる。冬の匂いを帯びた風が間をすり抜けていくたびに、その距離が目に見えない形で広がっていくようだった。
頭の中では、必死に言い聞かせる。
(神崎がなにを知っていようと関係ない。俺の隣に奏がいれば、それでいいじゃないか)
――けれど、そのたびにあの「全部か?」が蘇り、不安は色濃くなっていく。
「蓮、本当に大丈夫? さっきから顔が……」
「大丈夫じゃない」
言葉がこぼれた瞬間、奏が目を何度も瞬かせる。その顔を見たら、もう止められなかった。
「神崎が奏のなにを知ってるかなんて、実際どうでもいい……そう思いたいのに、どうしても引っかかる。奏が俺に話をしてないことがあるんじゃないかって勝手に想像して、胸がざわつくんだ」
自然と呼吸が浅くなる。爪が手のひらに食い込む勢いで、拳を握り締めた。
「もし神崎の言葉に、一片でも真実があったなら――俺は、胸の奥を素手で握り潰されるみたいに、どうしても耐えられない」
吐き出した瞬間、冷えた空気が肺に刺さった。自分の弱さを、奏に晒すつもりなんてなかったのに。
奏は驚いた表情のまま視線を落とし、やがて静かに名前を呼んだ。
「……蓮」
その声は責めるでも慰めるでもなく、やけにまっすぐで。逆に胸の奥が締めつけられる。
「そんなふうに思わせて、ごめんね」
そして、目を逸らさずに続ける。
「全部話せって言われたら……すぐにはできない。でも、隠したいわけじゃない」
奏は一度口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。沈黙が重く垂れこめる。やっと絞り出すように、かすかな声で言った。
「ただ怖いんだ……言ったら、蓮が離れていくんじゃないかって」
呼吸が止まる。離れる? 俺が? そんなこと――。けれど奏の瞳は、本気でそう信じている色を滲ませていた。
(俺の不安と奏の恐れ。形は違っても、根は同じなんだ……)
胸の奥の苛立ちが、ゆっくりと別の感情に変わっていく。冷えた指で奏の頬に触れると、その肌は少しだけ温かかった。
「奏……俺は絶対に離れない」
その言葉に奏は大きく目を見開き、そしてゆっくりと笑った。安心と不安が入り混じった、複雑な笑みで。
「……蓮も、不安になるんだね」
「当たり前だ。奏のことになると、簡単に冷静じゃいられない」
口にした途端に、胸の張り詰めた糸が少し緩む。
「俺……神崎と話をしてる奏を見てると、勝手に嫌な想像をしてしまう」
言葉にした瞬間、それが嫉妬だけでなく、置いていかれる恐れだと気づいた。
奏はわかったように、小さく頷く。
「……俺もだよ。蓮が誰かと楽しそうにしてたら、胸がざわつくんだ」
「じゃあ俺たち、似た者同士だな」
「うん。なのにお互い遠慮して言わなかったから、こうしてすれ違っちゃったんだね」
奏は俺の手を握り返す。その温度が、冷えた指先にゆっくりと染み込んでいった。
「蓮、これからは……嫌なことはちゃんと言おう。黙ってると、勝手に悪い想像が膨らむから」
「ああ。奏が言いにくそうなら、俺が引き出す」
「じゃあ蓮、俺がしたいことを当ててみてくれる?」
つないだ手を少しだけ引っ張り、上目遣いで訊ねられた言葉に首を傾げた。
「今ここで、奏がしたいこと?」
「そうだよ。蓮と気持ちがつながったから、もっと仲良くなりたいなって」
そう言った奏の頬が、ぽっと赤く染まった。しかし強請られていることが、さっぱりわからない。
「悪い。仲良くなりたいと言われても、なにをすればいいのやら……」
顎に手を当てて考えてみたものの、この関係を深めるような行動が思い浮かばない。
「……蓮とキスがしたい」
蚊の鳴くような小さな声で告げられた瞬間、頭が真っ白になった。顔どころか耳の先まで熱くなり、思わず握っていた奏の手を放り投げてしまう。
「きっ、キキキキっ!」
壊れたおもちゃみたいな奇声が口から飛び出し、自分でも止められない。そんな俺を見て、奏はお腹を抱えて笑い出した。
「蓮、落ち着いて。ごめんね、急に無理を言って……ぷぷっ!」
まだ笑いが収まらない奏。その顔を見ているうちに、胸の奥でなにかが弾けた。
(唇はまだ、怖い――でも、この想いだけは伝えたい!)
気づけば体が勝手に動き、細い肩を抱き寄せたと同時に奏の頬に自分の唇が触れた瞬間、全身の血が逆流するように熱くなった。
「んっ!」
驚いた声とともに、奏の体がびくりと震える。頬の柔らかさと、そこに宿る微かな体温が直接唇に伝わってくる。心臓がやかましいほど暴れて、息がうまくできない。
そっと離れると、奏はまだ驚きの中にいたようで、瞬きを繰り返していた。けれど次の瞬間、頬をさらに赤く染めて、恥ずかしそうに笑う。
「……蓮、ありがとう。すっごく嬉しい」
その笑顔を見たら、こちらも笑うしかなかった。視線が重なり、どちらからともなく息をはく。
夜風が柔らかく吹き抜け、街の灯が遠くで瞬いている。その光はまるで、小さな約束を祝福しているみたいだった。