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うちの実家に宗親さんとともに挨拶に向かったのがほんの2週間ほど前。
その際、宗親さんが柴田の婿養子に入ることも、生まれてくる子供を柴田の方の養子に出すことも拒まれて。
結局その日のうちには結婚にOKをもらえなくて不安になった私に、宗親さんは大丈夫ですよ、とおっしゃった。
私、宗親さんのことは信じたかったけど、一方ではそこで話が頓挫することも十分あり得ると覚悟していたの。
でも、結果は宗親さんの言った通り。
今まで父や祖父の言いなりになっていた母と祖母が決起する形で呆気なくことなきを得てしまった――。
「春凪の家の方の問題は、うちの母が動いてくれれば何とでもなると最初から分かっていましたから」
リビングで、スーツ姿のままソファーに腰掛けてひとりウィスキーを嗜んでいらした宗親さんに、母からの電話の内容を伝えたら、例の腹黒スマイルを浮かべてそうおっしゃって。
私はそんな彼に、だったら教えてくださっても良かったのに、と思って唇を尖らせた。
そんな私の様子なんてどこ吹く風。
「キミも飲みますか?」
日本産のラベルがついたウィスキーのボトルに視線を投げかけられ問われた私は、ちょっぴり躊躇いモード。
だって宗親さんは入浴前で、まだしっかりとスーツを着込んだままなのに対して、お風呂上がりの私は――ナイトブラこそ身につけてはいるものの――割と薄手の半袖にハーフパンツのパジャマ姿なんだもの!
よく見たら、襟ぐりのところも開きすぎかも!?って思って。
母からの電話の内容が衝撃的すぎて、考えなしにこんな格好のまま宗親さんの所まで来てしまったけれど、防御力に差がありすぎる気がしますっ!
な、何か1枚羽織ってくるべきでしたぁ〜!
***
「そう言えば春凪。ブルーチーズはお好きですか?」
服が宜しくないし、どうやって部屋に戻ろうかな?とか考えていたはずなのに、ふと思い出したようにそう問い掛けられた私は、思わず「大好きです!」と身を乗り出してしまう。
同居を始めてすぐ、私が無類のチーズ好きだとバレてしまってから、私の機嫌が悪くなるとそれを懐柔するみたいにチーズを引き合いに出されるようになった気がする。
冷蔵庫の中。宗親さんがそんな目論見のもと溜め込んだと思しき高級そうなチーズが、いくつかひっそりとストックされているのを私、知ってるんだから。
(あのチーズ、いつもどこから仕入れておられるのかしら)
宅配便が届いている気配はないのに増える、スーパーなどでは見たことのない銘柄ばかりの高級チーズに、私の大好物への興味はいや増すばかり。
そう言えばお酒類もそんな感じで増えている気がするから、お酒とおつまみセットでどこかそう言うのを入手できる特殊な裏ルートでもお持ちなんじゃないかしら?とか、ソワソワしてしまう。
でも、さすがにいくら一緒に住んでいるからと言っても勝手には食べられないから、いつも「いつ解禁してくださるかな?」と指を咥えて見つめているわけだけど。
それを、宗親さんは大抵毎回こんなタイミングで出していらっしゃるの。
***
今日は宗親さんとしっかりお話したいから、酔わないようにロックじゃなくて水割り。
冷蔵庫から出してきたミネラルウォーターと、向こうが見えてしまうくらい透き通ったカチ割り氷で作った水割りをひとくち含んだ私に、
「ロックフォールです」
食べやすい大きさにカットされたブルーチーズが、宗親さんからタイミングよく差し出される。
ちょっ、宗親さん!
ロックフォールって、羊乳原料のブルーチーズじゃないですかっ!
私これ、お店でしか食べたことないですっ!
興奮のあまり、お行儀悪く直に手でつまんで小さく齧っちゃったけど、叱られなくてホッとする。
ロックフォールは塩味がかなり強めだから、ちょっとずつ食べるのが好き!
その塩味と芳醇な香りの中に、青かび由来の独特な鋭い酸味が光って、「そうそう、これこれ♥」と思いつつ。
チーズの風味が消えないうちに、森薫ると謳われるジャパニーズウィスキーを迎え入れたら、口の中に絶妙なハーモニーが吹き抜けた。
最近バタバタして行けていないけど、お気に入りのバー『Misoka』でもバーテンさんからこの組み合わせ、お勧めされたっけ。あーん、沁みるっ!
そう言えば、宗親さんと出会ったのもあのバーだったよね。
もう少し落ち着いたら一緒に行けたりするかな?
ほたるにも会えてないし、彼女とも行きたいなぁ。
「くぅ〜! 最高です!」
そんなことを考えながら思わずつぶやいて、ニンマリ笑顔になる。
ふとそこでその様子を宗親さんに生暖かい目で見守られていると気付いた私は、慌ててピシッと姿勢を正した。
「う、うちの事情をご存知なんだったらっ……ま、前もって一言ぐらい教えてくださっても……よかったのに!」
しどろもどろになりながらも何とか不機嫌顔を取り繕いながらそう言ったら、「春凪だって自分のあちらでの立ち位置を僕に話してくれていなかったじゃないですか」と即座に返された。
それを言われてしまうと何も言えなくて言葉に詰まってしまう。
今時そんな前時代的な風習が残っている家に生まれたなんて、知られたくなかったんです。
何よりそれを知られてしまったら、宗親さんから「そんな面倒な女性との契約は、やっぱり反故にしたいです」と言われてしまうんじゃないかという不安があったんですもの。
だけどそんなこと、口が裂けても言えないじゃないっ。
どうしてそんなこと思ったの?って聞かれてしまったら、私は宗親さんを好きになってしまったことを隠し通せる自信がなかったから。
そんな心の葛藤を、頭の中でひとりこねくり回して。
ブルーチーズを小さく削り取るように味わいながら、チビチビとウィスキーで口の中を湿らせる。
***
「――前もって私が話していたら、葉月さんの手を煩わせたりしませんでしたか?」
そこだけちょっぴり気になってしまった。
もしそうなら申し訳なかったな、としゅんとしながらすぐ隣に座る宗親さんを見詰めたら、頭をクシャリと撫でられた。
「まぁ春凪が言ってくれなくても、先ほど申し上げたように僕は最初からキミの事情は全部知っていましたから。その上でこう動くのが一番と判断したわけですし……どのみち経緯は変わらなかったと思いますよ?」
私が萎れたことを気遣うみたいにそうおっしゃって。
「おかしいですね。僕が腹黒ドS上司だっていうの、お忘れになられたんですか?」
クスッと笑われて、「そっ、それはっ」と弾かれたみたいに宗親さんの方を身体ごと向いたら、「春凪からの評価ですよ?」と意地悪く笑うの。――すっごくズルイ。
「い、今はそんなこと――」
思ってません。
言おうとして、いや、そもそもこうやってしおらしくしている私をおちょくってくる時点でやっぱり腹黒ドSだよねって思い直す。
宗親さんはローテーブルからご自分のグラスを取り上げるとひとくち飲まれて――。
「冗談はさておき攻略相手の情報収集はビジネスにおいては基本の〝キ〟ですから」
とおっしゃった。
ついでのように、例の腹黒スマイルとともに、私を抱き寄せようとしてきた宗親さんにドキッとさせられて。
避けなくてもいいのに心臓がバクバクしているのに気付かれたくなくて咄嗟に彼の腕をかわすと、私はグラスとチーズを手にしたまま宗親さんからほんの少し距離をあけてソファー前に立った。
「晴れて障害がなくなったというのに、僕の婚約者殿はフィアンセに対して随分塩対応ですね」
そんな私を見上げて、宗親さんってば
「――やはりすぐ酔って頂けるよう、ロックをお勧めするべきでした」
などと不穏な一言を付け加えるの。
言葉とは裏腹、楽しそうにクスクス笑うと、宗親さんはご自身の横をポンポンと叩いた。
「――もうしませんから。座って?」
私はそんな宗親さんに反抗して、ソファーには座らず、前に敷かれたラグの上に座る。
宗親さんはそんな私の様子に珍しく一瞬だけ瞳を見開くと、諦めたように小さく吐息を落とされた。
――ごめんなさい、宗親さん。きっと可愛げのない女の子だって思われましたよね?
――ごめんなさい、宗親さん。きっと可愛げのない女の子だって思われましたよね?
私も素直になれない自分のこと、常々そんな風に思ってます。
それでも……これだけは言わせて欲しい。
「い、今の織田家が、柴田と同じだったなんて、私、知らなかったです……」
――好きな人のことなのに、少し調べれば分かったかも知れないことを知らなかったのが、実は結構悔しくて情けなくて……私、自分が許せないのです。
だからね。今は貴方に甘える資格がないと思っているとか……。可愛げがない理由はそれなんです、だなんて……声には出せない本音だよ?
***
今の織田家は、元々葉月さんの方の家系らしく、ご主人で現当主の嵩峰さんは、うちの父同様婿養子さんなんだとか。
葉月さんは一応ご主人を立てる形で表舞台には出ておられないけれど、実際の発言力などは嵩峰さん以上らしい。
要は影の支配者と言った感じ?
母がマシンガントークで興奮気味に話してくれた、「織田さんのお宅も、柴田と同じだったのよ!」という言葉を思い出す。
通りで何事に関しても効率重視の宗親さんが、最初っから葉月さんにターゲットを絞って私を認めさせようとしていたわけだと、今更のように得心したの。
「――まぁ、僕が話さなかったですからね」
即座に何でもないみたいにそう返されて、それでも宗親さんは私が話さなくてもうちの事情、ご存知だったじゃないですか、と心の中で不貞腐れる。
もっと言うと、私はうちの父や祖父が……というより歴代の柴田の当主たちの大半が、婿養子だと言うことさえ知らなかったの。
父や祖父にとっては、自分たちが必死に守っている家が、実は婿入りした先の家だと言うのは余り知られたくない事実だったのかもしれない。
そうして本来の血筋であるはずの柴田の女性陣が、長い歴史の中で迎え入れたはずの入り婿に服従することに慣れすぎて、男性に隷属することを当たり前だのように受け入れていたから、そんな事実があるだなんて私、露ほども気付いていなかった。
柴田の血を本当の意味で繋いでいたのが、母や祖母だったなんて。
***
「宗親さんはいつもそんな風に逐一計算ずくで行動していらっしゃるんですか?」
思わずそう聞いてしまって、慌てて口を覆ったけれど後の祭り。
私は逆に宗親さんを見習ってもう少し計算して動いたほうがいいかもしれない。
誤魔化すように水割りをグイッと煽ったら、その様子をじっと見詰められて照れてしまう。
――ヤバイ。お酒、回りそう。
宗親さんは私の失言とも言える言葉にクスッと笑うと、「僕は春凪のそういう真っ直ぐなところが大好きですよ」とおっしゃるの。
この人たらしさんめ!
大好きとか言われたらドキッとしちゃうじゃないですかっ。
絶対騙されないんだから!と思いながらも、すっごく好みのハンサムさんからそんなことを言われてときめかないなんて本当に難しい。
ましてや私は宗親さんご自身にはバレないよう頑張ってはいるけれど、とっくの昔に彼に落とされている身。
頬がぶわりと熱を帯びたのを感じながら、「かっ、揶揄わないでくださいっ」と懸命に声を絞り出した。
「揶揄ってなんていませんよ、春凪。僕はキミのことを春凪が思っている以上に気に入っています」
ここで宗親さんが〝愛して〟います、とか、先に告げたみたいに〝大好きです〟とか重ねて言って下さったなら、私、もしかしたらちょっとは本音が混ざってる?とか、ほんの少しくらいは心安らげたのかもしれない。
けれど実際の宗親さんの言葉選びは本当秀逸で、決して私に夢見がちなままでいさせてはくださらないの。
「――で、いつも僕が計算ずくで動いているか否か、でしたよね? 答えは否です」
宗親さんの言葉にひとりで勝手に翻弄されているうちに、いきなり話を変えられた私はキョトンとしてしまう。
確かにその質問を投げ掛けたのは私だけど、いきなり今の流れでそこに話を持っていくのはおかしい気がして。
「……宗親……さん?」
ソワソワしながら宗親さんを見つめたら、クスッと笑われた。
「関連がないように聞こえました?」
聞かれて、なんで全部見透かされてるの!?とドギマギする。
「春凪はね、とっても分かりやすいんですよ。本当可愛い」
ここへ来て今度は〝可愛い〟のチョイス。
宗親さんはどれだけ私を振り回せば気が済むんだろう。
ホント酷い人……。
そう思って彼を見詰めたら、スイッと近付いて来た宗親さんに、いきなり手の甲へ口付けられて、私は「ひ、ぁっ」と変な声が出てしまう。
「僕がね、綿密に計画を練ってことを運ぶのは本当に欲しいものが出来た時だけです」
ニヤリと極上の腹黒スマイルを浮かべられて、私は彼のそういう言動の全てが計算のうちなんだと解っていながらも、頬が赤らんだのを感じて。
その顔を宗親さんに見られたくなくて思わずうつむいた。
宗親さんを好きな気持ち、ご本人には絶対に勘付かれたくないのにっ。
こんな風にちょいちょい甘い雰囲気を挟んでこられたら、今にもボロが出そうになって困るじゃないっ。
最初から利害の一致からきた偽装結婚なのに、その相手に本気になってしまうのほど愚かなことはない。
そう解ってはいても――。
結露に覆われたグラスに、手の熱がじわじわと奪われて、「身のほどを弁えろ」と言われている気がして――。
私は中身をぐいっと飲み干すと、宗親さんを睨むように見据えた。
「宗親さん、おかわりくださいっ! 今度はロックで!」
飲まずにはいられない気持ちになった。