テラーノベル
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#一次創作
鬼霧宗作
634
「――痣花さんッ!」なりふり構わず、私は咄嗟に駆け出していた。
今にも崩れ落ちそうな彼女の身体を、寸前でなんとか支える。
「痣花さん!しっかりして下さい!痣花さんッ!」
肩を揺さぶり、彼女の名前を何度も呼ぶ。
けれど、返事はない。
ぐったりと力の抜けきった身体。焦点の合わない虚ろな瞳。
今もなお、額から流れ続けるドロドロとした血液の涙。
よく見ると、彼女の額には鋭利な刃物か何かで真っ直ぐ貫かれたような傷痕がある。
「額に刺創……けど、おかしい」
額には確かに鋭利なもので貫かれたような傷がある。
傷口の形状からして、銃弾の類ではないことは明らかだった。
だが、肝心の凶器がどこにも見当たらない。
私は息を殺し、もう一度周辺をくまなく見回す。
その時、痣花の背後にある壁へ視線が止まる。
一見すれば、ただの真っ白な壁。けれどよく目を凝らして見ると、限りなく薄い繋ぎ目のような線が走っていた。
確証はない。だけどこの状況から考えるなら――彼女の背後の壁から、何らかの殺傷能力をもつ凶器が飛び出して。
後頭部側から額へ向けて一瞬のうちに貫いた。
そう考えるのが、もっとも自然だった。
「皆さん落ち着いてください!それとむやみに壁際へ近づかないでください!」
「ひっひっ、ひぃやぁあああああああああ!!!」
「こ、ここ……殺される!おい開けろ!さっさとこんなとこから出してくれ!!」
……駄目だ。
何度声をかけても、錯乱状態に陥った人間に冷静な判断を求めることなどできない。誰も私の言葉に、まともに耳を貸してくれなかった。
落ち着け、思考を乱されるな。
冷静に考えるんだ。
痣花《あざか》さんの死因が、ボタンを押した事が起因《トリガー》なのだとすれば、十二人に対して、押せるボタンは十一個。
その時点で、誰か一人が犠牲になることは最初から決まっていた……?
いや、本当にそうなのか。
ボタンを押すという行為を放棄した人物が死ぬ仕組みだったのか、それとも、たまたま壁際にいたのがいけなかったのか。
分からない。圧倒的に情報が足りない。
ただ確かなのは、この部屋がただの“仲良しこよし”の場ではないということ。この空間にいる時点で、私たちの命運はすでに誰かの手の中に握られている。
その時だった。
今いる場所の向こう側――ベッドが並ぶ一角から、カチリと何かが作動する音が鳴った。次の瞬間、壁の隙間から金属製のノズルがゆっくりとせり出してくる。
プシュゥウウウ――。
吐き出されたのは、黄ばんで濁った謎の煙だった。
腐ったレモンを想起させる、濁り切った黄濁色。
噴出そのものは控えめだが、じわじわと確実に周囲へと広がっていく。
「ハハ、親切な人達だ。わざわざあんな分かり易くするなんて」
「笑ってる場合じゃないですよ!どういう事ですか?」
混沌とした状況の最中、焦ったそぶりを一切見せず、呑気に独り言を呟く百千切。
「あれは恐らく、”毒ガス”だね」
「毒ガスっ!?」
思わず声が裏返った。
そんなもの、今のご時世――というより、あまりにも非日常的すぎて、脳が理解を拒否している。
「あぁ。もう少し専門的に言うなら、”吸入経路を介して生理機能を撹乱する毒性因子”ってところかな」
百千切は、黄濁色の気体を観察するように目を細める。
「本来こういうのは、無色透明ってのがセオリーなんだけどね。気づかないうちに吸い込んで、気づいた時には致死量到達。はい、即逝きゲームオーバー。殺すだけなら、その方がよっぽど合理的でしょ」
「となると、あえて分かりやすい刺激色にして、私たちに気づかせようとしている……」
「正解~。瑠璃ちゃん賢いねー」
「っ!そんな呑気に話してる場合じゃありません!」
黄濁色の毒ガスは、この間もじわじわと広がり続けている。
呑気な百千切《ちぎり》を無視し、あらためてあたりを見回した。
ガスマスクのようなものは――当然存在しない。
そもそもこの部屋には、真っ白なベッドと真っ白な机以外、使えそうなものなど何ひとつない。
(っ…!どうすれば……)
その時だった。
「かは……っ!」
鈍い音が響いたかと思うと、誰かの身体が勢いよく壁へ叩きつけられる。
「は〜あ。ほんっと邪魔。胸だけ無駄にデカいメス豚が。いつまでメソメソしてるわけ?」
吐き捨てるような、冷酷でひどく通る声。
その声の主は、壁に倒れかかる烈々子を見下ろしながら、あからさまに嫌悪を顔に浮かべている。
金色《こんじき》のショートヘア。
白を基調に、煌びやかな装飾をこれでもかとあしらったドレス。
一見すれば、高貴な出自のご令嬢にも見える。
けれど、その華やかさはどこか成金めいていて、気品というよりは虚飾。優雅さというよりは自己顕示。
身に纏う煌びやかさのすべてが、自分の価値を誇示するためだけに存在しているような。他人すべてを見下している、冷たく歪んだ傲慢さが滲み出ていた。
「メソメソしてれば、お優しい誰かが慰めてくれるとでも思った?キモいんだよね〜そういうの。ここ、アンタの慰め会場じゃないんだけど?」
「げほっ……げほっ……!」
壁際に崩れ落ちた烈々子は、腹部を押さえながら苦しげに咳き込む。
「うう……うぅう……!ごめんなさい、痣花ちゃん、ごめんなさい……ごめんなさい……!」
震える声で、何度も謝罪を繰り返す。
だが、金髪の女は眉ひとつ動かさず冷酷に告げる。
「……はぁ?今さら死人に謝ってどうすんの?おバカさんなの?そんな暇があんなら、さっさとあのガス止めてこいよ。元はといえば、アンタが余計なこと言い出したせいでこうなったんでしょ」
「そ、そんな……!」
「ちょっとでも責任感じてんならさぁ?あのノズルを情けなく咥え込んで、毒ガス全部ひとりで受け止めてみろよ。そしたら少しは許してあげてもいいかもね?キャハハハハハッ!!」
「――いい加減にして下さい」
「なに?アンタはこのメス豚の味方す――」
最後まで、言わせてやるつもりなんてなかった。
気づけば私は、目の前にいた女の顔面を力任せに殴りつけていた。
骨と骨がぶつかり合うような、鈍い感触が拳を伝う。
我ながら、人の顔をここまで全力で殴った|記憶《こと》はない。
平手打ちすらろくにしたことないのに、初めて強く握りしめた拳は、驚くほど迷いなく振り抜かれていた。
「痛っ……!な、何すんだこんのクソガキァッ!!!」
よろめいた女が目を見開き、金切り声を上げる。
けれど知ったことじゃない。もう黙れとしか思わなかった。
「静かにしてください。これ以上好き勝手ほざきわめくなら――その口で、あそこのノズルを塞いでもらいますよ」
私は毒ガスが噴き出る金属のノズルを指差した。
「ちぃ……偉っそうにぃ!わ、私を誰だと思ってるの!!」
「知りませんよ。別に興味もありませんし」
「っ……いい度胸ね。いいわ、弱い者いじめには飽き飽きしていたところだし。アンタ名前は?見たところ学生のようだけれど」
「瑠璃です。どこにでもいるごく普通の――人並みの”倫理観”と”道徳心”をもった、女子高生ですよ」
「……その見下した表情……!っ覚えてなさい!」
彼女は忌々しげに吐き捨てると、ドレスについた埃を払うような仕草をして、そのままどこかへ立ち去ろうとした。
「待ってください。あなたの名前をまだ聞いていません」
彼女は一瞬だけ足を止めると、こちらを振り向くことはなく、そのまま小さな声で呟いた。
「……梯宮《うてなみや》忍不《しのぶ》」
そう言い残すと、梯宮と名乗った彼女は、私たちから距離を取るように反対側の壁際へと去っていった。
梯宮……珍しい苗字だ。
やっぱり、どこか由緒正しい家柄の人だったりするのだろうか。感情に任せて、ついあんな言い方をしてしまった。
冷静さを取り戻した途端、ほんの少しだけ自分の言葉のきつさを反省する。
「瑠璃ちゃん……ありがとうっ。わたし…わたし……」
「自分を責めないでください。烈々子さんは間違ってませんから」
私は烈々子を安心させるように、その肩へそっと腕を回し、できるだけゆっくりと身体を起こしてやった。
「大丈夫です。あの毒ガスは、私がなんとかします」
✳︎ ✳︎ ✳︎
毒ガスが噴き出し始めてから、すでに少し時間が経っている。
まだ部屋全体に充満するまでには、多少の猶予があるように見えた。だが、正確にあとどれだけの時間が残されているのかは分からない。
それに、今までと同じペースで噴出され続ける保証もない。
何もせず、ただ手をこまねいていれば――全員揃って仲良く中毒死。烈々子にはああ言ったものの、事態は完全に膠着していた。
「んー天井高は3メートルちょい。床面積が縦横8×14とすっとー・・・容積は381 m³っつーとこか?」
不意に背後から聞こえた声。そこにいたのは色の濃いサングラスをかけた男だった。口元には、どこか余裕ぶった笑みが浮かんでいる。背格好は私より少し大きいくらい。
ろくに手入れもしていなさそうなくすんだ緑髪を、整髪料で無造作に遊ばせていた。
「あなたは?」
「菖蒲原《あやめばら》 逢賭《かける》ーーふっ、PN(プレイヤーネーム)“キルル”といえば、ご存じかな?」
「いえ、存じ上げません」
「なっ!!?もしかして、PABGをご存じでない!?」
「なんですかそれ」
「ぐっ…!仮にも最盛期はアクティブプレイヤー”3000万人”の|化物《バケモン》タイトルだぞ……俺はその中でもプロゲーマーとしてだな、一時期は沢山のメディアにもひっぱりだこだったからして――」
「は、はぁ…」
私のそっけない返答など気にも留めず、|菖蒲原《あやめばら》という男はべらべらと悠長に自分語りを続けている。
……まるで空気が読めていない。
ついさっきまで生きていた人間が、すでにここで死んでいる。
しかも今この瞬間も、私たちは毒ガスに追い詰められ、刻一刻と死へ近づいているというのに。
それなのに、この男からは焦りというものがまるで感じられなかった。
「あ、あの、そんなことより大変なんです!早く|ガス《アレ》をどうにかしないと、全員揃って死」
「わーってるよ!焦らせんなって!時間はまだある」
そういうと、男はもくもくと立ち上る黄濁色の気体を指さし叫んだ。
「オマエら!大人しく指示通り動いてくれ!できるだけ姿勢を低くして、吸い込まないよう気をつけろ!タイムリミットは六分だ!その間に打開策を探してやる!」
「何でわかるんですか?残り時間が六分って」
「あー、俺ってばちょっとした“特技”があんだよね」
菖蒲原は得意げにサングラスをクイっと上げる。
「空間認識能力《くうかんにんしきのうりょく》っつーヤツ。説明するのはだるいから省くけど、この部屋の広さ、天井の高さ、ガスの広がる速度……そういうのを見れば、大体の限界時間は読めるんだよね」
空間認識能力。それは簡単に言えば、目に見えた空間を頭の中で立体として把握する力だ。
例えば、離れた場所にあるゴミ箱へ紙くずを投げ入れる時。
狭い道で、人や壁にぶつからず歩く時。
車の運転で、車幅や距離感を感覚的に掴む時。
人は無意識のうちに、空間の広さや物との距離を測って過ごしている。
だが、菖蒲原の場合はその精度が桁違いだった。
一目見ただけで、部屋の縦横や天井高をおおよそ把握し、空間全体の容積まで弾き出す。さらに、広がっていく毒ガスの速度から、部屋全体が危険域に達するまでの時間まで逆算している。
軽薄そうな見た目に反して、彼の頭の中には、この部屋の立体図がすでに完成しているのだ。
菖蒲原に指示された通り、私たちは有毒ガスの噴射口からできるだけ離れた位置で姿勢を低くした。
無論、これだけでは全く根本的な解決には至っていない。
窓も扉もない以上、毒ガスがひとりでに外へ逃げていくことはない。ならば、噴出口を塞ぐか。
あるいは、どうにかして破壊するしか。
ベッドのシーツを引き剥がして、噴出口へ無理やり詰め込むのはどうだろう。
……いや、駄目だ。
ガスマスクもない状態で噴出口へ近づくのは、自殺行為に等しい。それに、噴出口は壁の高い位置にある。
誰か一人が肩車をして、ようやく手が届くかどうか。
そうなれば、必然的に土台になる側は口元を塞ぐことすら難しい。おまけに、そんな無謀な役回りを進んで引き受ける人間がいるとも思えなかった。
「あっ」
その瞬間、私はふと思い出した。
忘れてはならない。
この部屋に仕掛けられた、重要な違和感。
“あちら側”から与えられていた、たった一つのメッセージを。
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