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台所の換気扇がまわっている。健太はソファの上に両膝を乗せて窓を開けた。涼しい空気が頬に触れる。

あたりは薄暗い。

左下に見える駐車場から、髪を束ねた太った女性が出てきた。にきび面からは八重歯がのぞき、丸々とした力強い腕、胸より出っ張った腹、胴幹を太い足が運ぶ様相は、威風堂々という言葉がぴったりだ。彼女はそのまま、右下に見える門の手前、キヨシの部屋に入っていった。ツヨシが「ゴリラさん」と呼んでいるのはあの人のことか。

真向かいの二階の部屋には電気がついていて、ツヨシが四角い顔の男と話しているのが見える。

健太は部屋の中に視線を戻した。半袖のTシャツをさらに肩口までたくし上げたキヨシが、台所で野菜を煮込んでいる。髪を短くして一層ボーイッシュになったミエが、ポテトチップの袋を片手に横で口出ししている。体型も、性格も、声も、髪形も似ても似つかないが、健太にはここのところミエとマチコとがダブって見えるときがある。

彼らとのつながりのなかに、今生きている。

この熱がいつか醒めたら。健太はレシピを見ながらスパゲッティを茹でることになるだろう。ツヨシはインスタントラーメンに具を入れることになるだろう。毎日同じようなメニューが食卓に載るだろう。ただ、そのいつかはたまたま今日ではない。

この熱がいつか醒めたら。たった一人で凍えていた、アダルトスクールのカフェテリア。そこでミンと初めて会った、マチコと会った。そのつながりの中で、ツヨシと出会った。枯れていた健太の心に、水と光が差し込みはじめた。

すでに、マチコはいない。ミンもいない。でも今は、キヨシやミエがいる。

そのうち彼らも去っていってしまうのだろうか。

いつかはこの部屋からも熱が失せる日が来るだろう。こんな毎日がいつまでも続くはずはない。少なくとも、これまでの人生にはこんな連続はなかった。

この熱がいつか醒めたら。

いや待て。ミンがそのうち帰ってくるではないか。

背中で玄関戸の開く音がした。

「お帰んなさい」

キヨシとミエの声が順番に飛ぶ。振り向くとツヨシだった。

健太は窓を閉め、向かいにも日本人がいるんだねと言った。

「森さんのことか」とツヨシは言うと、話し始めた。

先日ツヨシは、昔働いていた映画会社の先輩の家に食事に招待された。そこには俳優志望の若者が数人列席していたが、そのうちの一人が森さんだった。住所を聞いたら異様に近い番地だったので、今日は訪問してきたのだという。日本人コミュニティーとはかくも狭いもので、知り合った日本人が誰かの友達だったとしても、この話を聞いて以降、健太は偶然という名を使うのをやめた。さらに聞けば、森さんはツヨシと同じ二十九歳で、健太よりも二つ年上である。日本では小さな役柄をもらう売れない俳優をやっていたが、思い切って大陸に活路を見出してはや一年が経つらしい。俳優学校に通いながら、普段はスシ屋でバイトをしているという。

「それよかさ、今度はミエちゃんが来るようになるとはな」ツヨシは健太にしか聞こえない声で言った。そして、ジャケットを脱いでハンガーに掛けた。

ミエの大きな笑い声と、キヨシの京都弁が交互に響く。

「きっと寂しいんだよ、ああ見えて」

ツヨシは電話台の上にあるテレビのリモコンに手を伸ばすと、茶系のチェック柄がぼぼけたソファに沈んだ。

健太はツヨシの隣に座った。布地が薄くてバネが痛いので、座り心地はあまりよくない。背もたれによりかかって片腕を縁に乗せ、目の焦点をぼんやりさせているうちに、ブラウン管の両脇から「今年の桜のシーズンは終焉」という声が聞こえてきた。続いて、しばらく見ぬ故国の桜の木に若葉が芽をふき出している映像が浮かんだ。日本人向けのケーブルチャンネルだ。

「韓国はどうかな」台所からミエが言った。

「きっと同じやろ」キヨシが身を屈めて、コンロの火の元を調節している。

「マッチャンも花見したのかな」

隣でツヨシは呟いた。さあどうだろねと健太は答えた。

ツヨシは胸ポケットをまさぐった。いつもガムが入っているポケットだ。彼にとってのガムは、喫煙者の煙草と似たものなのかもしれない。ツヨシは「ま、いいや」というと「そういや新しいビデオを入手したから、今夜上映会やるよ。楽しみにしててくれ」と有難迷惑なことを言う。前回ツヨシに見せられた映画は、ただブレーキの壊れたバスがひたすら走り続けるものだったし、その前はひたすら葬式を描写するものだった。見終わるたびにツヨシは、カメラのアングルだの、台詞回しだのCG技術だのを詳細に説明しはじめるが、一視聴者の健太にはそんな関心はない。

台所が騒がしくなったと思っていたら「ならお姉さん、自分でやりなはれ」と、キヨシが大声をあげた。ミエの口出しについに我慢がならなくなったのだろう。ミエは何か言い返すかと思えば、「は~い、お兄ちゃん」と意外にも素直にフライパンを受け取り、とき卵を流し込んで揺すっている。もし健太が同じことをしたら、ミエは口もきいてくれなくなっただろう。

「もっとチャカチャカやりなはれ」と口を出すのは、今度はキヨシの方だった。ツヨシがその様子を見て、腹を抱えて笑っている。

食事が終わり、ミエが帰ったあとのキヨシの言葉数は少ない。その白い顔から、表情もあまり生まれない。たまにキヨシは健太のことを、ミエの影響からか「お兄さん」と呼ぶこともあるが(ちなみにツヨシのことは「大きいお兄さん」と呼んでいるらしい)、その語調は水のように無味だ。この差は、健太には今だに理解できない。ついでに言えば、あのようなたくましいルームメイトがいるのはもっと意外だが、ゴリラさんとの生活についてキヨシの口から語られたことは一度もない。

ハーバー共和国 (Ⅱ)

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