ざわついた教室に、いつもの“熱気のない騒音”が広がっていた。シャッター音。笑い声。机を指で叩くリズム──
その中で、遥はすでに立っていた。
窓際の席には荷物だけ。
本人は、教室の真ん中──後ろの机に軽く腰を預け、笑っていた。
「……ほら、今日も始めるでしょ?」
遥の声は、明るい。乾いているが、明るい。
「言われなくても分かるよ。オレ、空気読むの得意だし」
誰かが笑い、誰かがスマホを構える。
「え、今日“自発的”じゃん」
「マジで仕上がってんなぁ、遥くん」
遥は、わざと小さく息を吐くように笑ってから、
片膝をついてしゃがんだ。誰かの足元に。
机の脚に指を添えるようにして、上目遣い。
「ねえ、“やらせてください”って、こっちから言ったほうが嬉しいでしょ?
命令待ちとか、めんどくさいし。どうせやるんだから、最初から差し出した方が、スムーズじゃん」
その“演技”は完璧だった。
明るく、軽く、下卑た色気をほんの少しだけ混ぜた声音。
男子が声を上げて笑い、女子たちが口を手で押さえながら動画を撮る。
「うわ、今日ヤバい、仕上がりすぎ」
「ていうか、こんな従順でイイの? 引くわ〜」
「ちゃんと、調教されてきてるってことじゃん?」
「まあ、“飼い主”が優秀なんでしょ」
──そのときだった。
遥の顔が、ほんの一瞬、揺れた。
笑った口元。斜めに上げた眉。
そのすべてが、たった一拍だけ、
“止まった”。
目の奥が、
まるで何かを吐き捨てるように冷たく凍りついた。
嫌悪にも似た硬さが滲み、笑みが“ひきつった”。
──だが、誰も気づかない。
笑いは続き、カメラは動き、言葉が交錯する。
ただ一人、
教室の隅にいた日下部だけが、その“瞬間のズレ”を見逃さなかった。
(……今の、なんだ?)
言葉にはならなかった。
遥はこちらを見ない。
ただ、机に頬を寄せ、つぶやく。
「ねえ、オレ、まだ“足りてない”?」
「もっとお望みなら、なんでもやるよ。……ね、“壊す”の、楽しいんでしょ?」
それは、“される側”の台詞ではなかった。
完全に、“壊されに行く側”としての意思表明だった。
──だけど、楽しんでるように見せているだけ。
楽しんでいるように“見せ続けること”が、彼の武器であり、鎧だった。
(嘘だ──嘘の顔だ。全部、演技だ。だけど、あの一瞬……)
日下部の喉が、無意識に詰まった。
誰もその沈黙に気づかない。
教室は狂騒のまま、チャイムの音に飲まれていく。
遥は、仮面を貼りなおしたように笑った。
──「見ててよ、壊れるとこじゃなくて、
“壊されるフリ”で全部埋め尽くしてやるから」
日常が始まる。
誰も気づかず、ただ“楽しんでいる”つもりで。
そして日下部だけが、確信する。
──“本当に壊れていたら、あんなふうには笑えない”。